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五章―5

《未来》の忘却者、だ。

 ぞわ、と戦慄が体の中を這いまわった。

《未来》の忘却者に意思はない。感情もない。感覚もない。ただの「力」だけだった。力の奔流に郁斗も、星歌も意識を根こそぎ持って行かれそうになる。持っていかれたら最後、自分たちも〝亡者〟になるのだろう。

 ずるずると自分の中にある力が暴れ出し、郁斗という自我の端を少しずつ蝕んでいった。

 ――このままでは危険だ。

 星歌も顔を歪めながら、《未来》の忘却者の手のひらを握っている。彼女が、《未来》の忘却者の中を必死に探っているのがわかった。郁斗も抗いつつ、《未来》の忘却者の中にある力の〝核〟を探す。〝核〟は《未来》の忘却者の源――言わば、自分を形成する仮初の〝芯〟。《未来》の忘却者の力でもあるし、《未来》の忘却者そのものでもある。その〝核〟に触れられれば――!

 炎がこの室内を完全に取り囲んだ。天井が崩壊し、がらがらと瓦礫と化して、雨のように自分たちに降り注ぐ。体内では力が暴れ続けている。表に出せと言わんばかりに、体の奥底から込み上げる。

 それでも郁斗と星歌は真っ暗闇のような《未来》の忘却者の中をさ迷い、探り続けた。

 不意に、美術館全体が揺れた。

 天井だけではなく、美術館そのものが崩壊しようとしている。フロアにも、壁にも、亀裂が走った。

 ずん、と一際大きく館内が揺れ――、郁斗は《未来》の忘却者の力の核を見つけた。

 星歌がそれに触れようとし、ずずず、と地響きのような轟音が館内を大きく揺さぶった。

 そして、それが不意にぴたり、と止まる。

 燃え盛っていた炎も、小さくなっていく。崩れていた天井の瓦礫も落ちてこなくなった。館外の争っていた気配もしん、と静まり返っている。

「やった……!」

 星歌が信じられない、と言った面持ちで、しかし、歓喜の声を上げた。

 星歌が《未来》の忘却者の核である《未来》の忘却に触れて、その力を素早く郁斗が自分の能力として自身に定着させた。〝最悪〟の《未来》の軌道を変えて、〝都合がいい〟《未来》へと書き換え、暴走していた力を無理矢理自分たちの力の平常値へと抑圧させることに成功したのだ。

 一瞬の、出来事だった。

 ぺたり、と星歌が座り込む。それにつられて、《未来》の忘却者の体が崩れ落ちた。

 郁斗もその姿のまま、その場に座り込んだ。

「……」

「……」

 郁斗と星歌の荒い呼吸音だけが、沈黙を破っていた。

 繋がった時、郁斗は見てしまった。星歌もだろう。〝亡者〟の――《未来》の忘却者の過去を見てしまった。それは自分たちが想像していたものよりも、遥かに生々しく、凄惨なものだった。彼女が自分たちを恨むのも、頷けた。

「ごめんなさい」

 星歌が謝る。

 郁斗も、心の中で深く頭を下げた。

 罪悪感があった。いっそのこと、この命を差し出して楽になってしまいたいくらいの罪悪感だ。けれど、もうどうすることもできない。

 自分たちは、大切なものを見つけたばかりだからだ。

 この期に及んで何を言うんだろう、と自分でも思う。しかし、絶対に、誰にも譲れないものだ。

「ごめんなさい」

 だから、自分たちには、謝ることしかできなかった。




   3




《未来》の忘却者――沙夜の夢は画家だった。

 両親は画家になることを告げた時「がんばれ! 沙夜ならなれる!」と応援して、喜んでくれた。嬉しくて嬉しくて、沙夜は毎日毎日努力した。

 けれど、あの日、全てが変わってしまった。

《繋がり》の忘却者。

《自身》の忘却者。

 その二人のせいで両親は化物になり、死んだ。惨い死に方だった。目も当てられないほどだった。

 沙夜は自分自身の《未来》を失い、仮初の《未来》という忘却の力を手に入れた。

 二人を憎んだ。

 見つけ出して、殺してやろうかと思った。

 この力を使って、両親と同じ目に遭わせてやろうか思った。

 夢も、自分も切り捨てて、復讐者となった。

 二人を殺す、それが自分にとっての夢で、希望で、生きる目的で、《未来》だった。


 ――本当にこれでいいの?


 憎しみと、過去が見せる優しさのせめぎ合う中、心の中で自分が呟いた。

 そうそれでいい。

 ――違うでしょ?

 違う、殺したい。

 ――本当に?

 本当だ。


 ――じゃあ、何で自分はこんなにも苦しんでいるの?


