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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
これが、本当の最後なら。
24/64

7

ごぼり、と吐いた息が大きな気泡となって上昇していく。

苦しい。息ができない。

そう思って大きく口を開けば、また一つ、気泡が上がった。

空気を吸い込もうと喉の奥が大きく開く。だけど、肺が膨らむことはなく、むしろ圧迫されているような重みに嘔吐感さえ覚えた。

自分では咳をしたつもりなのに、次々と気泡がもれるだけで息苦しさは変わらない。

というより、息ができなかった。

ごぼごぼと、嫌な音がして顔を覆うように気泡が広がる。

あまりの苦しみに腕を伸ばせば、体に纏わりついていた何かが大きく揺れて遠ざかった。

しかし、すぐに元の位置に戻って私の体を拘束する。

上に向けて伸ばした指先が何かを突き破って空気に触れた。遠くで「ぱしゃり」と水音が響く。

そのときになってやっと、自分がどこに居るのか気付いた。

沈んでいるのだ。

水の中に沈んでいる。つまり、溺れていた。

この瞬間まで気付かなかったのは、意識を消失していたからにほかならない。

唐突に覚醒したのは、肉体が警告を発したからだろう。このままでは死んでしまうと。

さっきまで入浴していたことを思い出せば、自ずと、ここが浴槽の中であると理解できる。

体勢を整えようと、伸ばしたほうとは逆の手で体を支えようとするのだが上手くいかない。底についたはずの手の平はつるつると滑るばかりだ。

ついには行き場を失った片足が、水面を突き抜けて大きな音をたてる。

それを追うように、もう片方の足が先ほどよりももっと大きな音をたてて沈んだ。

そうやってもがいていれば、相変わらず上半身は完全に沈み込んでいるというのに、苦しみからは遠ざかっていく気がした。

意識が朦朧としているのかもしれない、と思うけれどそれを確認する術はない。そもそもが水中なので、すべての境界線が曖昧なのだ。

溺れている自分さえ、現実かどうか分からない。


「―――――っ!……じょうさまっ!……あ、さま―――――!!おじょうさま!!」


揺らぐ水面の向こう側に誰かの顔が見える。ぼんやりと滲んでいるので特定できないが、格好からして侍女だろう。

物音に気付いたのか、それともあまりに時間がかかるので様子を見にきたのか。

お嬢様、お嬢様と何度も私を呼びながら、浴槽の中に腕を突っ込んで持ち上げようとしてくれる。

しかし、女性一人で、同じような体格の人間を持ち上げるのには無理があった。

一層、水底に沈んでいくように体が落ちる。

ごくりと息を呑んだつもりだったが、大量の水が喉を通っていった。

視界が暗くなっていく気がする。


「―――――っだれか!だれか!!」


くぐもった音で、彼女がほかの人間を呼び寄せているのが聴こえる。まだ耳は死んでいないらしい。

やがて、盛大な物音と共に侍女と幾人かのメイドが現れ、私はやっと浴槽の中から救出された。

と言っても、上半身が水面を出た程度である。

げほげほと盛大に咳き込みながら縋りつくように侍女の腕をとれば、相手が震えていることに気付いた。

