6
「――――――っお嬢様!!」
けたたましく鳴り響いた扉の開閉音と共に、男の悲鳴のようなものが聞こえた。
金色の髪、それを視界の隅に留めたまま室内を見渡せば、部屋の隅に少年が立っているのが見えた。
今は、いつ?私は、何をしていた?カラスはなぜ、あんなところに?
薬のせいで意識が混濁しているのか思考が纏まらない。
カラスと二人、ベッドで寝そべっていたのはいつのことだっただろう。
数時間前?数日前?それとも数ヶ月前だっただろうか。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
「ああ、ああ!何てことだ……!何てことだ…!!」
いきなり浮遊したような感覚に胃の底が不快感を示す。
瞬時に抱き上げられたのだと理解して、抵抗しようと足を動かすけれど身動きできない。
ベッドシーツを体に巻きつけられたからだ。
何事かを嘆いている男が時々大きく震えるのはしゃくりあげているからなのか、耳に響く男の拍動は急いているように早い。
「こんなところに居るなんて……!!帰りましょう、お嬢様…!」
お嬢様、お嬢様、と何度も呼ばれて、私にもそんな頃があったのだと懐かしいような切ないような気分になる。
男の声に聞き覚えがあるのは、恐らく、気のせいではない。
「ア、ル……?」
「!」
その名を呟いてみれば、私の体を支える太い腕が大きく揺らいだ。
「迎えに、参りました、お嬢様…っ、
こんなに遅くなって、本当に…申し訳ありません、申し訳ありません…!」
ぎりぎりと歯軋りさえ聞こえてきそうなほどに悔しげに何度も誤るアルの顔を見上げながら、過ぎ去った年月のことを思う。
私が記憶している青年期のアルは、もうそこにはいなかった。
「帰りましょう、お嬢様…」
アルが掠れた声で宥めるような優しい声で囁く。
それが、さも当然のことのように。
帰る、帰ル、カエル?
到底理解することのできない単語に首を傾いだ。
私には帰る場所などどこにもない。一体、どこへ連れて行こうというのか。
今更、一体、どこへ。
拘束されているような状態で、視線だけを彷徨わせれば部屋の隅で息を潜めていたカラスの顔を捕らえた。
「カ(ラス)、」
名前を呼ぼうとして、言葉を飲み込む。
私はまだ、彼の名を知らない。少年は一度も自分の名を口にしなかった。
声の代わりに掠れた空気を吐き出せば、それを知ってか知らずかカラスが薄い唇に笑みを乗せて言った。
―――――良かったね
それは確かに声音として響いたはずなのに、アルは気づかないまま部屋を出ようとしている。
いや、違う。気づいていないのではなく、アルには、カラスの姿が見えないのだ。
「……ア、ル、待っ…待って…」
「大丈夫です、お嬢様何も心配ありません。お嬢様の部屋はそのままにしてあります。全て取り戻せます。何事もなかったように、前の生活に、戻れますから」
「ち、が……」
違うわ、アル。私はそんなことを言いたいんじゃない。
待って、お願い、カラスと話がしたいの。
私は、どこにも行けないの降ろして、お願い、降ろして。
病のせいでありとあらゆる器官がその機能の役目を果たしていなかった。声帯を震わせる力さえ残っていない。声を張り上げようものなら、肺が破れそうだ。
だから、言葉にしたい想いを声に出すことができない。
囁いたところで激高している様子のアルには届かないだろう。
ただ遠ざかっていく薄汚い小部屋の奥でこちらを見ているカラスに視線を送ることしかできない。
真っ暗で真っ黒な、光さえ拒むようなその眼が何かを訴えかけてくる。
その表情から、確信を得た。
私の身元を突き止め、アルを捜し出し、私の居場所を彼に知らせたのは、カラスだ―――――。
「待って、アル、あの子も、カラ(ス)…っは……はぁっ…あの子も…あの子も……」
連れて行って、その言葉を打ち消すように部屋の扉が勢いよく開く。
アルの肩越しに、置き去りにされるかのようなカラスを見ていることしかできない。
「アル…アル……」
「大丈夫です、お嬢様。もう、大丈夫です」
何もかも承知しているというような顔でアルが優しく返事をする。
けれど、私の言いたいことは何一つ伝わらないし、私の言葉を待ってくれるような様子もない。
こんな場所からは一刻も早く立ち去りたいと思っているのだろう。それが行動に出ている。
けたたましく扉を閉めたアルに他意はなかっただろうけど、それはまるで、行き場を失った怒りをぶつけるような仕草だった。
閉ざされた扉の向こうにカラスがいる。
カラスが望めばこの娼館を出ることなんて容易いだろう。
だけど、カラスはきっと来ない。
追いかけて来ることはないと、分かる。