 …………。


『元に、戻りたかった』


 あの頃のように。

 あの時みたいに。

 沙夜はあの時、《繋がり》の忘却者が自分の中に入った時、自分も逆に《繋がり》の忘却者と、《自身》の忘却者の過去を見てしまった。幼い故の、どうしようもない過ち。幼いが故に、理不尽な現実に太刀打ちできない事実。

 どうしようもない。

 どうしようもないけれど、憎む気持ちはさらに燃え上がった。

 でも。

 でも、どうだろう?

 あの時、二人は全てを壊した。何もかもを、完膚なきまでに。

 でも。

 でも、今は?

 自分が全てを壊そうとしているではないか。

 あの時と同じように。他人を巻き込んで、全てを破壊しようとしている。

 自分はこの二人の過ちを、罪を知っている。知っているのに、自分は同じことをしようとしていた。自分と同じような人を生み出そうとしている。

 それは、いけない。

 二度と、あの時のようなことを起こしてはいけない。

 沙夜は薄らと目を開く。

 眩い光の中、女の子が泣いていた。女の子の後ろではライオンと、ヤギと、ドラゴンの三つの頭を持った化物が、沈痛な面持ちで見下ろしている。

「ごめんなさい」

 彼女が言う。

 未だ繋がっている二人の心の中は、頭がおかしくなりそうなほどの罪悪感で一杯だった。

 ――あなたたちがしたことは決して赦されるものじゃない。

 心の中で告げる。

 でも、未だ繋がり合う心の温もりは、両親がいたあの時の温かさと同じもので。

 ――しょうがないわね。この過去を忘れずに生き続けるというなら、赦してあげもいいわ。

 温もりに絆されてしまった自分に、笑ってしまった。




   * * *




「…‥沙夜さん」

《未来》の忘却者――沙夜の言葉が、ゆっくりと二人の心に浸透してく。

「ごめんなさい。……ありがとう」

 暴走していた力を何とか鎮めたことで、信じられないことに沙夜の意識が戻ったようだった。気を失っているわけではないようだが、暴走していた力に身をゆだねすぎたせいで、体を起こすことはおろか、瞼も開けられない状態のようだった。

 ぷつん、と沙夜との繋がりが途切れる。今郁斗と繋がっているのは、星歌だけだった。

「……疲れた」

 空はこの下界のことなど我関せずといったような白々しい青色をしていた。真冬の太陽が、淡く地面に落とされる。

 美術館の火は完全に消えていた。崩壊も止まっているが、ちょっとした衝撃で今にも崩れそうになっている。

 館外の他のエリアにいる《対策チーム》の声がキマイラとなっている郁斗の耳に微かに届いた。声を張り上げることができるくらいなのだ。とりあえずは大丈夫なのだろう。

「はー……」

 星歌が後ろへと倒れ込んできた。前脚でその背中を支えてやる。

「疲れたねー」

 上を向いて、星歌が満足そうに微笑んだ。星歌の元々の瞳と、キマイラで再生された不可思議な色をした瞳が細められた。

「そうだね」

 頷けば、星歌が面白そうに声をあげる。

「あはは! 郁斗ってば、三つの首が同時に頷いたよ! おもしろーい!」

 けたけたと笑い転げて、星歌は前脚に全身を預けて、静かになった。

 何かを黙考しているようだった。けれど、その思考は何故か覗けない。プライベートだから、と郁斗は深く見ようとしなかった。

「ねぇ、郁斗?」

「ん?」

「また、私たち会えるよね?」

「……いきなり、何?」

「また会えたら、私のこと、パートナーとして認めてくれる?」

「何か今生の別れのような感じの台詞だよね。それ」

「そうだね。変だよねー」

「うん。あんたは馬鹿だね」

「失礼な!」

 拗ねた顔つきで、星歌は枕に顔をうずめるように、郁斗の前脚に顔を伏せた。

「郁斗」

「さっきから、何?」

「――――」

 突然、ぷつん、と《繋がり》が途切れた。

《繋がり》が途切れたせいで、キマイラの姿が保てなくなる。慌てて人間としての郁斗の姿になり、倒れ込んできた星歌の体を支えた。

「星歌? どうしたの?」

 ぐったりとした体は、力が入っていない。顔を覗きこめば、目が固く閉ざされていた。

「星歌? 星歌!?」

 揺さぶって、頬を叩いて、星歌を起こす。しばらくそうしているうちに、星歌の瞼が、薄らと開いた。目の焦点が合わず、ふわふわとさ迷い、ようやく郁斗を映した。

「星歌」

 安堵で、体から力が抜ける。しかし、星歌の口が開いた時、郁斗は息を呑んだ。

「――誰?」

 星歌は、全てを忘れていた。




 そうして、《未来》の忘却者は確保され、全てが終わる。


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