3
「妹のことを守って欲しいの」
そう言えば、カラスはただ不思議そうな顔をして首を傾いだ。
そして、それをそのまま疑問として口にする。
「なんで?」
「守って欲しいから」と答えれば、傾いだ首をもっと深く傾ぐ。
その動きはどこか奇妙だ。
黒いローブを纏っていることもあって、奇術師か等身大の操り人形のようにも見える。
カラスはここ最近、一日と日を置かず私の部屋へ飛んでくる。
無断侵入していた最初の頃とは違い、律儀にも窓ガラスを嘴で突いて私がそこをあけるのを待っているのだが、どうやって鉄格子を抜けるのは分からない。
ほんの一瞬、目を離した隙にいつの間にか部屋の中に居るのだ。
そして、その時には既に人型になっている。
「……まぁ、良いよ。君が望むのならね」
ふ、と小さく笑んだカラスは妖艶だ。
表情の読めない作り物みたいな顔をしているはソレイルとどこか似ているのだが、かと思うとどこか人間くさく、そのアンバランスさが得体の知れないものを思わせる。
悪く言えば、不気味とでも言うのだろうか。
「でも不思議だなぁ。君が何でそんなに妹を大切にするのか」
意味もなく部屋を歩き回り、大したものもないのに本棚や鏡台を物色する姿は鳥のときと然程変わりない。
だからこそ、あの鳥がこの男だということを証明しているような気がした。
「妹だもの。大切に思うものでしょう?」
そう返せば、私が座っているベッドに勢いよく乗り込んできたカラスが笑う。
「うーん、そうかな。それはさ、詭弁だと思うけど」
「詭弁?」
「そう。妹だから大切なんてさ、それって真実味に欠けるよ」
私より年上だと思う。だけど、見ようによってはだいぶ年下のような気もする。
よく見れば少年のような顔立ちをしているし、そうかと思えば老成しているような表情を浮かべる。
心底、不思議な男だと思う。
「君は婚約者の事が好きなんでしょ?君にとっては恋敵じゃないか」
ごろりと寝転んだ男が切れ長の目で見上げて言う。
「……私、ソレイル様のこと貴方に話したかしら」
「いいや。でも見てれば分かるよ」
ふふふ、と愉快げに声を上げるカラス。
一体、どこから見ていたというのだろう。少なくとも彼の前でソレイルと言葉を交わしたことはない。
そもそもカラスは夜中にしか現れないし、私の部屋にしか来ないのだから見ていたと言われても実感はない。
昼間はもしかして、別の姿をとっているのだろうか?
そうは思ったけれど、その疑問に素直に答えるような男ではないことにも既に気づいていた。
「恋敵だからと言って、大切にしない理由にはならないわ―――――」
少なくとも私にとってはそうなのだ。
これから何が起こるのかを知っている私には、彼女を大切にする理由がある。
今度だって同じだ。妹を失わない為に、すべきことをする。それだけなのだ。
だから、利用できるものは利用する。
前回と同じように。
「それに貴方、対価は不要だと言ったじゃない。私を助けてくれるって」
「まぁ確かに言ったね。報酬は要らないって。それは金銭的な意味だったんだけど」
「……」
「そんな顔しないでよ。約束は果たすから。……君からの返事は聞いてないけど」
ふいに起き上がったカラスが自分の頭を私の膝に置いて甘えるような仕草をした。
「だけど理由は欲しいな」
「……理由?」
「僕が動く理由だよ」
しんと空気が凍る。気がした。
温かくも冷たくもない、しいて言えば、真っ黒な石を埋めたような双眸が私を射抜く。
言い逃れは許さないとでも言うように。
「―――――一度だけ」
「……ん?」
「一度だけ、妹に命を救われたことがあるの」
そうなのだ。だから、私は妹に強く出られないのだ。
負い目がある。あのか弱い妹に守られたのだという負い目が。
「幼いときに、世話をしていた馬の前足に蹴られそうになったことがあるの」
世話と言っても真剣にやっていたわけではない。
勉強の息抜きにと時々足を向けていた厩舎で、お手伝い程度に馬丁の補助をしていただけだ。ほとんど邪魔していたと言ってもいい。
あのときもそうだった。
だから、その場に居た誰もが油断していた。
普段は大人しい馬だったし、そんなことになるとは誰も思っていなかったのだ。
馬丁もそこに居て、馬の手綱を握っていた。だから、石に躓いて転んだ私に驚いた馬が思わず前足を上げるなんて思ってもみなかった。
―――――姉さま……!