青褪めた顔で私の顔を覗き込んでいるのはマージだ。痛ましげに歪められた眼差しが、胸に突き刺さる。

なかなか整わない呼吸に何度も咳を繰り返しながら、それと同時にすっと冷めていく頭で考えた。

こんな失態は、有り得ない。

一人で入浴したことも褒められたことではないし、浴槽で溺れたことも笑い事では済まされない。

私はもう幼子ではないのだから、責任はすべて己にある。

貴族の子女らしく、侍女の手を借りて入浴すべきだったのだ。

せめて、浴室内に誰か置いておくべきだったと思う。

私は、次代の侯爵夫人なのだから。己の身を守ることさえ「義務」として課せられた使命なのだ。

それはつまり、己の身を守る為に最善を尽くさなければならないということである。

知っていたはずなのに。

「……っふ、」

苦しさから逃れる為に息を吐き出したのか、それとも、己の馬鹿さ加減に嘲笑が漏れたのか。

それさえも、もう分からない。


やがて別の侍女が背中から包み込むようにしてタオルを掛けてくれた。

冷え切った肩を温めてくれるのにはちょうどいいのだが、半分くらいが湯船に沈んでいるために酷く重い。

自分で立ち上がることもできずに呆然としてしまう。

浴槽の両端から二人がかりで私を引っ張り上げようとするのだがなかなかうまくいかず、せっかく掬い上げてくれた体が再び沈んだ。

骨を失ったかのようなぐずぐずの体は全く言う事をきいてくれない。

知らぬ間に溜息が漏れて唇が半分ほど湯に沈んだそのとき、


―――――バンッ!


閉められていたはずの扉が大きく開かれて金髪の男が飛び込んできた。

額に汗が浮いているような気がするのは気のせいではないだろう。


「アルフレッド様!」


声を上げたのは、力が入らない私を支えているマージだ。

私に巻きつけているタオルの数を増やし、アルの目から隠そうとしている。

しかし、アルは少しも動じることなく浴室の中に入ってくるとマージを押しのけた。

再び、アルフレッド様!と悲鳴のような声を上げる彼女にも構わずに、私を浴槽の中から掬い上げてくれる。


いくら護衛といえど異性に肌をさらすのはよくないことだと私も重々承知しているが、ほっと力が抜けたのもまた事実だった。足先はとうにふやけていて感覚も鈍くなっている。

「……なぜ、一人で入らせたんだ」

ちら、とマージに視線を移したアルが低い声で唸った。

「……そ、それは、」途端に歯切れの悪くなったマージが視線を彷徨わせる。


「……私が一人で入りたいと、言ったのよ」


それにマージはさっきまで居なかったと、軽く咳き込みながら口を挟めば、アルは眉を寄せて首を振った。

「優秀な侍女と聞いていましたが、そうではないようですね」と、いつになく淡々とした口調で言う。

「主の言うことを何でも聞くのが優秀な侍女のやることとは思えません」

声音に熱が篭っているようには思えない。

けれど、怒気を纏っているのが分かる。

「……ごめんなさい、アル。私が悪いの」

アルの鋭い視線を向けられた侍女はすっかり萎縮していた。だから、返事ができずにいる彼女の代わりに努めて明るく言ったつもりだった。けれど、上手くいかずに語尾が震える。

