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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
これが、本当の最後なら。
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10

結局私は、妹の登場をただ眺めているだけだった。

遠い世界の出来事のように、ただ見ているだけ。言葉を挟むこともなく相槌さえ打つこともなく、置物のようにそこに「有る」だけだった。

これが舞台であるなら、主役の登場に拍手でも送っているところであるが、これは生憎現実であったから。

出来すぎた物語が進行していくのを見ているしかない。


私が見ていることに気付いている人間などどこにも居ないだろう。

私は多分、どこまでも脇役で。

だけどもしかしたら、物語の登場人物ではなく、傍観者ですらないのかもしれない。


「ソレイル様が、どなたかと食事をなさっていると聞いて」


突然食堂に姿を現したシルビアはそう言って、恥ずかしげに目を伏せた。そんな彼女を優しく見守るソレイルとサイオン。


「ああ、なるほど!ソレイルがどこぞの誰かと食事をしていると聞いて、その女の顔を見にきたというわけだね!!」


明るい声は若干、芝居がかっていたように思う。

よく通るサイオンの声が食堂に響いて衆目を集めた。

言っている内容はシルビアとさして変わらないにも関わらず、言い方ひとつでこうも違う印象を受けるのか。そのもの言いだけだと嫌味にとられてしまいそうだが、表情を窺えばそんなことはなく、からかっているだけだということが分かる。

