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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
これが、本当の最後なら。
23/64

6

「お嬢様……!一体、どうなさったのです!」


インクに塗れて座り込んでいた私を見つけたのは古参の侍女だった。

普段、書庫には顔さえ出さないというのに何の気まぐれかと目を瞠る。

彼女は、「そろそろ休憩を……」と言いかけて小さく息を呑み「何てこと…!」と声を上げた。

そして、慌てて踵を返し、扉に鍵を掛ける。

両親が屋外に居る限り、この書庫に出入りできるような人間は他にいない。

だけど万が一、誰かが扉を開けた場合に、私の姿が人目に触れないように気遣ってくれたのだろう。

確かにこんな姿を使用人に見られるのはよくない。一体何があったのかと余計な詮索をされるのが落ちだからだ。年若い使用人は、忠誠心が薄いからか口が軽い。年を経ていても、何かの拍子にうっかり口を滑らせることはあるだろう。

そうなれば、あっという間に良くない噂が広がってしまう。

インクをぶちまけて体を汚すなんて事態は、幼児でもなかなか経験することがない。

貴族であれば、幼少期から必ず誰かが傍に居るからだ。インクを零して体を汚すことがあったとしたら、それは傍に付いている人間の失態で本人のせいではない。

貴族に生まれるということは、そういうことなのだ。

誰かに庇護されることが当然で、守られて、大事にされて、尽くされることは特別なことではない。

当たり前のことであり、それが日常なのだ。


「……アルは?」


頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、「……アルフレッド様は所用で屋敷を出ておいでです」と申し訳なさそうな顔をされる。


