四章―7
くす、とまた一つ笑みをこぼして、星歌は言った。
「あなたの目の前にいるじゃない」
「…………………………はぁ?」
素っ頓狂な声が、出る。
「何言ってんの? あんたが私の大切なものじゃないよ。だって、あんたは」
――私……、だ。
そう言いかけて、星歌は口を閉ざした。
あんたは、私そのもの。
目の前にいる星歌は、ここにいる星歌だと、無自覚にも認識していた。
絶句する星歌に、星歌は愉快そうにけらけら笑う。違和感、落差――不気味。当たり前だ。目の前にいるのは、星歌自身。そんな仕草をしたことがないから、違和感を覚えて当たり前なのだ。
「うわ、気持ち悪っ!!」
「あなた失礼ね」
「だって、私そんな風に笑わないもん。キモっ!!」
「うるさいわ! 私だってあんたみたいなのが本体なのが気持ち悪くて仕方ないんだ!」
「あ、何か今、本当に私なんだって確信しちゃった」
「そんなことで確信するな!」
あの笑みがなくなって、怒り方も、口調も同じになって、どこかほっとする。これは確かに自分自身なのだ。目の前にいるのは、星歌の大切な部分――核なのだと。
でも、何故、自分の半身ともいえる星歌が目の前に現れたのだろう。現れるなら、もっと早く出てくればいいのに。
「私は確かに私だよ。だけどね、私は空魔なの」
「……あくま?」
聞き慣れない言葉だった。
いや、最近聞いた覚えがある気がする。確か、夢子が言っていたはずだ。
「空魔って?」
「それは大切な核が存在化したもの。ほら、あなたの前に、確かに存在しているでしょう?」
「……うん」
「空魔は記憶によって、どんどん存在化が進む。でも、空魔は記憶をとどめることができないの。何でだと思う?」
「……?」
「だって、空魔という存在はまだまだ完成されていないから」
「――――完成?」
「そう。完成されていないから、空魔という存在は希薄なもの。在るようで、ないもの。まるで幽霊って感じね。空魔はね、希薄すぎる存在がとても心許ないもので、何としてでもこの世に確実にちゃんと立体なものとしてここに存在したい」
「……」
「空魔の成長――存在の確立は記憶を得ること。私たちの核を基にした――大切なものに関する記憶を食べること。記憶を蓄積することによって、私たちは存在できる。まぁ、一番手っ取り早い方法は、一度に記憶を全部食べることなんだけどね。あの《未来》の女の子のように。けど、それはね、記憶と私たち空魔がうまく定着できずに、私たちが存在できるどころか消滅してしまうのが欠点なんだけど」
ヤバい、と脳内が警鐘を鳴らす。
ここにいるのは危ない。
こいつは危険。
脚が、一歩下がる。
「私がこうしてあなたの前に現れた理由。私はあなたの空魔だから。あなたの記憶で私は成長できるから。もう、何が言いたいかわかるでしょう?」
にっこり、と星歌が嗤う。
「あなたの記憶、私にちょうだい?」
す、と音もなく星歌の手が伸びてきた。反射的に身を退いたが、間に合わない。指先が星歌の胸元に触れ――ずぶり、と手が星歌の胸に沈み込んだ。
「え」
痛みはない。血も出ていない。ただ体の奥底を引っ掻きまわされるような気持ち悪さと、意識が混濁するような目眩に、体が傾ぐ。
「ふふ。やっぱり、いいものを持っているわね」
ふと、視界の端にぺらぺらと風によってめくられる日記帳のページ。けれど、その日記帳には何も書かれていない。日々の出来事を綴ってあるはずなのに――。
目の前の、もう一人の星歌がそれに気付いたのか、浮かんでいる笑みをさらに深くさせた。
「今までのあなたの記憶は、私が全部食べちゃったよ」
事もなげに――無邪気に言う星歌。だから、星歌のなけなしの記憶が書かれていたはずの日記には、何も綴られていないのだ、とようやくわかった。
ぐしゃぐしゃと掻きまわされる体の――心の中。
――嫌だ。
何をされているのか、すぐにわかった。
記憶を――自分の中にある大切なものに関する記憶を探り取ろうとしている。記憶を失って、ようやく得られた新しい記憶をもこいつは奪おうとしている。
嫌だ。渡したくない。これは、これは私のものだ……!
星歌は、胸に突っ込んでいる腕を掴んだ。ぎり、と爪を立てて、引きはがそうとする。
「ん? 抵抗するの?」
嘲笑うかのように、星歌は言う。
嫌だ。
渡したくない。
嫌だ。
もう、忘れるのは、嫌だ。
ぎり、と奥歯を噛みしめる。微かに咥内に血の味が広がった。
こいつは、大事なものを奪おうとしている。
――僕は星歌のパートナーだ。
初めて、嬉しいと思った言葉だ。
自分を認めてくれる、最高の一言。
何にも代えがたい一生の思い出。
もし、この記憶がなかったら、きっと自分は空魔に記憶をすんなり渡していただろう。辛いだけの現実。後悔ばかりの一生。なら、忘れて――傷ついて、また忘れて。その方が良かった。楽だった。この命さえ、他人と繋がれるなら投げ出す覚悟を持つだけだった。
けれど、今回は違う。
他人を守り〝生きて〟隣り合いたい。
「――――誰が」
爪を思い切り立てる。
指先の爪と肉の間に、星歌の肉が入り込むのがわかった。
「あんたなんかに」
歯を食いしばり、神経を研ぎ澄ませる。不意に遠くから何かがこちらに凄い勢いで向かってくるのがわかった。おそらくアトラクションだろう。先ほどの少年と同じように、自分もひき殺そうとしているのかもしれない。




