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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
今生のソレイルが見る夢は。
17/64

3

白いシーツに散らばる銀色の髪。

染めているのだと言っていた。確かに、あの子の髪とは似ても似つかないが、どこかがどうしようもなく似ている。

現実とは程遠い世界で生きている俺の目には、確かに、焦がれて止まないその色に見える。

こちらを見上げてくるその瞳は薄紫。

この国では稀有なその色も、彼女の国ではそう珍しい色ではないと言う。

触れることさえ叶わなかったその肌を思い出しながら、あの子の、シルビアの姿を重ねた。


妖精だの天使だのと噂されたシルビアが死んだことは、翌週には社交界に知れ渡っていた。

しかも、病死などではなく強盗殺人。それを仕組んだのは彼女の実の姉であり、次代の侯爵夫人だ。

社交界に走った動揺は凄まじいものがあった。

俺自身が騎士として家から離れることが多く、社交はイリアに任せきりだったこともあり、彼女と懇意にしていた貴族は多かった。それ故に、彼らは自らの潔白を証明する必要があった。もしも仮に、イリアに手を貸したと判断されれば投獄される可能性もあった。

例えそれが事実ではなかったとしても、罪をでっち上げることなど容易い。

常に絶妙な力関係で均衡を保っているのが社交界だ。この機会に、敵対勢力を潰しておこうとする動きもあった。

その為、事態の収束にあたったのは、我が家を中心とした上位貴族だった。

元々、イリアのことをただでは許す気などなかった。

両親に助力を乞い、イリアを断罪する為に各方面へ根回しをして、彼女が罪から逃れることができないように奔走した。

しかし、出身が伯爵家第三位という家柄がそうするのか、離縁したとは言え侯爵家の嫁だったという立場がそうさせるのか、彼女を追い詰めるには相当に骨が折れた。

幾人かが協力に名乗りを上げてくれたおかげで、何とか、イリアを平民用の牢屋に押し込むことができたのだ。


全てをやり終えたときには、季節が一巡していた。

刑が執行されたとは聞かないから、彼女はまだ投獄されているのだろう。

だが、後はもう俺の知るところではない。

罪状からすれば極刑は免れないだろうが、刑の執行がおおやけになることはない。

沈静化した出来事を蒸し返すのは、国の中枢を担う人間が許さないだろう。

それが分かっているから何なのか、ともかく、この頃、酷く疲れていて何もする気が起きないのだ。

この喪失感を言葉にすることさえ億劫で、仕事にも身が入らず、失態を晒した。

上官に、長期休暇とは名ばかりの謹慎を言い渡されたばかりだ。


そんな中で、耳に飛び込んできた、とある噂話。

銀髪、紫瞳の少女が春を売っている。


小柄な体躯に細い四肢、見上げる眼差しは純粋無垢で、まさに妖精もかくやという儚い姿だという。


話を聞けば聞くほど重なるシルビアの姿。

実際に足を運んでみれば、その容貌は天地ほどの差があったけれど、それでも、あの子の姿を夢想するには事足りていた。

何より、こちらを見上げる無垢な眼差しが、あの子を思い起こさせる。

その姿を見ていれば、それだけで満足だった。


「ソレイル様、私、貴方がいないと生きてはいけません……」


『……なってくださいますか?生きる、希望に』