死ぬところだったのだから当然だ。

それを知ってか知らずか、アルは感情の乗らない声でぴしゃりとはねつけた。

「お嬢様が謝る必要などありません」

先ほど侍女たちが四苦八苦していたのが嘘のように、彼は軽々と私を抱き上げた。

そして危なげない動作で運び出す。

異性であるアルが浴室に入ってきたことにいい顔をしていなかった侍女やメイドたちも、男手が必要なことを理解したのか黙って見守っていた。


元々、自室に備え付けてある浴室に入っていたので、脱衣室を抜ければそこはもう私の寝室だ。

ほかの誰にも会うことはない。先に浴室から出ていた侍女が、アルの腕に抱かれている私にガウンを被せた。

タオルだけでは心許ないと思ったのだろう。

アルは、私をそっとベッドの上に乗せると、「後ほど参ります」と言い置いて退出した。

服を着る時間を与えてくれたのだ。


力の抜けていた体を叱咤して上半身を起こせば、ガウンを剥がされて、今度は夜着を渡される。

渡してくれたのが誰なのかも確認せずに、袖に腕を通していれば震える声が告げた。

「お嬢様、申し訳ありません……」

私の顔を見ることもなく深く頭を下げているのはマージだ。

この場に居合わせた侍女の中で一番年嵩であるが為に、代表して謝罪しているのだろう。

「さっきも言ったけれど、貴女が気にすることはないのよ。私が言い出したことなのだから」

ぼんやりとしていた意識も戻ってきている。指先は震えることなく、唇もきちんと言葉を発することができた。そのことに、どうしようもなく安堵する。


死ななかった。

―――――私はまだ、生きている。


「ごめんなさいね」と、重苦しくならないように軽い口調で言いながら、マージの肩に触れた。

すると、弾かれるように顔を上げた彼女は「おやめください……っ!」と声を上げる。

そして、私の手から逃れるようにニ、三歩後退した。

ほんの少し離れただけなのに、たったそれだけで、私と彼女は触れ合うことができなくなる。

近くに居るはずなのに、なぜか遠く離れている気がした。


いつの間にか他の侍女は退室して、部屋にはマージと二人きりだ。

しんと静まり返った部屋に、平静を取り戻した彼女の声が響く。


「……謝罪など必要ありません。私が、侍女として至らなかっただけなのですから」


その様子を見れば、彼女が本当に悔いているのが分かる。

だけど、私の頭を支配するのは、浴槽の中で水に呑まれたそのときに見ていた夢のことだ。

自分が死ぬ瞬間の、全てを喪失していく感覚。その衝撃。

飽きるほど何度も経験したというのに、慣れることはない。

苦しくて痛くて悲しくてどうしようもない。言葉で表すことなどできるはずもない。

死の間際にあれほどの苦痛を与えるのは、なぜなのだろう。

せめて穏やかな死を迎えることができたなら、と何度も願った。

死に逝くときには、いつもそれを考えた。


ぼんやりと思考を彷徨わせたまま「だけど、私が悪いのよ」と呟く。

今回のことだけじゃない。いつだって、私は自身で不幸を呼び寄せる。

これほどの人生を重ねて、何度も繰り返し、もしかしたら修正のきくかもしれない人生を送っているというのに。

―――――私は、上手く、生きられない。


「インクを零したり、浴槽で溺れたり……私ったら、本当にどうしようもない」


自分を卑下して笑わせるつもりが、予想外に深刻な声になってしまう。

頭を下げたままのマージの肩が小さく揺れて、はっと顔を上げた。その手は胸元を強く抑えていた。

まるで苦しんでいるかのように。

普段は美しく調えられている襟元が、彼女の手の平にぐしゃりと潰されている。

「……マージ?」

「なぜ、なぜお嬢様は……そんなにお優しいのですか。私は叱責されてもおかしくないことをしました。他の侍女に任せるのではなく、私自身がお嬢様の傍に着いているべきだったのに……!」

アルに責められたことがよっぽどこたえたのか、マージは今にも泣き出しそうな顔をした。

いつも冷静な彼女にしては本当に珍しい。

幼い頃、同じ時間を共有していたときの彼女は、いつも凪いだ目をしていた。


普段はシルビアに付きっ切りの彼女と二人きりという、滅多にない出来事に、何と言って彼女を励ませばいいのか分からない。

思わず、「貴女はシルビアの侍女なのだから、気にすることはないのよ」と言いそうになる。


けれど、吐き出すつもりだった言葉は喉の奥に詰まったまま外に出て行く様子はない。

それを今ここで口にしてしまえば嫌味と捉われるに決まっている。

それが分かったから、どうしても声に出すことができなかったのだ。

彼女が私に責められることを望んでいるのだとしても。そんなことは言いたくなかった。

マリアンヌが、そしてたった今マージが私のことを形容したように、寛容な人間でいたかったのだ。

全てを許し、全てを慈しみ、全てに優しさを与える。


私は、ずっと、そういう人間になりたかった。


*

*


結局、ひたすらに謝罪を繰り返すマージに掛けることのできた言葉は「有難う」だけだった。

その心遣いが嬉しいと笑みを浮かべて礼を言う。そうすれば全てが丸く収まることを知っていた。

誰かと会話をしている最中に、相手と上手く意思の疎通が図れないときは、とりあえずお礼を言って会話を打ち切るのだ。

そうすれば大抵の場合、お互いに不快な思いをせずに済む。

けれど、私が笑みを浮かべてもマージを納得させることはできなかった。


幼少期、彼女が私に教えこんだことであるというのに。


「いつ何時も、淑女であれ」

それはつまり、どんなときでも淑女は姿勢を正し微笑みを湛えているべきだと、そういうことだったはず。

―――――私は、ちゃんとやっているでしょう?