幼い妹の手が背中にかかったのをはっきりと覚えている。
妹は初めからその場に居たわけではなく、偶々通りかかっただけだった。
いつものごとく数日前まで病気で寝込んでいて、部屋に篭りきりなのも良くないだろうと、軽い運動がてら侍女を伴って散歩に出ていたのだ。
そこで馬に蹴られそうになっている私を見つけた。
本当に、偶々。
そして、事もあろうか私を庇おうとしたのだ。
馬のいななきと、頭上に迫る大き影。恐怖で身じろぐことさえできなかっ私を、小さな小さな妹が庇った。
危機一髪、事態に気づいた馬丁が手綱を引かなければ、妹は確実に頭を蹴られていただろう。
きっと、無事では済まなかった。
「……それだけ?」
私の話を聞いてカラスはあっけに取られたような顔をした。
「―――――ええ、それだけ」
だけど、それだけで充分だった。
あの頃、病弱な妹はほとんど隔離されているようなものだったから、言葉を交わしたのも数えるほどしかなかった。
母親の違う妹というだけで距離が生まれるものなのに、物理的に離れていれば接触する機会もない。
自分に妹がいることは知っていたけれど、その存在を強く意識したことなんてなかった。
居ても居なくても、同じだと、思っていたのだ。
それなのに。
その子が、私を『姉さま』と呼んで、私を救おうとした。自分の身を挺してまで。
「つまり絆されちゃったわけだ」
「……そう、ね。そうかもしれないわ」
咄嗟に私を庇ってくれたシルビアだけれど、お互いに無事だと分かって我に返ったときは小さく震えていた。
余りにも頼りなく細い四肢をぎゅっと縮めて、怖かったと私に縋り付いて泣いていた。
だから私はその体を抱きしめて誓ったのだ。この小さくてか弱い妹を守ろうと。
次に何かあったときは、私こそが彼女を守るべきだとそう思ったのだ。
それなのに。
「―――――ふふ、良いね。良いね。とっても良いよ」
こちらを見上げる真っ黒な双眸。
何を考えているかは分からないが、その目端は愉快げに緩んでいる。
「分かった、良いよ。妹ちゃんを守ってあげる」
そういう人間らしい感情は嫌いじゃないからね。とカラスは私の膝の上で後頭部をぐりぐりと動かして遊んでいる。
思わずその額を撫でれば、寸の間、呆けたような顔をしたカラスはやがて満足気に笑った。
学院を卒業するまで後僅か。
このまま何もなければ私とソレイルは結婚する。
そして、三年経てば、あの夏がまたやってくる。
シルビアが強盗に襲われて死んだあの夏だ。
今度は一体、何が起きるというのだろう。
私は、うまくやれるのだろうか。
怖い。
ただ、怖いと思う。
だけど、うまくやらなければ私は、またソレイルに断罪される。
*
*
私とソレイルが結婚したその日、妹は親族として式に参加していた。
式の終盤、教会の外の整えられた小さな庭に出て親族や旧友と短い言葉を交わして祝福を受ける。
両親と一緒に私とソレイルの前に立ちおめでとうと笑う妹。お幸せにね、と微笑むその姿。
自分の式だというのに、妹のその姿だけが鮮明に思い起こされる。
銀色の髪を緩くまとめて、薄い紅を引いていた。白い肌にそれがよく映えていた。
初めて二人を引き合わせたあの茶会と同じように、白に近いベージュのドレスを着て小さな微笑を浮かべた。
あまり表に出てこない小柄で華奢な妹のその儚い姿は人目を引いて、新婦の私よりずっと目立っていた。
祝辞を述べたシルビアに、ソレイルは、ありがとうと言った。
私の横でその冷たい双眸を僅かに緩ませて。
だけど、その横顔には、隠しきれない哀切の色を乗せていた。
愛する人と一緒になれない。それを改めて実感したように。
その顔を見ていられなくて、ふと空を見上げれば、頭上で黒い鳥が大きく旋回しているのが見えた。
まるで私を嘲笑うかのように。
「……カラス」
呟いた私の声を耳聡く聞いていたソレイルが訝しげに首を傾ぐ。
何でもないと首を振れば、彼はそっとため息を噛み殺して「そうか」と肯いた。
まるで興味もなさそうに。心底どうでも良さそうに。
そして、その視線は再び妹の元へと返っていった。
今日は人生最良の日になるはずだった。
一度目の私は、確かにそう信じていた。
何週間も掛けて今日の為のドレスを選んだ。それでもどうしても気にいらない部分は自分で刺繍を差した。
一針入れるごとに、幸福に一歩近づくような気がして。
それを願って口元が綻ぶのを実感していた。
だけど、こうやって注意深く観察すれば、ソレイルがいかに私のことを厭わしく思っているかが分かる。
