三章―3
『アハハハハハ! ミンナイッショニアソボウヨ!』
ぬいぐるみが、その小さな手を大きく広げる。
そして、アトラクションの陰から、多くのぬいぐるみの姿が現れた。
「おいおいおいおい……」
幸明が思わず苦笑する。
《対策チーム》のどよめく気配が伝わった。
「数が、多すぎる……!」
数十単位ではない。数百、数千という数のぬいぐるみが津波となって押し寄せてきた。その津波の中に女が一人突っ立っている。
生地が破けて中綿が飛び出たボロボロなダウンジャケット。タイツも伝線し、隠れていた肌が剥き出しになっている。両足に履いていたであろう、片脚には傷だらけのブーツが、もう片方はブーツが脱がれていた。頬も体も傷だらけで、美人だったはずの面影はすでになかった。
「《未来》の忘却者……!」
満身創痍の女が、ぬいぐるみたちの中央に立っていた。
「おい、おかしいぞ……」
幸明が珍しく緊迫感を持った笑みで、郁斗に告げる。
「何が、おかしいですか?」
「いいか? あいつは今〝気狂い〟だ。力が暴走している状態になっているはずだ。それなのに、力を使いこなしている」
確かに、一昨日の電車の中では次々とトラブルが続出した。というよりは、身近にあったものをとりあえず使って壊すような、子供が暴れるような力を使っていた。でも確かに今日は違う。この多くのぬいぐるみを従わせるくらいの、力の均衡がとれている。大人しくなった――というよりは、力が強くなっている?
「それと、非常に恐ろしい予想があるんだが」
「何ですか、さっきから、もったいぶって」
「《未来》の忘却者は自分の都合がいい《未来》へと導けるんだぞ? こんなぬいぐるみを操るなんて、はっきり言っておかしいだろう? ぬいぐるみのどこに自分の都合がいい《未来》を展開できる?」
「……」
「突飛過ぎる予想だが、あいつは純粋に《未来》を操ることができるようになっている可能性がある」
「どういう意味ですか?」
「つまり、ぬいぐるみの未来を、動くことができるぬいぐるみっていう《未来》に変えさせたんだよ」
「そんなことが」
できるはずがない。
けれど、こうしてぬいぐるみを従える彼女を見ると、何となく頷ける点もあった。
「でも、何でそんなことができるようになったんです?」
「そうだねぇ。だから、嫌な予測しかないんだけど」
「……はい」
「《未来》の忘却者は、〝亡者〟へと堕ちた可能性がある」
「――――っ」
その言葉を聞いた郁斗は、そして、《対策チーム》も、言葉を失った。
〝気狂い〟は、自我はあり、力が暴走状態なため、いったん力が落ち着いてしまえば、元に戻る。しかし、亡者は違う。〝亡者〟は、言わば自分自身という自我を失くして、完全に忘却の力に支配された状態だ。自我を失くし、忘却に支配された状態は通常状態には戻らない。能力に支配された忘却者は、その能力が枯渇するまで力を使い続け――最終的には死んでしまう。
生きているようで、死んでいる――故にその状態に〝亡者〟と名付けた。
そして、暴走状態から支配された状態になった今、危険度は跳ねあがる。
「……やっばいなー。どうするよ? これ?」
「どうするも、何も」
ぞわ、と背筋に悪寒が走った。
《未来》の忘却者が、虚ろな表情で、薄く微笑む。何の感情もない、ただ〝笑み〟を象っただけの形が、生のない空っぽの人形を思わせた。
途端、ぬいぐるみたちが動き出す。
ウサギ、犬、猫、さらにはトラやらライオン、様々なぬいぐるみが一つの意志となって襲いかかってきた。
「うわ、ちょ、怖っ!!」
悲鳴を上げる幸明を無視して、郁斗は誰よりも早くそのぬいぐるみの大群へと向かう。
「おい、待て! 《化け者》!!」
背後から傷痕がある男の声が聞こえたが、それすらも黙殺した。
世界がひっくり返る感覚と共に、視界も感覚も一変する。大きく翼を広げて、ぬいぐるみの大群の上を飛翔した。鷲の姿となった郁斗は大群上を駆け抜けて、《未来》の忘却者へと向かう。
遠くで何かが爆ぜる音が聞こえた。
《対策チーム》も、応戦に入ったのだろう。何かが燃える匂いが、微かに風に乗って漂っている。
――見つけた。
郁斗は《未来》の忘却者へと突っ込む。爪を立てて、細い首へと向けた時、ぼふん、という柔らかい衝撃と音と共にバランスが崩れて、地へと落ちる。
「何だ!?」
見れば、蛇のぬいぐるみが体に絡みついていた。真っ黒なボタンの眼が、鷲となった郁斗を覗きこむ。
「く……!」
ぎりぎり、と締め上げられる体。骨が軋む音が、体の中から聞こえた。そして、柔らかなフェルト生地の長い体が、ぐ、と再び締め上げ――骨が折れる。その寸前で、郁斗は再度違うものへと化けた。
ぼん、と綿と生地を破裂するぬいぐるみ。
絞めつけていた中から現れたのは、雄々しい姿をしたライオンだ。ライオンに化けた郁斗は牙をむき出しに、王者の風格に見合う咆哮を轟かせ、《未来》の忘却者へと駆ける。
目の前に立ち塞がるぬいぐるみたちを前脚で、頭で、牙で蹴散らして、前へと突き進んだ。ぬいぐるみの壁を抜けた先に、《未来》の忘却者が相変わらず薄っぺらい形だけの笑みを浮かべていた。
〝亡者〟となった忘却者は、もう元には戻れない。
この場合、最善なのは殺すことだ。
これが一番被害なく、解決する方法だった。
「あんたには申し訳ないが、死んでもらう!」
郁斗は牙を、爪を、その細い体へと向ける。その瞬間だった。
薄く微笑んでいた、〝亡者〟と化した《未来》の忘却者が、す、と表情を消した。その突然の変化に、深くにも、体が止まってしまった。
その瞬間を、《未来》の忘却者は見逃さなかった。
多くのぬいぐるみが、郁斗へと押しかかってきた。ずん、と体にかかる重みは、まさに体が押し潰されるほどの衝撃だった。
「この!」
振り払おうとするが、体に纏わりつくぬいぐるみは離れない。
こつ、と片足だけ履いているブーツを鳴らして、《未来》の忘却者がやってきた。体に押しかかるぬいぐるみを払おうとする郁斗は、《未来》の忘却者の顔を見てぞ、と全身に悪寒が走った。
憎悪が行きすぎると、こんな顔になるのだろうか。憎悪だけを心の奥底に隠して抜け落ちた表情には、どこまでも『無』だった。底冷えするような無表情には、仇にすら感情を抱かないと言わんばかりに、どこまでも『無』を貫き通す。
人形に魂が入り生気が籠ったかのような能面は、とても薄気味悪かった。
そして、魂が入りたての人形がぎこちなく唇を動かす。
「独りでは、何もできないくせに」
どくん、と心臓が痛いくらいに鳴った。
独りでは何もできない。
戦うことも、逃げることも、生きることも、死ぬことも。