思わず、そう口にしようとしてやはり言葉を飲み込んだ。

マージはしばらく私の顔を見つめていたが、小さく息を落として深く頭を下げた。

そしてそのまま、私の視線を振り切るようにして部屋を出て行く。

私に背を向ける前に一瞬だけ見せたその顔は、はっきりと傷ついていた。


待って、と声を掛けそうになる。行かないでと。

そうだ、置き去りにするのは私ではない。

私を捨てたのは、マージのほうなのに。

まるで、見捨てられたような顔をするなんて、ずるい。


ベッドに横になって大きく大きく息を吸って、瞳を閉じる。

私は伯爵家第三位の貴族の子女で、侯爵家嫡男であるソレイルの婚約者だ。

だから、こんなことで動揺すべきではない。

冷静でいなければ。揺らぐ精神を、誰にも悟られないように。

何事にも動じず、むしろ、相手に威圧を与えるような強さを誇らなければ。

そうなるべく、育てられてきたのだから。


だけど、どうして。

悲しみを抑えられないの。


「……貴女が浴槽で溺れたと報告があったのよ」


マージが私の部屋を去った僅か数分後、部屋へ現れたのは母だった。

母は、心配しているというよりは何かを考え込んでいるかのような難しい顔をしていた。

起き上がろうとしたのだけれどそのままでいいと言われたので、ベッド脇に腰掛けた母を見上げる格好になっている。

ふと視線を感じて部屋の隅を見れば、そこに私の護衛騎士が見えた。母と一緒に入室したのだろう。

彼は眉間に皺を寄せているものの、怒っているわけではない。

私を案じているのだろう。長い時間を共にしてきたからこそ、彼の優しさが手に取るように分かる。

かつては、その想いを読み違えて彼を失うことになってしまったけれど。


「体調が悪いわけではないのね?」


母に問われて肯けば、その人は大きく息を吐き出して額を押さえた。


「……お母様?」

「心配させないで」


下を向いたまま呟いた母の悲愴な様子に、何だか胸が熱くなる。

いつもは私のことなど気にもかけないというのに、どうやら心配してくれたらしいと知って心が解れていく。

不謹慎だとは思うが笑みまで零れそうになって、


「心配はあの子だけで充分」


という母の声を、この耳はしっかりと聞き取った。

浮かびそうになっていた笑みが、一瞬で壊される。それでも唇は何とか柔和な線を描こうと小さく動いた。

寒さに震えているかのようにがちりと歯がぶつかる。

私の動揺を悟られたかもしれないと顔を上げるけれど、母は相変わらず難しい顔をしたままで。

もしかしたら、先ほど聞いた言葉は幻聴かもしれないという想いさえ過ぎる。だけど、


「困るのよ」


貴女まで、そんな風では困るのよ。と、そんな言葉が吐き出されて私の顔に降ってきた。

生ぬるいはずの吐息はなぜか、ひどく冷たくて。

頬を滑る言葉の刃が、氷のようにざくざくと皮膚を切りつけていく。

そんなのただの幻だと分かっていても、その痛みに唇の端が歪む。

この痛みが幻だったとしても母の唇から落ちてきた言葉は事実だと分かっていた。

咄嗟に耳を塞ぎたくなって両腕を持ち上げようとする。

だけど、疲れ切った私の腕はほんの僅かに動かすことができただけで、ずしりとシーツに沈んだ。

鉛のように重い。

抵抗するかのように動いた指先が、意味もなく布地に爪をたてた。


「シルビアもなんだか調子が悪いって言っているの……」


あの子は体調が良くなったと思えば悪くなったりするから油断できないのよ。と眉を下げる。

その顔を見ているのが何だか辛くて、一つ瞬きをすれば、先ほど書庫で見た光景が目前に広がった。

優しい陽だまりの中で、楽しそうにはしゃぐあの子。

そんなあの子を追いかける両親の姿。

きっと、長い時間日差しを浴びたのが原因なのだろう。もしかしたら、普通であれば気持ちよく感じる柔らかな風さえシルビアにとっては毒なのかもしれなかった。