それを言われた対象がシルビアだということもあって、それはひどく微笑ましい光景に映った。


「……ち、違います、私は……」


サイオンの言葉を否定して俯くシルビアの頬は赤く染まっている。

どこかから「何て、可愛らしい」と溜息混じりの声が漏れた。

実際、妹はとても愛らしかった。それはいっそ、同性でさえも惹きつけそうなほどに。

シルビアの様子を見て、周囲の人間は誰もが頬を緩ませるのだ。知り合いでも、そうでなくても。

見守りたいと思わせる何かが、彼女にはある。


シルビアが現れたその瞬間から、私と「この世界」は分断されてしまった。

シルビアとソレイル、それにサイオンが存在する世界はガラスを一枚隔てた向こう側に霞むのだ。

ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、指先を握り締める。

拳を振り上げれば、きっと、ガラスを砕くこともできるだろう。強引に、ガラスの内側に入ることだって難しくない。

だけど、砕けたガラス片で怪我をするのは私だけだ。

彼らは私を非難するだろう。自分たちの安息を、愉しみを、邪魔したと。

その心無い言葉に傷つくのは私だけで、彼らは私を傷つけたことにも気付かない。


思わず弧を描きそうになった唇を押さえて、何事もなかったかのように彼らを見つめる。

私の視線に気づきもしない三人は、この出来事がさもおかしなことのように笑い合っていた。

そもそもソレイルがどこの馬の骨とも知れない女性と食事をするなんて有り得ないと。


「……だけど、本当に良かった。お姉さまと一緒だったのですね」


私が座っている椅子の横まで回り込んで、覗き込むように身を屈めたシルビアが目を細める。

ソレイルの対面に座っているのが私であることに気付いていたようなのに、わざわざ顔を確認するのには何か意味があるのだろうか。

シルビアの吐き出した冷たい呼気が私の頬を掠める。

心底、安堵しているかのような彼女の様子に、笑みを浮かべながらさり気無く視線を外した。

ソレイルがほかの誰かと食事をしていたからといって、シルビアが案ずるのは私のことではない。

きっとそうだ。

私で良かったというのは、その言葉通りの意味しか持たない。

ソレイルがもしも、ほかの女性と食事をしていたなら傷つくのはシルビアだから。

だから、ソレイルの相手が私で良かったとそんな風に思っているのだろう。


本来なら、傷つくのはソレイルの婚約者である私のはずなのに。

シルビアは私を心配していたわけではない。

ソレイルが知らない女性と食事をしている場面を想像して、無用な心配をしていただけに過ぎない。

この学院で、男性が婚約者でもない女性と食事を共にする意味を、シルビアもやっと、理解し始めている。


ソレイルと一緒に食事をしている異性が私だと分かったとき、シルビアは安堵した。

それが全てを物語っているのだ。

私のことを、警戒するほどの人間ではないと思っている。本能的にそれを悟っているのだろう。

警戒するにも値しない人間だと。

ソレイルの気持ちがどこにあるのかは気づいていないのかもしれない。

だけど、私に向いていないことくらいは知っている。


―――――ああ、どうして。

私はこんなにもシルビアの気持ちが分かるのに。

私たちは決して、寄り添うことがない。共に人生を歩む未来は、ない。


「……君も一緒に座ったらどうだ」


ほんの僅かな沈黙を埋めるようにソレイルが静かな声を発する。

心地のいい、優しい声音だ。他の人間には、いつもと変わらない声に聞こえるだろう。

だけど、この場で私だけが、彼がいつもと違うことに気付いている。


いつもと変わらない様子の、いつもとは違う彼。


フォークを握った指先が微かに震えたけれど、そうと悟られないように指を揃える。

いつかのように、食事中に物音をたてて怒っていると勘違いされてはたまらないと思ったから。

サイオンという第三者が居るから何なのか、普段よりもずっと冷静に対処できている。

他人の目というのはいつも、私に己の使命を思い出させるのだ。

侯爵家嫡男の婚約者としての「立場」は、いつだって私に「演じる」ことを強要してきた。

余裕がなくとも余裕がある表情で、動揺していても平静が振る舞いで、悲嘆に暮れていてもそうとは見せずに、貴族の令嬢として正しい行いをするように。

重ねた人生で、何度も何度も演じてきた役目だから難しいことではない。

だから私は、誰にも心情を悟られないような笑みを浮かべることに成功しているはずだ。


「お誘い、ありがとうございます」と、心底嬉しそうに笑うシルビアに、私も微笑みを返す。

恥ずかしそうに視線を下げている妹に声を掛ける余裕さえあった。


「体調はもう大丈夫なの?」と。


だけど、選んだ言葉はきっと間違っていた。

私がそう言ったから、シルビアも「……ええ、あの、お姉さまも……」と肯きながら何かを言いかける。

きっと昨晩のことを気にかけているのだろう。

しかし、私が浴槽で溺れたことは内々に納めるはずのことだった。だから、シルビアもすぐさま己の失言に気付き、「あっ」と慌てて首を振る。

そして、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と蚊のなくような声で呟いた。

その身を縮めた姿がどこか哀れで、ソレイルがほんの一瞬だけ渋い表情をする。

すっと私の顔に移った彼の目が、事情も知らないのに、無言で責めたててくる気がした。

その視線に気付かなかった振りをして、「いいのよ、シルビア。気にしないで」と言ったところでテーブルの上に落ちた嫌な気配をかき消すことはできない。


「何なに、どうしたの?」嬉々として食いついてきたのは、やはりサイオンだった。

気まずそうに顔を上げたシルビアが「いいえ、何でもないんです」と困ったように笑う。

「そんなこと言われるとますます気になっちゃうなぁ」

サイオンは「ねぇ」とソレイルに同意を求めて、意味ありげに唇の端を歪めた。

「……本当に何でもありませんから」とシルビアを援護するつもりで語気を強めれば、なぜか反応を示したのは当の本人で。「ごめんなさい、お姉さま」と、華奢な体をますます小さくする。