―――――失敗した。


こういう事態のときに、異性を呼ぶのは好ましくない。

正しい反応をしなければ。貴族として相応しい態度をとらなければ。そう思い直して首を振る。


「いいえ、そうじゃないの、……貴女で良かった」


貴女が来てくれてよかった、と言えば、侍女は眉を下げて小さく笑みを灯した。

どんな顔をすればいいのか分からなかったのだろう。


こんな場所にたった一人きり。貴族の子女であるのに、インクに塗れたこの姿は惨めなものでしかない。

もしもこの場に、私を貶めようとする人間が居たなら。

指を指して笑っていたことだろう。

「何か拭うものは……」

座り込んでいる私に手を差し出して、自分が汚れるのも構わずに抱き起こしてくれた彼女が室内に視線を滑らせる。

「いいえ、大丈夫よ」

ふらつく足を叱咤して立ち上がれば、心配そうにこちらを見つめる茶色の瞳と視線がぶつかる。

「……お顔が真っ青です、お嬢様。気分が悪いのですか?」

優しく労わるように背中を撫でられて、ぐらぐらと揺れていた心が一層傾いた気がした。

彼女は古参の侍女であると同時に、シルビアの世話を一任されている女性だ。

元々、その役目はシルビアの乳母が負うはずだった。しかし、体調を崩して故郷へと帰ってしまったのだ。

そのため、数名在籍している侍女の中でも勤続年数の長い彼女が代わりを務めることになった。

両親もそれほどの信頼を置いており、今ではすっかりシルビアの専属のような扱いである。


だけど彼女は元々、私の専属だった。


いつかは侯爵夫人となる私の為に一流の侍女を雇うべく、母が数多の候補から選び抜いた人だった。

だから、ソレイルの婚約者となってからはずっと私の傍に居てくれた。

それなのに、何の断りもなかった。

いつからそうだったのかも分からないほど、少しずつ少しずつ、私の元から離れていったのだ。

父か母がそうするように指示を出したのかもしれない。理由は知らないし、聞く気もない。

今更どうにもならないことだと知っているから。


だけど、それに気付いたときの私は少なからず衝撃を受けた。

勉強の合間にふと顔を上げてみれば、いつもそこに居たはずの彼女が居なくなっている。

何か所用でもあるのかと気にせずにいれば、いつもまでも戻ってこない。

そういう日々を何日か過ごして、さすがに無視することができなくなり、彼女を捜すことにした。

ほかの誰かに彼女の行方を聞かなかったのは、私が彼女の主だという自負があったからだ。

主である私が知らずして、ほかの誰が知っているというのだ。……そういう想いがあった。

それはがただの勘違いだったことに気付くのは、そのすぐ後だったけれど。

シルビアの部屋から出てきた侍女と、廊下で再会を果たしたのだ。

彼女は、ほんの少しだけ罪悪感を滲ませて、それを誤魔化すように笑みを浮かべた。

『シルビア様に何かご用ですか?』と。

今、シルビア様は伏せっておいでです、と。

ごくごく当たり前にそう言った。

だから、彼女はもう、私のものではないのだと理解できたのだ。

それでもどうしても納得できず、母にさり気無く訴えてみれば、「シルビアの為を想うなら、貴女が身を引いてちょうだい」と優しく諭された。

貴女には、他の侍女を雇うから。と。

怒っているわけでも、苦言を呈すというわけでもなく、幼子に言い聞かせるような口調と眼差しをされてしまった。

駄目な子を見るような、馬鹿な子を見るような、そんな顔をされては二の句が告げない。

侍女を失わないように動いたことが、わがままだと取られてしまったのだ。

貴女もシルビアが大切でしょう?と肯定しか許さない問いを投げかけられては。

私に言えることは何もなかった。


繰り返す人生で、いくつもの齟齬が生まれるというのに。

シルビアとソレイルが出会った茶会の時点では既に、私は彼女を失っている。


「このままお湯に浸かろうかしら。悪いのだけれど浴槽にお湯を溜めてもらえる?」


蔵書の埃を落とすために持ってきていた雑巾で軽く手を拭う。

見かねた侍女は「お嬢様!そんな布で手を拭いてはなりません…!」と声を潜めつつ非難した。

いいのよ、大丈夫。とおざなりに返事をして、スカートを整える振りをしてインクを払う。

まだ乾ききっていない墨が床に新たな染みを作った。

「汚してしまってごめんなさいね。お掃除が大変だわ」

苦笑すれば、侍女が眉間に皺を寄せる。

「お嬢様が謝る必要など……どこにもございません」

いつ何時でも冷静さを失わない彼女にしては珍しいことだ。

少し強めの口調で言われてしまったことに苦笑がもれる。

それほどに私の行為が目に余るのだろう。