母は、あのとき。

絵に描いたような幸福の中に居たあのとき、私がどこに居るかなんて気にも留めなかったのだろう。

いつ、どんなときも、シルビアの居場所を把握している母。

例えば、シルビアの姿が自室から消えたなら、それこそ屋敷中がひっくり返るほどの大事件になるに違いない。母はそれこそ半狂乱になるに決まっている。

だけど、私が消えたところで騒ぎになったりはしない。

この屋敷での私の存在価値などその程度のものなのだ。


何せ私は、侯爵家からの預かりモノであるそうだから。

ソレイルの婚約者になるというのは、そういうことだったのだ。


母は、悲しそうに「あの子は、本当に弱い子だから」と告げた。

私はそれにただ「……ええ、本当に」と、肯くことしかできない。

掠れた声がやけに弱々しく聞こえたけれど、そう思ったのは私だけのようだった。

「浴室で溺れるなんて……貴女、どうしたの?」

問われて答えに窮する。

眉を寄せたその顔は、はっきりと私を非難していた。貴女は曲がりなりにも侯爵家嫡男の婚約者なのですよ。と分かりきったことまで口にされる。

暗に、浴槽で溺れるなんて恥ずかしいことは止めてくれ。とそう言っているように聞こえた。

『もう、甘えてはいけませんよ』

幼少期に、母から与えられた拒絶の言葉が甦る。


苦しくて細く細く息を吐き出す。上手く息を吸うことができなくて、何かが胸を塞いでいる気がした。


水に溺れているわけでもないのに、どこまでも沈んでいく感覚がするのだ。

「足が滑ってしまって」と、笑ってみせれば本当に可笑しい気がして。

喉の奥が何度か鳴った。本当に、笑っているみたいに。

母は「しょうがない子ね」と、小さく息を吐く。

そして、僅かに苦笑する。

顔と顔を合わせて、目と目を見つめあい、お互いに笑みを浮かべているというのに、心はどこか遠くに追いやられている。

だけど、私はきっと母の望むとおりの反応を示すことができたのだろう。

母はそれ以上、私を責めなかった。


ああ、私は間違えなかったのだと、誰にも知られないようにそっと胸を撫で下ろす。


「……奥様、そろそろお時間です」


私の母の間に下りた静寂を破ったのは部屋の隅で事の成り行きを見守っていた私の護衛だった。

きっと、気を遣ってくれたのだろう。

母と私の間に流れる空気はいつだって、穏やかなものとは言えない。

彼がそれに気付かないはずはないのだ。

母はすっと私から視線を逸らして、アルに「そうね」と優しげな笑みを浮かべた。

そして、ゆったりと腰を上げる。

それからは、一度も私の方を振り返ることもなく扉を開ける。

まさか、その背中を見つめられているなんて想像もしていないのだろう。

いや、もしかしたら。

知っていて振り返らないのかもしれなかった。


縋るような眼差しをして、まるで幼子のように母親の温もりを求めている自分が、どうしようもなく憐れで惨めだった。


「お嬢様、申し訳ありません」


扉の向こうで待ち構えていた侍女と共に母が去った後、部屋に残されたアルがおもむろに頭を下げた。


「……何に対する謝罪なの?」


純粋な疑問だったのだが、アルにとっては違うように聞こえたらしい。

私の問いに答えることもなく「……申し訳ありません」と再び、頭を下げる。


「貴方たちは、謝ってばかりね。そんなに、私に悪いと思っているのかしら」


ふ、と笑みが零れて、なぜか涙が滲んだ。

アルは黙って私の顔を見つめている。


「母を呼んだのは、貴方なの?」

何となくそんな気がして問うてみれば、アルは「いいえ」と首を振る。

「じゃぁ、マージね」導き出した答えに溜息が混じった。

「止めるべきでした」と、搾り出すように言ったアルが溜息を呑み込むように唇を引き結ぶ。

