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ただの恋だったはずだ。
そう、初めは、途中までそうだった。
それで間違いはなかった。
ズレはじめたのがいつからだったのかは分からない。
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「あら、ソレイル様は、またシルビア様とご一緒ですのね」
隣を歩いていた友人が不意に中庭を眺めながらぽつりと零す。
彼女の視線を追えば、そこに仲睦ましく寄り添う二人の姿。
また、頭の中を過ぎる既視感。
学院の中庭に、ぽつりと設置されたベンチに並んでいる二人の姿は思いのほか目立つ。
分かっていてやっているのか。それとも、周囲の目など気にもならないのか。
人通りはさほど多くないものの、たまたま通りがかった学生たちがちらちらと視線を送っている。
「声を掛けなくてよろしいの?」
豪奢な美貌が目立つ友人は金色の髪を揺らしながら問うてくる。
私はそっと首を振った。
「ソレイル様は、妹をとても大事にしてくださいますの」
自分でも白々しいと思えるほどに、感情の灯っていない言葉がするりと出てくる。
幾度となく繰り返す人生で、殊更、私の妹を大事にする婚約者を周囲の目から庇う為、何度もこのセリフを吐いた。
婚約者がいながら、他の女性と二人きりでいることは褒められたことではないが、相手が婚約者の妹であればまた事情が違ってくる。
『いずれ家族になるのだから』という言葉が免罪符になることを知っていた。
「イリア様は、寛容ですのね」
美貌の友人、マリアンヌが何ともいえない顔で笑っている。
私が、自分の婚約者に近づく女性をけん制していたことを知っているからだ。
そして、彼女もそんな女性たちの一人だった。
昔、マリアンヌが、我が婚約者のソレイルに近づくために画策しているという噂を聞いて、さっそく一言、物申しに行ったのだ。
『私の婚約者に近づかないで』と。
今思えば、格上の相手に対してどんな身の程知らずだと思うところだが、当時の私はそれほどに周りが見えていなかった。
恋に狂った女、その表現が一番ぴったりくる。
それは、マリアンヌの生家から正式な抗議が入ってもおかしくないほどの出来事だった。
事実確認もせず、噂に惑わされて言いがかりをつけたのだから。
それがなぜ、険悪な状態にならず良好な友人関係を築いているのかというと。
『私は、お二人の邪魔をする気などございません』
と、彼女が、夢見心地な顔をして笑ったからだった。
『愛し合う二人の邪魔をするほど、私は野暮な人間ではありませんわ』と。
「あの茶会」の後であれば、どんな嫌味だろうと想うところではあるが、マリアンヌとそんな言葉を交わしたのは、婚約者と妹を引き合わせるよりもずっと前のことだった。
だから、私はその言葉を聞いて、ただ、舞い上がった。
周囲からすれば、私と婚約者は想いあっているように見えるのだと。
私の婚約者は、私のことが好きなのだと。
そんな馬鹿な幻想を抱いたから、彼女に対して好意を抱くことはあっても厭うようなことにはならなかった。
つまり、寛容なのは私ではなく、マリアンヌのほうなのだ。
ではなぜ、「マリアンヌがソレイルに近づこうとしている」などという不穏な噂がたったのかというと、全ては、マリアンヌの家格とその人目を引く美貌に理由がある。
彼女の家は伯爵家第一位で、ソレイルの家格に近く、もしも私の存在がなければソレイルの婚約者はマリアンヌだったに違いないとまことしやかに囁かれていた。
それを置いても、ソレイルとマリアンヌはお似合いだと。
それを口にすれば、彼女はまた一つ笑みを落として、
『私は、自分の婚約者のことで頭がいっぱいですので、そんなことになることは一生ございません』と言い切った。
その目が、恋する女性そのものだったから。その当時、私が鏡に映していた目と同じだったから、だから私はあっさりと彼女の言葉を信用することができたのだ。
――――――かつての人生では、私と彼女は、友人になることはなかったのだけれど。
昔々、そのまた昔の私の人生では、私とマリアンヌは、公の場で顔を合わせることがあっても、言葉を交わしたことさえなかった。
同じ爵位で、だけど位階の違う私たちは常にライバルのような扱いを受けていた。
私たちが近づくことを周囲の人間が許さなかったのだ。
だけど、他の人生では私のことを目の敵にしていた彼女も、今生では無二の友人となった。
そんな風に、重ねる人生では、その時々でいくつかの齟齬が生まれる。
理由など分からない。何せ、私にはあの茶会まで、前世の記憶がなかったのだから。
意図的に何かをしでかしたわけではない。
もしかしたら、無意識にとる私の行動が、些細な違いを生むのかもしれないとは思ったけれど、正確なところは分からない。
ただ、私の人生が繰り返すからと言って、全ての人間が、前回と同じ行動をとるとは限らないのだということだけは分かっている。
マリアンヌがそうだった。
かつての人生では、マリアンヌとその婚約者は良好とは言えない関係だった。
だけど、今生では、相思相愛といえる仲になっている。
この僅かに生まれる差異に、もしも理由づけしなければならないとすれば、私の関与することができない何か大きな力が作用しているとしか言えない。
そしてそのせいで、誰もが、私も含めて、少しずつ違う人間になっている。
―――――それなのに、
それなのに、何度繰り返しても、彼の妹への恋慕だけはいつだって変わることがなかった。
それほどに、妹を、愛しているというのか。
「イリア様は本当にお優しくていらっしゃる。シルビア様を学院に通わせるようにご両親を説得なさったとか」
マリアンヌが、我が婚約者ソレイルと、妹に視線を向けながら話を続ける。
艶のある黒髪を撫で付けたソレイルは、貫禄とその威風堂々たる態度から年上に見られることが多いが、妹は病弱なこともあり華奢で小柄な為、幼く見られることが多い。
そんな二人の後ろ姿は体格差が大きい。
けれど、何の違和感もなく、その空間に収まっている。
まるで、初めから「対」であったかのように。
マリアンヌの視線を追うように、さらりとなびくシルビアの銀糸のような髪を見ながら、心の中で呟く。
優しくなど、ない。
私は、優しさで妹の進学に助力を尽くしたわけではない。
もう、どうにも耐えられなかっただけなのだ。
『お姉さま、ソレイル様は学院ではどんなご様子ですの?