わざとやったわけではない。だけど、磨きぬかれた床がなぜか目に付いて仕方なかった。

使用人を困らせるような行いをしてはいけないし、ましては侍女の前でそういう態度をとってはいけない。

私はそんな人間ではないし、そんな女性になっていはいけないのだ。

いつだって冷静で、いつだって我を失わず、いつだって微笑を携えていなければならない。

「ほかにも……何か拭くものがあればいいのだけれど……」

持っていた雑巾は既に紺色に染まっている。

しかし、侍女は小さく頭を振って「……そんなことは、どうでもいいのです」と呟いた。

口の端を噛んで俯いた彼女が何を考えているのか分からない。

「……どうしたの?」

声を掛ければ、はっとしたように顔を上げ「も、申し訳ありません、」と何とも歯切れ悪く謝罪を述べる。

「お湯を沸かして参ります……」

なぜか急に意気消沈した様子で肩を下げてしまった。

「お嬢様はこのままお待ちください」と言われるが、彼女をそのまま行かせるのは忍びない。

思わず「……マージ」と、その名を呼んで止めてしまった。

ぴくりと肩を震わせて振り向いた侍女は、信じられないものを見たかのように双眸を見開いている。

「?」

一体何事かと首を傾げば「覚えていてくださったのですね」と、ぽつりと口にした。

「……何のこと?」

首を振りつつ、戸惑うような色を乗せたまま数歩下がったマージはにこりと笑んだ。

「いいえ、何でもありません」と、本当に何事もなかったかのような顔をする。


「……誤魔化さないで、マージ」


いつもの私であれば気に留めなかったかもしれない。

もしくは、一度目の私なら。彼女の言葉を信じただろう。

だけど、何でもないと口にするときほど、何かあるものだということを知っている。

本当に何もないのであれば、わざわざそれを口にする必要などないのだから。

しばらくの間見詰め合っていたけれど、やがて小さく息を吐き出したマージは「もう、私の名前など忘れてしまったかと……」と言った。

最後まではっきりと言葉にしなかったのは、それが一介の侍女には過ぎたことだと気付いたからだろう。

主が自分の名前を覚えているかどうかを確認する使用人はいない。

そんなことは気にすべきではないし、使用人の名前を覚えようが覚えまいが主の自由だ。

主従関係というのはそういうものである。

しかし、彼女と共に過ごした時間はそれほど希薄だったわけではない。

はじめはそれこそ付きっ切りで多くのことを教えてくれたものだ。

ソレイルの婚約者に決まった頃、私は幼すぎたから。本当に、何も知らず何もできなかった。

ただ椅子に座っているそのときでさえ、気を抜いてはならないのだと教えてくれたのは他でもない彼女だ。

「覚えているわ、当たり前じゃない」

なるべく感情を乗せないように答えたはずの自分の声が妙に冷たく聞こえた。

そこまで信用されていなかったのかと自嘲のような笑みまで零れる。

名前も覚えてもらっていないと思っていたのか。ずっとそう思いながら、私の傍に居たのか。

そうであれば、彼女がシルビアの下へ行ってしまったのは父や母のせいではない。

彼女はきっと、自ら見切りをつけたのだ。それくらいは私にも分かる。


誰のせいかと言えば、やはり私のせいなのだろう。


「……お嬢様、」


微かに震えた声が私を呼ぶ。


「貴女はとても良くしてくれたわ。だから、とても感謝しているのよ」


有難うと笑う私の唇は、いつもと変わりなく弧を描く。

一枚の紙に墨で描かれた目と鼻と口が、私の顔に張り付いた気がする。

仮面よりもずっと薄っぺらい。だけど、仮面よりも、ずっと息苦しい。

あまりに慣れた感触に、私は一層笑みを深めた。

そんな私の顔をじっと見つめたマージは一瞬だけ目元を歪ませたけれど、何も言わずに頭を下げる。

そして、逃げ去るように小走りで書庫を出た。

何か言いたいことがあったに違いない。だけど、結局何も言わなかった。

それくらいの信頼関係なのだと思い知らされるようで虚しい。


―――――今も昔も、彼女がシルビアの散歩に付き合っている姿をよく見かけた。


淑女教育をまともに受けていないシルビアだから、そこに主従関係の垣根はない。

友人と過ごしているような感覚なのだろう。よく笑い、会話も弾んでいるようだった。


『もしも、メイドが間者であったなら……どうするおつもりですか?』


私がまだ幼かった頃、マージは言った。

ちょうどその頃、私には親しくしているメイドが居たのだ。

屋敷に勤める全員から距離を置かれているような私に対しても、親しげに話しかけてくる極めて稀な存在だった。まだ少女と言って差し障り無い年齢だったので主従関係がよく分かっていなかったとも言える。