誰にも悟られないように誰にも知られないように、何でもない振りをしながら、その実、私のことを煩わしく思っているのが分かる。
こんなにも。
こんなにも、私は、ソレイルに愛されていない。
神の前で永遠の愛を誓うソレイルの冷たい横顔を見つめながら、この人はこんな風に神さえも欺くのだとまざまざと思い知った。
政略の為に己の愛を封印する人間だ。
愛よりも領地や領民を守ることを選ぶ人間だ。
そんな風に、感情を抑えて理性的に行動できるということは、執政者としては理想的な姿だと言えるかもしれない。愛によって道を見失う人間は少なくない。だけど、彼は、きっとそうならない。
その為に私を選んだ。
そして、私が恋をしたのはそんな人だった。
彼の、冷徹とも取れるそんな姿をこの目にしようとも想いが冷めることはない。
だから私は神の前で、真実、誓いをたてた。
どんなときでも彼を愛し続けると。
彼が私を愛さないのであれば、私が二人分の愛を誓えば良い。
そうしていればいつか報われるときが来るかもしれない。
そして私はソレイルの妻となった。
―――――三度目の人生は、それまでの人生に比べれば、圧倒的に穏やかな日々だったと思う。
私はあの夏の日に備えながら、侯爵家の夫人として社交もこなし、そつなくソレイルの妻としての役目を果たす。
全ては三年目の夏に起こるあの事件を回避する為。人脈を作り、更にその繋がりを強化する必要があった。
根回しをする為に私は精力的に働いていた。
「イリアが言うから調べたけど、あんな小物の強盗団を一体どうしたいの?」
カラスが不思議そうに首を傾ぐ。
だけど、曖昧に誤魔化して理由を言わない私を追及することなく彼は協力してくれた。
「何をしようとしているか知らないけれど、どうせ退屈だから構わないよ」とうっそりと笑って。
―――――そして、ある日のこと。
思いも寄らない出来事が起こった。
話があるからと呼ばれたその席に、ソレイルが連れて来たのは私の妹だった。
青冷めて強張るような顔をしていたのはシルビアで、ソレイルはその妹を庇うようにして立っている。
何事かとその姿を見つめていれば、ソレイルは普段と何ら変わりない端正な顔をこちらに向けた。
「……シルビアは悪くない」
唐突にそう切り出されて、とりあえず顔色の悪い妹を座らせるように促す。
けれど、シルビアは黙って首を振った。
大きな瞳に涙を溜めて、何かを堪えるように唇を引き結んで今にも泣き出しそうだ。
何かを予感するように、背中が小さく震えた。
「……妊娠したんだ」
すっと息を吸ったソレイルが抑揚のない声で言った。
「……誰が、です?」
ぽつりと呟いた声が広い客間に落ちる。
頭では分かっていたけれど、理解が追いつかず思わずそう口にしていた。
「シルビアが私の子を妊娠した」
今度こそはっきりと告げられた言葉に、頭が真っ白になる。
そう、文字通り真っ白に。
あらかじめ人払いをしていた客間には私たち三人だけ。
だから、私の不規則な呼吸音がはっきりと響いた。
やっと搾り出した声は「どうして、」と大きく震える。
胸の底から石の塊を吐き出すみたいに零れた言葉が、意味もなく転がった。
シルビアは体が弱く、子供を望むことは難しいだろうと言われていた。
だからこそ、彼女には婚約者がいなかった。
後継を産むことこそが役割とも言える貴族社会で、彼女は圧倒的に不利な立場だった。
そのはずだった。今、この瞬間までは。
「どうして、」と何に対してかは分からないけれど、馬鹿みたいに繰り返す。
それに返事をするのは「お姉さま、ごめんなさい」と消え入りそうな声で呟くシルビアだ。
その姿を視界の隅に留めながら、私の目はソレイルのその顔に視線を送り続ける。
今日は確か、結婚記念日だったはずだ。
二度目の、結婚記念日。
まだ二年しか経っていない。
三年目の夏に照準を合わせて手はずを整えていた私の気づかない場所で、二人は、逢瀬を重ねていた。
この場で冷静を保っているのは恐らくソレイルだけだった。
不貞を働いたというのに「シルビアを愛している」と、罪悪感さえ滲ませない声ははっきりと告げた。
前の人生でも、その前の人生でも、私がただの一度も得ることができなかった言葉だった。
どれほどに尽くしても、どれほどにソレイルを愛していると言ったって一度も返ってこなかった言葉だ。
それを、妹は、ただ「シルビア」だというそれだけで得てしまうのか。
私がこの手に抱くことさえできなかった子供を産んで、文字通り、幸福な家庭を築くのか。