つまり、先ほどの謝罪には意味があったということだ。


けれど、マージの行いが優しさからきたものだというのは何となく理解できた。

母親であれば、きっと何らかの手助けをするだろうとそう考えたに違いない。

娘の為に、最高の侍女を雇うべく行動した人だ。

いつだって、家族のために最善を尽くす。

母は素晴らしい人だ。

だって、母は、家族を愛している。

母のその姿は、何者にも形容できない。

「母親」だ。ただの、母親。それ以上でも以下でもない。


『貴女は今日から、ソレイル様の婚約者となるのよ』

『貴女には、幸福な未来が約束されているわ。侯爵家の夫人になるのだから』


『だから、今日から貴女は伯爵家の娘ではなく、侯爵家嫡子の婚約者となるのですよ』


ソレイルの婚約者と決まったとき、母はそう言った。

冷たくされたわけではない。酷い言葉を言われたわけでもない。

母は、間違っていない。

だけど。


「アル、」

「……はい」

「アル、」

「はい」


主とは言え、未婚女性の寝室に居るからだろう。

気を遣って、離れた場所から様子を窺っている護衛に苦笑が漏れる。

かつての人生と同じだ。伸ばした手は、繋がれることさえなかったけれど。

私はこちらに来て欲しいと望めば、逆らうことはない。


「……手を、握ってくれない?」


声が、醜く歪んだ。

頼りなく震えた吐息は、視界を揺らす。

覚えのある光景に、どうしようもなく泣き出しそうだった。

いつかの人生と同じだ。

いつかのときも、やはりこんな風に二人で向き合っていた。

あのときと同じように、ベッドから数歩離れたところで立ち止まった彼が手を差し出すことはない。

今、そんなことをすればただの主と従者ではいられなくなると互いに理解しているからだ。


「いいえ、違うの、言ってみただけよ」

「……はい、分かっております」


苦しくて悲しくて、どうしようもない。

そんな想いに胸が潰れそうになったことなんて数え切れないほどだというのに。

耐性が付くことはなく、同じように何度も傷ついて、同じ深さで痛みを負うのだ。

心など、捨ててしまえればどれ程楽だっただろうか。


自分は、誰にも愛されないのだと諦めてしまえれば。

そうすれば全てはもっと円滑に進んでいくのだろう。


「……アル、私の話を聞いてくれる?」

「はい、もちろんです」


「私と、シルビアと……両親の話よ」


―――――生まれたそのときから、愛とは無縁のところに居た私の話よ。

そう口にすると、心臓が収縮するような嫌な感じに襲われた。


誰かに聞いてほしかった。だけど、誰にも聞いてほしくなかった。

誰かに理解してほしくて、だけど、誰にも分かってほしくなかった。

愛されているはずだと自分に言い聞かせながら生きてきた私の、惨めな人生を。

軽々しく、理解できるなんて言ってほしくなかったのだ。


理解してほしかったのは、たった一人。

あの黒い瞳は、いつだって全てを見抜いていたから。


「シルビアはお姫様なの」

「ええ」そうでしょうとも、と彼は深く肯く。

屋敷内でシルビアはまさしく、そんな風に扱われていた。両親からも使用人からも。

掌中の珠のように大切にされてきたから、まさしくそういう存在だったのだ。

だけど、それとは意味が違う。


「いいえ、アル。これは比喩なんかじゃないのよ」


シルビアは、正真正銘「お姫様」なの。

そして、物語の主人公なのよ。


アルの目が、驚きに満ちて私の顔を捉える。

そこに交じるほんの僅かな恐れと慄き。

知ってはならない真実に触れてしまったとき、大抵の人間が彼のような反応を示すのだろう。


「そして私は、正真正銘、物語の脇役なの」











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