だけどその気安さから、私は自分に姉でも出来た気分で彼女に色んなことを話した。

それこそ、何の本を読んだか、家庭教師から何を学んだか、その日見た夢の内容まで。

彼女は聞き上手で、私から話を聞きだすのも上手かった。

同じ年頃の友人がいなかった私は、意気揚々と屋敷のどこにどんな部屋があるのか語って聞かせた。

それを話すと、彼女が喜ぶから。嬉しそうな顔をするから。

そんな私を見て、マージは苦言を呈したのだ。

『彼女が間者ではないにしろ、彼女の友人か家族か親戚に、そんな人間が居たら?』

疑問を呈しただけのその言葉が、耳につく。

自分で理解して対処しなければならないのだと、そう言っているように聴こえた。

答えも教えてくれなかったのに、私はちゃんと理解した。

親しくしては、いけなかったのだと。


そのメイドが職を辞して屋敷を出たのは、マージからの指摘を受けてからたった数日後のことだった。


悲しくなかったといえば、嘘になる。

彼女を見送った後、私は自室で泣いた。誰にも見つからないように、こっそりと。声を抑えて泣いたのだ。

彼女が居なくなって傷ついているということを、他の誰にも知られたくなかった。


あのメイドが本当に悪い人間だったかどうかも分からない。

だけど、『お嬢様、どうか、お元気で』と泣き出しそうな顔をした彼女のことは覚えている。

彼女には年の離れた弟が居るのだと言っていた。長年病を患っていて立ち上がることさえできないのだと。

だから、お金が必要なのだと至極、正直に身の上話をしていた。

それが事実かどうかも分からないけれど、『私とお嬢様は似ているかもしれません』と苦笑したその存在に安堵していた。

家族が居るというのに、この世に一人きりというわけでもないのに、拭いきれない孤独感。

それを理解してくれる人が居て、私は多少なりとも救われていたのだ。それが偽りだったとしても。

しかし結局、ここで重要なのは彼女が正直者か嘘つきなのかではない。


周囲から、どのように見えるかなのだ。


彼女が真実を話していて、信頼に値する人間だったとしても。

そんなことは関係ない。

彼女がまだ、周囲の信頼を得るほどの働きをしていなかったというのが問題だったのだ。

もしも彼女がメイドではなく、また新参者ではなかったなら、事情は違ったかもしれない。

だけど、そうではなかった。


*

*


半時ほどして、湯が沸いたことを知らせにきたマージとは別の侍女にタオルケットを渡された。

既に乾ききっているインクは拭うこともできないので、それを背中から被るようにして全身を隠す。

そして、人目に触れないよう素早く浴室へと移動した。

大したことはしていないのに、肉体は疲弊している。考え事というのは存外、体力を使うものなのだ。

ぼんやりと思考を巡らせたまま、侍女に汚れた服を脱がせてもらう。

普段着とは言え、貴族の洋服は留め具が複雑で一人で脱ぎ着するのは時間が掛かる。さっさと脱いで、入浴まで手伝おうとする侍女を制して浴室に入った。

浴室自体は広いけれど、浴槽はかろうじて二人が入れるほどの大きさしかない。

そこに溢れんばかりのお湯が入っている。

何度か掛け湯をして体を軽く洗い流した後、つま先から浴槽に入った。

熱いというわけではないが、ぬるいというわけでもない。ちょうどいい湯加減だ。

肩まで浸かって、そこから更に沈んでいく。ほんの僅かに濁りを帯びたのは、ぱっと見ては分からないところにもインクがついてたからだろう。

何だか、ひどく疲れていた。

口元までお湯に浸かると、天井からぽたりと水滴が落ちてくる。

湯船に沈んだ水滴がぽかりと浮いてくる様子をぼんやりと眺めていれば、視界を横切るようにぱたぱたと続けて水滴が落ちた。

まるで、雨粒のようだ。

瞬きをする度に、落ちてくる水滴の量が増えてくるように感じた。

水面で跳ね返る水滴が薄く開いた両目に飛び込んでくる。

その感触に、なぜか覚えがあった。

思い出そうと首をひねりながら瞳を閉じれば、右の頬がゆっくりとお湯に沈んでいく。

このままでは駄目だと思うのに、暗闇が、現実を遮断した。



ポタポタ、バタバタ、ボタボタ、ジャバジャバ、ザーザー、ザーザー……



ふ、と上昇した意識の向こう側。

投げ出された自分の腕が見えた。手の平を上に向けているので、伸びた爪が空気に触れる。

……爪が、伸びている?

