四章―2
逃げる、とは、誰から逃げようとしているのだろう。何だか、大事な記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているようだった。
違う。
抜け落ちていた。
腕に抱える日記帳はこれまでの記憶が綴られている、と、自分の記憶が告げている。けれど、そこだけ破り捨ててしまったかのように、白紙となっていた。
何で?
どうして、白紙になった?
考えても、思い出せなかった。
夢子にそのことを告げれば、不思議そうに首を傾げて、答えは出ぬまま。けれど、ここにいると危険と判断し、場所を移動したのだが。
「ダメ」
夢子が、不意に立ち止る。
「どうしたんですか?」
「やっぱり、無理みたい。二人で逃げるには、無茶があったわね」
夢子が鋭い眼差しを後方へと向けた。しかし、そこには何もない。虚空が広がるアトラクションの風景が広がっていた。けれど、彼女はそこにいる何かを見ているようだった。
「夢子、さん?」
恐る恐る、声をかければ、夢子は柔らかく微笑む。
「星歌」
「なに?」
「あなた一人で逃げなさい」
「え?」
「いい? ここの道を真っ直ぐ行けば、社員専用の出入り口がある。その出入り口から出て、あなたの記憶にあるホテルまで行きなさい。そこに誰かいるはずだから」
「待って、夢子さん! 何が何だか!」
「早く」
とん、と背中を押される。
「大丈夫。危険はないわ。大丈夫だからね」
前のめりになり、転びそうになった。脚をもつれさせながら、「夢子さん!」と背後を振り返った時、
「夢子さん……?」
そこには、もう誰もいなかった。
「夢子さん、逃げるって何で? 何から逃げてるの……?」
わからない。
不可解すぎて、ついていけない。
しかし、星歌にできることはただ一つ。夢子に指示された通りに、動かなければいけないということだ。
躊躇いつつも、星歌は歩き出す。歩き出して、走った。
何に追われているのだろう?
自分は何かしたのだろうか?
どくどく、と心臓が、不安に締めつけられて、痛い。何も分からない恐怖に、涙が出そうだった。
星歌は走って、走って、時が止まり、静止したテーマパークの空間を一人、何も分からずに走っていた。何も分からず、現実味を帯びない危険さが不安と恐怖が増し、けれど、反面滑稽だった。
何で自分は走っているのだろう?
何に怯えているのだろう?
言われた通りに真っ直ぐに走り続けた。社員用の出入り口、とはどこにあるのだろうか。目先に延びる道は、ずっとアトラクションの中を通っている。
夢子の顔を思い出す。
鋭い視線を向けて、僅かに険しい顔をした彼女は、どこか緊迫感があった。何か大変なことが起こっているのは確かだった。
大変なことなら、自分も何かしたかった。
夢子を手伝いたかった。
「でも、私って何ができるんだろう」
――大丈夫、と彼女は言っていた。
「あんな顔して言われても、説得力ないよ……」
は、は、と自分の息が切れる音が聞こえる。走り続けたせいで、横っ腹が痛い。全身も熱くて、ジャケットの下は汗が伝っていた。脚も気だるく、走っている感覚さえ覚束ない。
目の前には大きな橋があった。
木製のどっしりとした吊り橋風な橋は、向こう側へと繋がっている。コミカルな看板には『風の都』と書かれている。どうやらエリアが変わるらしかった。『風の都』というエリアは、星歌が駆け抜けてきたエリアとがらりと雰囲気が違っていた。
走ってきた場所は露店が建ち並ぶようなレンガ造りの建物があったが、『風の都』はまた違う。広大な草原の中に大きな風車が点在している風景は、どこか牧歌的な雰囲気があった。アトラクションものんびりと楽しむようなものばかりだった。
星歌は『風の都』の中へと足を踏み入れる。
風景が変わると、空気も変わったように感じた。
のどかな景色に脚を止めそうになる。景色を一瞥しながらも走っていた時、ある大きな風車の前を通りかかった。
その時、
「何してるんだ!」
声が、空から降ってきた。
* * *
上空から《未来》の忘却者を探している時、目を疑った。
のんびりとした空気が漂う『風の都』のエリアに、そいつはいた。息を切らしながら走る姿は、疲れきっている。何より、驚いたのは、下にいる人物が一人、ということだった。
何で、一人で――!
「何してるんだ!」
気付いた時には、郁斗は降下していた。
下にいる人物は降ってきた言葉に驚きながら、周囲を見渡して。上空からくる存在に気付いたのだろう、ぱ、と空を見上げた。
目が、あった。
驚きに見開く目と、間抜けにもぽかん、と開く口。
たった一日離れていても、――星歌は、星歌だった。
ばさ、と翼を羽ばたかせ、地に降り立つ。
「わ、鷲……?」
何でこんなところに? と星歌は興味深そうに、じろじろと見つめてきた。大きな鷲を前にしても、怯えない。それどころか、近寄ってきた。
「鷲だ! 大きいー! かっこいいー!」