良かったね、と小さく笑みを灯したその唇が微かに震えていたのを見た。
あれはきっと、別れの言葉だ。
身を包むシーツの拘束から零れた腕が思わず、扉に縋りつく。
カラスがやすりで短く整えてくれた爪先が、薄い扉の表面を擦った。
「……助け、て欲しいなんて、言って、ない……」
かろうじて言葉にしてみてもカラスにはもう届かない。
かつての私は確かにカラスに助けを求めた。
だけど、私は、今の私は。
助けなんて求めていなかった。
このままで良かったから。このまま誰にも知られずに死んだって、それで良かったのだ。
だって、カラスは、きっと最期のそのときまで傍に居てくれるだろうと信じていたから。
その姿さえあれば、それだけで良かったから。
―――――なのに、どうして。
*
乾いた指先がふっくらとしたシーツの波間を探る。
ほとんど役にたたなくなった眼球を巡らせて、染み一つない布地の間に黒い髪が除くのを待っていた。
体温を持たない彼の髪はひんやりと冷え切っていて、いつまでも触っていたいような心地にさせたから。その感触をもう一度確かめたくて。
「姉さま……?」
すぐ傍ではっと息を飲んで、愛らしい私の妹が伺うように私を呼ぶ。
ぼやけた視界に、白い顔と銀髪の懐かしい色彩が映りこんだ。だけどその表情までもを読み取ることはできない。きっと心配そうな顔をしているのだろうと推測するだけだ。
ごめんなさい、心配かけて。そう思うのに、言葉にはならない。
乾いた唇の隙間から吐息が漏れるだけだ。
察しの良い侍女が水分を含ませた脱脂綿で唇を拭ってくれるが、それもほとんど意味をなさない。
口内が焼けるように熱かった。
もう、終わりが近づいているのだと分かる。
「……、」
「何?お姉さま。何て仰っているの?」
アルに娼館から連れ出されて、てっきり伯爵家にもどされるのだと思ったのになぜか侯爵家に運ばれた。
そこにはソレイルとシルビアと、それから二人の子供がいて、私が来るのを待ち構えていた。
私が居た娼館窟は、侯爵家や実家の伯爵家が居住を構える地域とは天と地ほどに離れている。
あそこは、国内であることが不思議なほどの無法地帯。つまり貧民街であった。
アルはそれこそ何年も私を捜していたようだけれど、どうしても消息を掴むことができなかったのだと嘆いていた。侯爵家に戻されるまでの道のりの間中、なぜもっと早くに見つけ出すことができなかったのかと飽きるほど何度も声を上げて泣いた。
全ては、私の身勝手が招いたことでアルに罪はないのだと、途切れ途切れになりながらも何とか伝えたけれど彼にとっては何の慰めにもならなかったようだ。
私が頭を下げれば、それだけ落ち込んでいくようにも見えた。
そんな風に数週間にも渡る旅を終えて屋敷に辿り着いたわけであるが、そのときにはもう、私自身は瀕死の状態だった。
すぐに侯爵家お抱えの医師がやってきたけれど、もう何も手の施しようがないと診断が下された。
数日が山でしょうと言う声を聞いた気がする。
「お姉さま、聞こえてる?ソレイル様が少し、話をしたいと、そう仰っているの……」
もはや指先一つうごかせず、ただ暗く沈んでいくだけの視界を動かせば確かにソレイルと思しき人物がこちらを覗きこんでいるのが分かる。
感情の見えない薄氷の瞳。私が恋したその目がすぐ傍にあった。
だけど、目を凝らしてみてもその表情まで読み取ることはできない。
弱った目では、何も判別できなかった。
「……イリア、私は…ずっと、君を憎んでいた―――――」
視界の端には、彼らの子供らしき小さな影が二つある。
両親が心配なのだろう。私がこの屋敷に連れ込まれたとき、最も不快感を示したのがこの二人だった。
顔なんてほとんど見えないのに、それがはっきりと分かったのだからよっぽどだ。
突然現れた、得体の知れない人間に警戒心を抱くのは分かる気がするし、お世辞にも貴族出身とは言えないだろう端女よりもみすぼらしい娼婦を受け入れられないのは私にも理解できる。
それが、母親の実の姉であろうとも。
シルビアとソレイル、それにアル以外に私の身分を証明できる人間はいない。
姿かたちもすっかり変わってしまっただろう。
それでも、ソレイルとシルビアが私をイリアだと言うから受け入れざるを得なかったのだ。
伯爵家が私を迎え入れなかったのはきっと、両親の怒りが解けていないからに違いなく、私が出奔した時点で私は伯爵家令嬢という身分を剥奪されたに違いなかった。
「君が突然いなくなって、裏切られたと思った。幼いときから傍に居て、いずれは夫婦になろうと誓っておきながら責務を放棄し逃げ出すなんて、酷い女だと憎しみさえ抱いた」
「シルビアに、君にはずっと好きな男がいたのだと聞かされて私がどれほど傷ついたか分かるかい……?
