三章―5
過去の自分だけの記憶が、そう叫んだ。
誰かに対して、とても怒っていて、声を張り上げて言った言葉。この言葉は、誰に言ったのだろう? 宣言したのだ。誰かに――大切な人に。
思い出したい。
けれど、思い出せない。
ここには、誰もいない。
夢子も、郁斗も、大切だった人も、自分の陰口をたたく人も、全員。
「ふ、……う……」
ぼろ、と涙が頬へと零れた。
目が熱い。鼻の奥がツン、として、喉も嗚咽を堪えているせいで痛い。その痛みが惨めさをさらに際立たせて、もっと涙が溢れてくる。
寂しい。
怖い。
誰か、いて。
想いが、胸の奥から込み上げてきた。
それは口にしてはいけない願い。
強くなると、誓った自分が抱いてはいけない願いだ。
「……っ、……ぅ、ぅ……」
膝に顔を埋めて、ひたすらに堪えた。静寂がその孤独感をさらに突き付ける。そして、誰もいない静寂の間を、
「あんたは、いつも独りだね」
〝誰〟かが破った。
ば、と顔を上げる。
「え……?」
そこには、〝星歌〟がいた。
黒い髪に、ダウンジャケット、スカートに、タイツ。今の星歌と同じ服装で、けれど、今の星歌とは違い嘲笑するかのような笑みを浮かべていた。
「あんたはいつも独り。願うばかりで何もない」
こつん、とブーツを踏み鳴らし、星歌が歩み寄る。
その音が妙に現実味を帯びていた。違う、現実だった。認識した途端、視界の明度がふ、と暗くなるのを感じる。
これは、――人間、ではない。
「だれ……?」
恐怖で声が震えた。これが、外を騒がせていた犯人なのだろうか?
「ねぇ、寂しくない? 怖いでしょ? それなのにあんたは独り。誰にも頼ろうとしない。強くもないくせにね」
くすくす、と嗤う声が、この室内に反響する。
「あんたは、」
「ねぇ、星歌」
星歌の言葉を遮って、星歌は言う。
「あんた独りで、何ができるかな?」
その言葉が、深く、深く、心に刺さった。
自分は、独りだ。
傍には、隣には、誰も、いない。
「あ、ぁ……」
繋がりあえる相手は、誰もいなかった。
* * *
郁斗は、思い知らされた。
自分は、独りなのだ。
いつも隣にいたリーダーである幸明もいない。
陰口をたたく、同士だっていない。
隣にいた足手まといだと思っていたパートナーも、ここにはいない。
――じゃないと、今度こそ本当になくなるぞ。
幸明の言葉。
それが何を意味しているのか、わからなかった。違う。わからないふりをしていた。本当は、知っていた。
くそ、と悪態を吐く。
あの笑顔は、ここにはない。
どこにも、いない。
――いつの間に、大切だと思っていたんだろう?
そう、あの少女がいれば負けることなんてなかったのに。
あんなに近くにいたのに、もう遠い。
こんなに近くにいるのに、手が伸ばせない。
本当になくなってしまう。
もう元には戻れない。
ここには誰もいない。
自分の隣には誰もいない。
ずっと、空虚なままだ。
隣に誰もいないことが、こんなにも心許ないものだとは知らなかった。
自分は空っぽなまま、死んでいく。
――どうせなら忘れたままの方が良かった。そうすれば、憎しみも怒りもなく、ただ綺麗な一時の思い出として、深く心に刻まれていたはずだったのに。
ぼろ、と頬に熱いものが伝った。
泣くなんて、何年振りだろうか。
自分はいつから、こんなに弱くなったのだろう。
何故、こんな弱い心になってしまったのだろう。
――違う、自分は元から弱いんだ。
何しろ、
――出会わなければよかった。
そう思ってしまったのだから。
体全体にかかる重量に押し潰されながら、郁斗は目を閉じた。
* * *
「星歌!」
ばたん、と乱暴にドアが開く。
ドアが開いて、顔を覗かせた人は可愛らしい女の子だった。息を切らせて、顔面蒼白になっている。
女の子が走り寄ってきて、自分をいきなり抱きしめた。
甘い香りに、すこしうっとりする。
「星歌、良かった……」
抱きしめる腕の力が強かった。
「いたい……」
身をよじれば、その人は慌てて腕から解放する。
「ごめんなさい。でも良かった星歌が無事で。大丈夫だった?」
女の子は本当に心配してくれたのだろう。顔面蒼白だった面持ちは、安堵の色で広がっている。
でも、ごめんなさい、と思う。
「あの」
それでも、星歌は口を開いた。
「あなたは、誰ですか?」
自分の記憶には、こんな女の子の姿はない。そして、誰もいない。自分の記憶以外は、何もないのだ。
女の子は、眼を見開く。
「星歌……?」
傍には分厚い本の頁が広げられ、その紙面には何も書かれていなかった。