今はもう、夢の中でさえ思い出すことのできないその声が聞こえた気がした。

手の平が、安いベッドの硬くて薄いマットに軽く沈む。

その様子を夢見心地でぼんやりと眺めていると、ふ、と落ちる黒い影。

こちらを見上げていた少女の眼差しが逸れて、その大きな目を更に見開いて小さく悲鳴を上げた。

その視線を追うようにして振り返れば、肩越しに、剣先が見える。

反射で体が傾いだ。少女を庇いながら転がるようしてベッドを降りれば、肩に衝撃が走る。

痛みを理解するよりも前に背中を床に打ちつけ、革靴が俺の肩を踏んでいることに気づいた。


「……いい、ご身分だな。ソレイル殿。昼間から娼館通いか」


こちらを見下ろす男の背後から、薄明かりが落ちてくる。

逆行になっているせいでその表情までははっきり見えないが、きらきらと揺らめくようなその金色の髪には覚えがあった。

なぜ、そう呟いた自分の声が静まりかえった室内に響いた。


「死んだかと思ったか?生憎、騎士仲間は結束が固いんでな。友人に助けられたよ」


不敵に笑うその姿に違和感を覚える。

彼はこんな風に笑う男だっただろうか。こんな口調で喋る男だっただろうか。こんな風に、誰かを睨みつける男だっただろうか。

俺の目よりもずっと濃い色の瞳は、澄んだ湖面のように穏やかで、温かみのある眼差しをしていたはずだ。

喜びを感じているときでさえ冷淡だと言われる俺の目とは全く違うと、いつも感じていた。

その目で、彼女を包み込むように守っているその姿を、いつも視界の端におさめていた。


「なぁ、あの方がお前の為にどれほどの努力をしてきたか知っているか?

ああ、そうだ。知っているだろう。周囲がお前に言ったはずだからな。お前の伴侶となる為に精一杯の努力をしていると。……だが、それがどれだけのものだったか、お前は見てきたわけじゃない」


鋭い視線には、かつての温かみなど何処にも存在していなかった。深い慈しみを湛えていた瞳は暗い影を帯びて、今にも闇に飲まれてしまいそうだ。

そんな目をした男が、抑揚のない声で淡々と語る。


「語学を修める為、もしくは領地経営を学ぶ為、あるいは淑女としての礼儀作法を身につける為に、寝る間も惜しんでいた。夜中に吐いている姿を何度も見たことがある。声をかけることさえ憚られるその姿は、病弱だと言われていた彼女の妹よりもずっと凄惨だった。繰り返す嘔吐のせいで喉が焼け、彼女はいつの間にか、その澄んだ声を失っていたんだ」


彼女のもっていた辞書を見たことがあるか?行間は書き込みで真っ黒だった。何度も読み返した後がある経営学の本はページの端がぼろぼろだった。

指にできたペンだこのことを知っているか?なかなか消えない目の下の隈のことは?胃薬を常備していたことは?


お前はそれを、一つでも見たことがあるのか?と、肩に乗った足がぐっと重みを増した。

体を支えられず上体を斜めに反らせば、背後に隠れていた少女がはっきりと悲鳴を上げる。

そして、何事かを喚きながら部屋から出て行った。

助けを呼びに行ったに違いない。

その姿を一瞥した男が、影の落ちた顔でもはっきりと分かるほど深い笑みを浮かべる。


「あの方が……朝、目覚めたときに、まず一番に気にするのは婚約者のこと。夜眠るときには、傍に居るわけでもないのに婚約者におやすみを言うんだ。寂しいとは、ただの一度も口にしなかった。迷惑をかけたくなかったんだ。決まった日にしか会いに来ない婚約者のことを、それでも、愛していた」