夫婦になると約束した身でありながら、それほどの悩みを打ち明けることもできないほど信頼されていなかったのかと」
そうだ。私はシルビアに打ち明けたことがある。
好きな人がいるのだと。彼のためなら、何でもできると。
それはソレイルのことだったのだけれど。
―――――ああ、そうか。私が出奔したことは、そんなところに結びついたのか。
「聡い君のことだから気づいていただろう。私が君を愛していないことを。
しかし、だからこそ夫婦としてうまくやっていけるのではないかと思っていたんだ。
親愛と友愛さえあれば、仲睦ましいとまではいかなくともそれなりの関係を築けると信じていた」
独白のようなソレイルの言葉が静かな室内に響いている。
「そういった未来への展望を全て、君の出奔が打ち砕いたのだと」
そう思えば思うほど、君のことが憎らしく思えた。
だから、貴族出身の君が市井に下りれば苦労するだろうことは分かっていたけれど、あえて放っておいたのだとソレイルは言葉を切った。
自業自得だと、そう言いたいのだろう。
ソレイルの言いたいことはよく理解できた。彼にとって、彼の人生は当然この人生が最初で最後。
彼はただシルビアに恋をしただけで、私を裏切ったわけではない。私を愛してくれたわけではないが、少なくとも婚約者として誠実に向き合おうとしていた。だからこそ、時間を見つけては会いに来てくれたのだ。
私とシルビアが勉強しているときによく姿を見せたのはその為だ。
本当は、ただシルビアに会うためだったのかもしれないけれど、それでも何か不実なことをされたわけではない。
裏切り者は私の方で、憎まれているのも私の方。
重ねた人生で何度ソレイルに裏切られようと、何度シルビアに愛する人を奪われようと、何度非業の死を遂げようと今生の彼には関係ないことなのだ。
彼は知らないのだから。彼の想い描いた理想が果たされることなどないことを。
夫婦としてうまくやっていけるなんて、ありはしないことを。
「それでも、今は……君に感謝している。こうしてシルビアと家庭を築くことができたのだから―――――」
ソレイルの声が遠くなる。
いつかのときとは違い、私の傍にはソレイルが居て妹も居る。
赤ん坊の声を聞きながら絶望の内に一人きりで死んだあのときとは違うし、ロープを手に自ら死を選んだときとも違う。ここは牢獄ではなく、拷問を受けたわけでもない。染み一つない天井に見下ろされて、真新しい布団に優しく包まれて、寒さに凍えているわけでもない。
だけど、私はあの黒い瞳に優しく見つめられていたあのときにこそ、死ぬべきだったのだ。
こんな風に死にたくはなかった。
全て有るのに、何も無いようなこの場所では。
繋いだ手は冷たく、私を緩く包み込むその体にも温もりはなかったけれど、他に必要なものなど何もなかった。あの部屋には何もなかったけれど、きっと、全てがそこにあった。
カラス。
カラス。
貴方はなぜ、今、ここに居てくれないの―――――
*
*
「……イリア様?一体どうなさったの?」
柔らかく心地の良い声が聞こえて振り返る。
豪奢な金髪を揺らしてマリアンヌが形の良い眉根を寄せた。
「……ああ、またあのお二人ね……」
学院の食堂で昼食をとっていれば、その場が小さくざわめいた。
何事かとそちらに視線を向ければ、私の婚約者と妹が寄り添うようにして歩いていた。
ぼんやりとその姿を追っていれば、お似合いの二人だと囁く声が耳に入る。
ソレイル様には、イリア様よりも妹のシルビア様のほうが相応しいと。
正面で一緒に昼食をとっていたマリアンヌも私の視線を追うようにしてそちらを見つめた。
「イリア様、あれはさすがに行き過ぎではなくて?」
暗に、シルビアの行動が貴族の子女としては良くないことではないかと非難めいた色を乗せて問われる。
婚約者のいる男性といかにも親しげに歩いているのだ。その行動が褒められたことではないというのは教えられなくとも知っておかなければならない。
だけど。
「……妹は体が弱く、あまり常識というものを身に着けてこなかったものですから……」
そう言ってフォローするのが私の役目だ。
私は姉なのだから。
「イリア様、その言い分はさすがに聞き飽きましたわ。それに、お気づきでないようですからあえて言いますけれど……」
「?」
「貴女、泣きそうな顔をしていましてよ」
テーブルの上で紅茶のカップを握り締めていた私の手を、マリアンヌの細い手が浚う。
「このままで、よろしいの?」
ソレイル様を、愛していらっしゃるのでしょう?
優しく包み込むように言われて返答に詰まる。
かつての私はソレイルを確かに愛していた。
そして今生の私も、ソレイルに出会ったそのときに彼に恋をした。
あの茶会を終えて、ソレイルがシルビアに恋をするのを目の当たりにして恋心が潰えたかと言えばそうではない。
だけど。
だけど、何かが違う。
何かが、違うのだ。