一緒に、ランチをとったりなさるのかしら?』
妹の愛らしい声が、私の婚約者の動向を探る。
それに耐えられなかっただけなのだ。
自分の婚約者について、ほとんどのことを知らない自分が露見することを恐れただけなのだ。
ソレイルが学院でどんな風に過ごしているかなんて、知らない。
ランチに声をかけてもらったことなど一度もない。
ソレイルと仲の良い友人のことであれば知っているが、それも名前と顔くらいだ。
彼もソレイルのように家柄が良く、目立つ男性だったから女生徒の噂の種になっていた。それを耳にしたことがあったからこそ知っていただけだ。
人生を重ねた今であれば、その人物の人となりも、ソレイルとどれほどの付き合いなのかも、瞳の色さえ思い出すことができるが、ソレイルから直接、その友人を紹介してもらったことはない。
いつの人生でも、彼はソレイルの傍にいたけれど、言葉を交わしたのなんて数えるほどしかなかった。
ソレイルとは、学院内で、時々すれ違うときでさえ声をかけてもらったことはないし、ごく稀に視線が合ったとしてもそれだけだ。
私が妹に語って聞かせることのできる内容なんて、たかが知れていた。
茶会の前であれば、妹を学院に通わせるなんてこと思いつきもしなかっただろう。
ソレイルは魅力的な男性だ。それと同時に、妹も大変魅力的であった。
二人が近づく可能性があるのであれば、何としてでも、妹が学院に通うことを阻止しただろう。
実際、かつての人生では、そういう手段をとったのだ。
だけど、茶会の後で全ての記憶が蘇り、妹が我が婚約者に想いを寄せ、婚約者もまた我が妹に想いを寄せていると知った後であれば、私の思考はそれまでと大きく変わった。
そんなに知りたいのであれば自分で見て、自分で聞けば良いのだと、そんな風に思ったのだ。
虚弱なせいで、何かあってはいけないと学院に通うことを反対されていた妹のために両親へ助言した。
シルビアの将来のためには学院へ通うことが必然だと。
未だに婚約者の決まっていない妹には良いチャンスになるはずだからだと。
体の弱い妹であれば、一刻も早く婚約者を得て庇護してくれる人間を捜す必要がある。
もしも体調に変化があれば私が必ずフォローするからと、熱弁をふるった。
まるで、妹のためだと言わんばかりの言葉を並べて。
『嬉しい、私、学院に通えるの!お姉さま、ありがとう!』
妹のまろい頬に赤みが差す。
いいのよ、と笑いながら、胸の奥を走る痛みに知らないフリをした。
かつての私が、声を上げている。
――――――――何でそんなことするのよ!
――――――――妹とソレイルを近づけないで!
私だってよく分からないのだ。自分が何をしているのか、何をしたいのかさえ分からない。
あの茶会の前、私は確かにソレイルに恋をしていた。
それだけが生活の、いいえ、人生の全てだった。
たった五つで出会ったそのときに、彼の横に並ぶのにふさわしい人間になろうと決めたそのときから、私は『ソレイルの婚約者』として生きてきた。
吐きそうなほどの努力を重ねて、やっと最近、周囲に認められてきたところだった。
それが全部、何もかも無駄だったと知ったときの私の絶望は、筆舌に尽くしがたい。
ソレイルが妹を見る眼差し。妹がソレイルを見る眼差し。
周囲には決してそれと悟られないように、想いを秘めているのが分かる。
決して表には出ないように。だけど、相手には伝わるように篭る熱量を、蚊帳の外から見守る私。
何度も目にした光景のはずなのに、この人生では、初めて見る風景で。
私はそれを見る度に、確かに傷ついた。
私には決して向けられることのなかった眼差しを一身に向けられる妹の姿を見て、どうして冷静でいられようか。
初めの人生で、茶会を終えて錯乱した私を周囲の人間は責めに責めた。
妹が可哀想だと、なぜ、妹を邪険にするのかと、両親でさえ渋面を作った。
――――――――お前のような子が娘で恥ずかしい、と。
これが物語であれば、主人公は間違いなく妹だ。
姉の婚約者という、決して結ばれることのない男性に恋をした可哀想な女の子。
悲劇の主人公と言えるだろう。
その物語は観客は引き付け、私はさながら、主人公の恋路を邪魔する悪役令嬢といったところだ。
だけど、これは物語ではないし、これは私の人生で間違いない。
だとしたら、なぜ、自分の人生を哀れむ私が責められなければならないのか。
酷い、酷い、何で、どうして、
泣き叫ぶ、かつての私の声が今でも響いているような気がする。
―――――――どうして誰も、わかってくれないの。