そんな些細なことに伴う違和感。貴族の子女は爪を伸ばしたりしない。

教養の一つとして楽器を演奏するからだ。弦楽器でも鍵盤楽器でも管楽器でさえ、大抵の楽器は演奏する際に爪を短く切りそろえておく必要がある。

私も幼少期からピアノを習っていた。だから、ただの一度も爪を伸ばしたことはない。

だけど、今、私の目線の先に投げ出されているこの手の爪は伸びている。

というより、手入れをされていない。

ところどころ欠けているし、形もいびつだ。


そこまで認識したところで、自分の体がうまく動かないことに気付く。

それどころか、目も、よく見えない。

視力が落ちているのか、それとも物理的に何かが邪魔しているのか。

恐らく、両方だ。

何度も瞬きを繰り返しているうちに、自分が、地面の上に転がっていることを認識した。

周囲がよく見えないのは、かなり強い雨が降っているからであり、街灯に明かりが灯っていないからだ。

きちんと舗装もされていないような剥きだしの地面に大きな雨粒が叩きつけられて弾ける。

跳ね返った水が頬に当たった。

全身を溺れさせるほどに強い雨に、戸惑うこともなく、ただ過ぎる時間を享受している。


―――――ああ、私は、また……死ぬのね。


何があったのかははっきりと覚えていない。

こんな風に路地裏に転がることになって忘れたのかもしれないし、それよりもずっと前から記憶が混濁しているのかもしれなかった。

病気なのだろうか。それとも怪我?誰かに襲われたりしたのだろうか。それとも自分でやったのか。

何も分からないけれど、今にも事切れそうなのは分かる。

瞼を一つ閉じるたびに、残り時間が減っていく。

唇に落ちた水滴が、容赦なく口の中に流れ込んでいるので息ができなくて苦しい。

だけど、動くのを止めてしまった舌は、それを吐き出すことも拒むこともできなかった。


一体、何度目の人生なのだろう。それさえも、曖昧だった。

楽になりたい。傷む肉体を捨てて、どこかに行きたい。

そして、もう二度とここには帰ってきたくない。

そう、思うのに。

私はきっとまた、ここに、この世界に戻ってくるのだろう。


「……たすけ、て」


もう何度繰り返したか分からない言葉を口にする。

誰も聞いていないと知っていながら、もしも、神が居るのなら聞き届けてくれることを願って。

ぎゅっと目を瞑って、そのときを待った。



「―――――いいよ」


突然響いた誰かの声に、心臓が激しく音を刻む。

重たい瞼をこじ開ければ、目と鼻の先に黒いつま先が見えた。

一瞬、女性かと思ったのはその人が纏っている洋服がスカートに見えたからだ。

でも、聴こえた声は確かに男性で。それに、ひどく聞き覚えのあるものだった。

彼が着ているのはスカートではなく、黒いローブだ。

見覚えのあるそれ。

地面すれすれで揺れているローブの裾は、雨が降っているにも関わらず濡れている様子もない。

少しだけ見えているつま先にも泥はね一つついていなかった。

もう既に力を失っているので顔を動かすことができず、誰なのか顔を見て確認することはできない。

だけど、私は既に確信を得ていた。

懐かしい声だと思う。一言だけ「いいよ」と、雨音に紛れるように落とされた言葉がひどく、切なかった。

ずっと、待っていた。彼が現れるのをずっと、待っていたのだ。

こんな、最期の最期になって現れるなんて。

おもむろにしゃがみこんだ彼が私の顔を覗き込んだ。大きなフードを被っているので口元しか見えない。

色の薄い、形のいい唇に、彼と過ごした日々が甦る。

私の秘密を、彼に明かしたのはいつのことだっただろうか。

それを否定されて、受け入れてもらえず、己の人生に見切りをつけたのはいつだっただろうか。


「……やっと、」


そう呟いたのはどちらだったのだろうか。

地面を打ち付ける雨音にかき消されて、その後に続くはずだった言葉が消えた。


ほんの少しも動かすことができない私の体を、カラスが、抱き上げる。

そして、耳元で何かをそっと呟いた。

意味のある言葉だったのか、それとも、何の意味もない言葉だったのか私には分からない。

今生では初めて会うというのに、まるで旧知の仲のような素振りを見せる彼に、驚いてはいたけれど。

それも最早、どうでもいいことだった。


伝えたいことがあった。

カラスはきっと、知りたくもないだろうけれど。

何だか、とても伝えたかったのだ。


「意味が、あったのよ、」


もうとっくに声など出ないと思っていたのに、干からびた舌が言葉を紡ぐ。

なぜか、その声ははっきりと聞こえた。


「愛されないの、に、も」


理由があったのだ。


―――――いつかの人生で、いつかのときに、カラスは言った。

愛されるのに理由がないように、愛されないのにもまた理由がないのではないかと。

もしもそうであれば、何をしても無意味なのではないかと。

理由もなく、意味もなく、愛されないのであれば。

愛される余地などないから。


だけど、私は知っていた。愛されない理由を。

両親が、私を愛さずに、シルビアだけを愛する理由を。

本当は、知っていたのだ。


それを伝えようと唇を開いたけれど、もう余力は残っていないようで。

無意味に開閉を繰り返すだけだった。

彼の背に縋りつこうにも両腕が上がらない。

苦しくてひゅうひゅうと鳴る胸を労わるように、カラスが背中を優しく撫でてくれる。

「もう、いいよ」と優しく宥めてくれるから。

唐突に、何もかも、どうでもいいような気がした。


もういいよ、大丈夫。


繰り返される言葉が、心に響く。

言って欲しかった。誰かに、ずっと。そう、言って欲しかったのだ。

そうか、もういいのか。そう思えば、急速に意識が遠のいていった。


耳の底に響く雨音はそのままに。

私は―――――、



























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