意地悪をしているわけではないのに、なぜ、そんな顔をするのだろう。

ただただ不思議で、その小さな顔を眺めていれば「まぁまぁそんな顔しないで」とサイオンに窘められる。

明らかに私へ向けられた言葉だと分かっていたけれど、諌められるような顔をしていた覚えはない。

睨んでいるように見えたのだろうか。けれど、当然、そんなつもりはない。

だから、少し前までの私であれば、かっとなって反論の一つでもしていたところだろう。

何もしていないのに責められるのは余りに理不尽だ。

だけど、そんなことをして不利益を被るのは自分だと、今なら分かる。

胃の底に溜まった熱を吐き出すように小さく呼吸を繰り返し、視線を落とす。

周囲の視線から逃れるにはそうするしかないと思った。


ソレイルは視界の隅で、優雅にナイフとフォークを動かしている。

私たちの会話には興味も示さない。

いや、違う。「私」に興味がないのだろう。


「ほらほら、ソレイルも気になってるんじゃないの」

明るく振舞っているサイオンに「いい加減にしないか」と静かな声を発し、「お前がそんな風だと、シルビアが食事できないだろう」と息を吐く。

あくまでもシルビア主体な言葉に、今度こそ笑いを堪えることができなかった。

ふっと吐き出した息に気付いたのは、ソレイルだ。

こんなときだけ目敏いらしい。


「イリア?」


彼が私の名前を呼ぶたびに、心臓がぎゅっと小さくなる。

いつかの人生では、名前さえ呼んでくれなくなった。

私のことを「憎い」といい、「決して赦さない」と罵声を浴びせ、鋭い視線で心を砕いた。

その姿をよく覚えている。

思い出せなくなったことも多いのに、ソレイルが私を拒絶する様子だけははっきりと覚えているのだ。

思い出したくなくても、忘れたくても、どうしようもなく覚えている。


こみ上げた笑いと、どうしようもない切なさが混在して泣き笑いのような顔になった。

顔を上げれば、こちらを見ていたソレイルと目が合う。

その刹那、目を瞠った彼はすぐさま視線を逸らした。

まるで、何事もなかったかのように。

正しい反応だと思う。これが彼のいつもの姿だ。

シルビアに相対しているときとは違って、普段と何ら変わりない。

そんな彼を見て、酷い言葉を投げつけられることがない分マシだと思っている私はきっと、普通ではない。


「それでそれで?一体何があったの?」


まだ諦めていなかったのか、上半身を乗り出すようにしてシルビアの顔を覗き込んだサイオンに「あまり、この子を困らせないでください」と声を掛ける。

それはほとんど無意識の行動だった。

何かを考えていたわけではない。

ただ、シルビアがほんの少しだけ眉をひそめたように見えたから。

その、どうにも庇護欲をそそる顔に反応を示してしまったのだ。

けれど反応を示したのは隣のテーブルに座った学院生だった。

一体いつから聞いていたのか、どうやら私たちの会話に聞き耳をたてていたようだ。


「……噂通り、きつい女」


思わず口に出してしまったという感じの声だった。

だからこそ、それが本音だということが分かる。

誰かに言ったわけでもなさそうな、ただの独り言と思えるその声は、ざわつく食堂の中に霧散して消えた。だけど、私の耳にだけははっきりと響いた。

それが自分に向けられた言葉だということが分かっていたからだ。

己に向けられた悪意には誰だって敏感になる。

ほかの人間に気付かれてはいないかと、ソレイルやサイオン、シルビアの顔を窺うが彼らの興味は既に別のところへと移っていた。

そんな何気ない態度が、私のことなどどうでもいいと言われているようで。

再び、世界が二つに引き裂かれていく。


「……イリア?」


ソレイルが私の異変に気付いたのは、昼休みが終わる5分ほど前のことだった。

それまで黙りこくっていた私には意識さえ向けなかったのに、気まぐれに寄こした視線の先で俯く婚約者に声を掛けずにはいられなかったのだろう。

だってそうだ。彼は昔からそうだった。いつだって、私の「正しい婚約者」であり続ける。

「いいえ、何でもありませんわ……」

そして私も、彼にとって都合のいい婚約者であり続けるのだ。


何の救いもない、虚しい関係だと知りつつも。

何かを変える気力さえ削がれてしまって、ただただ現実を受け入れるしかない。

一つ前の私は一体何を成し遂げただろう。その前の私は?そのもっと前はどうだっただろう。

私は、いつかの人生で、何かをやり遂げたことなどあったのだろうか。

ソレイルの傍に居るために、あるいは、己が理不尽な最期を迎えないために生きてきたけれど。

それには一体、何の意味があったのだろうか。


何をどうしたところで、ソレイルの心を手に入れることなどできないと。

とっくの昔に気付いているのに。


差し伸べられた小さな手を忘れることができない。


ソレイルの手はきっと、葦であり草であり小枝であり、木の根であったのだ。

水に浮かぶそれを、必死の想いで掴み取った。水底に溺れていく私は、そんなものに縋るしかなかったと言える。掴んだところで、水面から顔を出せるわけでもないのに。

その先に、私を掬い上げてくれるものがあったわけでもないのに。

それでも、もがき続ける私は、何かを掴まずにはいられなかったのだ。

助かりたいと思っていたかどうかも分からない。ただ、一人で沈んでいくのはひどく恐ろしかったから。

胸に抱いた小さな小さな草の葉を、大事に両手で包み込んだ。

ぶくぶくと沈み込んでいく水面の向こうに、何か大事なものが映りこんでいる気がするのに。

それが何か判断できないままに、私は意識を消失する。


だって、そのほうが良かったから。

何も知らないほうが……その方が、良かったのだ。



















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