初めから、それが、政略結婚だと分かっていながら。

返されるはずのない愛を、信じていた。


「侯爵婦人になるはずだった。誰からも敬われ大切にされる存在になるはずだった。それだけのことを、あの方は、してきたのに―――――」


押さえ付けられていた体がふと自由になり、半身を起こせば、はらりと舞うように水滴が落ちてきた。


「……あんな場所で、あんな惨たらしい死に方をする方では、ない―――――!」


掠れるように搾り出された言葉に、なぜか、笑みが浮かぶ。

そうか、死んだか。と満足気に呟く声を確かに聞いた。

それは他でもない、自分自身から発せられた声だった。


「お前だけが、あの方を救えたのに、」


―――――なぜ、なぜ、なぜ。

なぜ、俺は、お前は、笑っているんだ。


笑っている俺を見下ろすその男が「冤罪だと、本当は、知っていたはずだ」と震える唇で呟く。

その唇の端を、いくつもの水滴が滑り落ちるのを眺めていた。

振り上げられた白刃を、ただ、見つめているだけの自分が居る。


誰かが「止めろ!」と叫んだ。いつの間に現れたのか、男の背後に幾人かの影が見える。

「アルフレッド……!!こんな奴の為に、騎士の誇りを血で汚すつもりか……!」


「騎士の誇りなど、とうに捨てた……!!あの方を失ったそのときに……!!」


悲鳴だと、そう思った。はっきりと言葉を喋っているのに、喉が裂けるような悲鳴を上げているのだと理解した。


「どんな死に方をしたか知っているか、あの方が、どんな風に、死んだのかを―――――!!」


身動き一つできずにそれを見ていることしかできない。

肩に熱が篭る。刃に貫かれたのだ。

痛みも感じず、ただ、呼吸が止まった。息が、できない。

思わず、何かにすがり付きそうになって手を伸ばしたそのときに、それは落ちてきた。

傾ぐ体の、逆さまに揺らぐ視界の向こう側、一体いつ磨かれたのか分からない薄汚れた床に、それは音もなく降ってきた。


重さなど感じないそれは、赤黒く染まった灰色の、切り落とされたのであろう長い髪。


『老婆のような髪でしょう?』


囁くように落とされた声が蘇る。

―――――ただの一度だって言葉にはできなかった。

美しいとは、ただの一度も。


シルビアのものよりは暗い色をしていた。銀色とは言えない色だった。

だが、そのおかげでいっそう映える不思議な色の瞳が好きだった。

意思を貫く強い眼差しと、他者を圧倒するほどの信念が、いつだって俺を支えてきた。

その瞳が俺を見つめている限り、決して道を違えることはないと信じていた。


―――――殺した。

俺が、殺した。

イリアを、殺した。


やめてくれ。もう、たくさんだ。やめてくれ。


誰か。


嘘だと、言ってくれ。


誰か。



*


「―――――っっ!!!」


ひゅっと息を飲んだ自分の呼吸に驚いて弾かれるように飛び起きた。

全力疾走した後のように短く切れる息を、ぼんやりとした思考のまま聞いている。


「……ソレイル様?」


一人きりだと思っていた空間に、戸惑うような声が落ちる。

吐息さえ感じられそうなほどの距離で聞こえたその声に、肩が大きく跳ね上がった。

相変わらず整うことのない呼吸に吐き気さえ覚えて、唇を覆えば、


「……ソレイル様!」


洗顔用に準備していたと思われる洗面器を差し出された。

寸でのところで息を飲み、吐き出すのを堪えれば熱い塊が胃の底に戻っていった。

喉の奥にひりつくような痛みを覚える。

どくどくと脈打つ心臓の音を聞きながら小さく咳をすれば、侍従が不安そうな顔でこちらを覗きこんだ。


「お…俺は、いや、わた、わたしは……一体、」


一人称を「俺」から「私」に言い換えたのは随分前のことだ。

侯爵家の嫡男であればそうしたほうが自然であると、周囲に勧められるままに、そうした。

普段は決して口から零れることのない「俺」という単語に、自分でも戸惑うほどに動揺している。


「酷く、魘されておいででしたので……」


侍従が控えめに声を掛けてきた。濡れタオルを渡されて、気を静めるように促される。

受けとってから、指先が細かく震えていることに気づいた。


「悪夢でもご覧になったので?」

「……悪夢、」


苦笑されて、悪夢に魘されて動揺するなど幼子のようだと笑いがこみ上げる。

そうして、笑みを落とした瞬間、全身の体温が下がった。


「ソレイル様?」


悪夢?

俺は、悪夢を見たんだろうか。

……何を、見た?何を、


「―――――覚えていない……」


魘されるほどの悪い夢を見たというのに、思い出せることが何一つとして、ない。

忘れたというわけではなく、初めから、悪夢など見なかったかのように。欠片さえも記憶が残っていない。


「覚えていないのであれば、それだけのことだったのでしょう。些事ですよ」


侍従がまた一つ笑うのを見て、安心するというよりも足元から迫り上がってくるような不安を覚えた。

何か、とても大切なものを、失ってしまった気がするのだ。

そして、失ったことさえも覚えていないような、どうしようもない不安と焦燥が襲ってくる。


両手を広げれば、いつもと同じ手の平があるだけだ。

だが、何かを掴み損ねたような大きな喪失感に息が詰まる。


「……イリアは、」

「え?」


「イリアは、どうしているだろうか」


―――――なぜか、どうしようもなく会いたくなった。











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