それは、本来、私が得るはずだったものだ。
大声で叫んだ。
この叫びが世界を粉々に砕いてくれるように。
そんな馬鹿なことは起こるはずないと知っていたのに。
*
「……イリア、どうして泣いているの?」
床に伏せて胎児のように丸まっていると、上から降ってくる妙に甘い声。
顔を上げれば、カラスの秀麗な顔がすぐそこにあった。
あの時、私の叫び声を聞いた護衛が部屋の中に飛び込んできた。
無意識にアルの姿を捜したけれど、結婚したその時に、アルは実家に置いてきたのだと思い出す。
私を守るより、妹を守ってと言った私の言葉に確かに傷ついた彼の顔が一瞬過ぎって消えた。
そして、言葉さえ交わしたことのない侯爵家の護衛が錯乱する私を担ぎ上げて、自室に放り込んで外から鍵を掛けたのだ。
「……カラス、カラス、」
言い訳をするなら、私は多分このとき限界だった。
いくつも超えた臨界点の先、本当の絶望を味わっていた私は、そのとき一番近くにいて優しい顔をしてくれたカラスに縋ったのだ。
だから、己の辿ってきた、とうてい現実とは思えない出来事を洗いざらい話した。
きっと、誰かに同情して欲しかったのだ。
一人でよく耐えたねと慰めて欲しかったのだ。そして、心配しなくても良いと言って欲しかった。
何でも良いから、過酷な現実を生き抜くための理由が欲しかった。
「イリア、イリア……」
しゃくりあげて、ところどころ言葉に詰まりながら、それでも最後まで話を聞いていたカラスが私の名前を呼ぶ。
こんな荒唐無稽な話を信じてもらえただろうか。だけど信じてもらいたい。そうでなければ。
私の顎を細い指がすくう。強引に上げさせられた視界に、カラスの顔が映りこんだ。
その仮面のような白皙の顔は何を思っているのか、表情から読み取れる情報は皆無だ。
真っ黒な双眸に泣き腫らした自分の不安そうな顔が映っている。
「君が言っていることが本当だとすれば、」
カラスは言葉を切って私の目をじっと見つめいる。まるで心の底を覗こうとしているみたいに。
やはり信じてもらえなかったのだろうかと沈みそうになる気持ちを、次の言葉が掬い上げる。
だけど、続く言葉は同情なんて優しいものではなかった。
「それはまるで地獄みたいだね」
頬を伝う涙を舐め取って、カラスは笑った。
「ねぇイリア。地獄というのは、罪人が行くところでしょう?」
「罪、人」
「罪を犯した人間が死後に堕とされるところでしょう?そして、そこで罰を受けるんでしょう?」
「罰を、」
受ける―――――?
「ここが地獄なら。君が罰を受けているというのなら。君は一体どんな罪を犯したんだろうね?」
カラスの冷たい指が、絨毯の短い毛足を引っかくように握り締めている私の手を上から押さえ込む。
「なぜ、君だけにそんなことが起こるんだろうね?」
「なぜ、君だけが同じ時間を繰り返すんだろうね?」
ぶるぶると震える私の指に被さるカラスの手に、いくつも水滴が落ちた。
これがもしも罰だというのなら。これが犯した罪の代償であるのなら。
私の罪はきっと、自分の幸福を願ったことだろう。
それはつまり、ソレイルやシルビアの不幸を願うことと同義だった。
一度目の人生で私は確かに、シルビアの死に歓喜した。
だけど、それはこれほどの地獄を生むものだったのだろうか。
「君ってもしかして、自分だけが、不幸なんだって思っているんじゃない―――――?」
私はカラスの問いに何て答えただろか。
今となってはもう覚えていない。
覚えているのは、一人きりで部屋の中に佇む自分の姿。
『お嬢様は、自ら死を選ぶような方ではありません』
そう断言したアルの声。
それでも、いつだって不安だった私は、結婚してからも自室に刃物を持ち込まなかった。
それが自らの皮膚を傷つける可能性を案じたからだ。はさみもナイフも剃刀も、何一つ置かなかった。
だから、薄いシーツを歯で裂いて、縄を編んだ。
正気じゃなかった。
正気じゃなかったけれど、自分が何をしているのかはきちんと理解していた。
私が一度も抱くことができなかった赤ん坊を、妹はきっとその手に抱くのだろう。
そしてソレイルと二人、嬉しそうに微笑む顔を想像すれば、いとも簡単に実行できた。
もう駄目だ。私はもう、駄目だ。あの子が幸せになる姿を、ソレイルが別の誰かと築く未来を見ていられない。
これが罰なら、これが犯した罪の代償だとすれば。
ただこの現実が続いていくだけだ。
どんでん返しなんて起こらない。
首に縄を掛ける。
乗っていた椅子からつま先が滑り落ちた。