二章―29
「……あ」
――《夢》の忘却者。
確かその人は自分が生きるためにアドバイスをくれた人だ。他人をすぐに忘れる自分に、日記を書いておけ、とアドバイスをくれた人。忘却のせいで姿を忘れてしまったが、自分が発した言葉――日記には書いてあった。
「あの」
「何かしら?」
「ありがとうございました!」
「え?」
「あの、夢子さんですよね? 私に日記を書いた方がいいって、言ってくれたの」
「――そうね。確かに言ったわ」
星歌は小さく頭を下げる。
「ありがとうございました。夢子さんのおかげで私は少しでも人間らしく生きていけました。いつかちゃんとお礼を言いたいと思ってたんです」
その言葉に、夢子は微笑む。
「そう。それなら良かったわ。あなたの力になれたの、とても嬉しいわ」
「はい! 今日この瞬間も、書きます!」
「あら本当? 嬉しいわ。こんな風に思ってくれるなんて。……でもあまり動いちゃだめよ? 傷に障るわ」
「はーい」
ペンを片手に、ぺらぺら、とページを捲って、ふと、ページが止まる。日記の中には「郁斗」という単語が現れた。何だろう? と首を傾げて、読み返す。最近の日記では「パートナー」と書いてある。書いてある限りでは何か無愛想な印象があるが、けれど、過去の自分は、この少年のことを信頼しているようだった。
誰だろう?
昨日撮ったと思われるデジカメ内の写真には、人物が何故か映ってはおらず、風景だけが映し出されていた。
郁斗。
《自身》の忘却者。
自身を忘れるという後遺症がある。
無愛想で、他人のことは考えない。
そして、星歌のパートナーだ。
「……」
この人はどういう人なのだろう?
嫌な人?
良い人?
わからない。
そして、隣には夢子もいるというのに、どこか寒い、と感じた。暖房がかかっているため部屋の中は温かいから、肌寒いというわけではない。
それでも寒い。
近くに人がいるのに、何故か遠く感じる。
あぁ、とそこまで思って、ようやく気付く。
自分は今、孤独なのだ。
傍に人がいるのに、それでも今まで隣にいた人はここにいない。自分のパートナーが隣にいないのだ。
「……どうしたの?」
途中まで読んでいた日記を星歌が放り投げたことに、驚いたように夢子が声をかけた。
「ううん。……何でも」
「……そう? それでも顔色、悪いわよ?」
そ、と柔らかい手のひらで、頭を撫でられる。それでも心に感じるこの孤独という寒さは、一向に拭えなかった。
「夢子さん」
「ん? なに?」
「郁斗って、どんな人?」
「……」
夢子は、口を閉ざす。
何となく、何となくだけれど、自分はもう二度と郁斗という人には会えないであろうという確信があった。だからこそ知りたいと思う。自分が信頼した人物はどんな人だったのだろうか、と。夢を見るつもりもない。願うつもりもない。ただ、忘れたくないだけだ。星歌のパートナーなのだから、きっと大変な目に遭っただろう。自分は他人を忘却するという後遺症があるのだから。自分はこうして他者によって生かされているのだと感謝の念を忘れないためにも、聞いておきたかった。
「お願い、夢子さん!」
「私からでは、教えることできないわ」
「え……」
「だって、この日記に書いてあることが全てだもの」
放り出された日記を、夢子は指をさす。ベッドの上に転がる分厚い本のような日記は、静かにそこで沈黙していた。
「書いてあることが全てで、読んで感じたものが、郁斗という人だよ」
書いてあることが、それを感じた全てが、『郁斗』?
「わからないよ、夢子さん」
「そう」
ぽん、とまた頭を撫でられる。その手が優しくて、『郁斗』のことが全く分からないやり切れなさに、目の奥がじんわりと熱くなった。
「星歌」
「……はい」
「少し、外に出よう?」
「そ、と?」
「えぇ、外に出て少し気分転換しに行きましょう。部屋の中にばかりいると、息がつまっちゃうもの」
そ、と手を取られて、立ち上がらせられる。ずき、と体が痛んで、少し顔が歪んでしまった。
「ただし、外と行っても、中庭だからね?」
にこ、と夢子は微笑んだ。
* * *
「僕が一人で何とかして見せるよ」
「ん?」
郁斗はベッドから脚を出して、そのまま出る。体に激痛が走ったが、構わなかった。
「おい、傷が開くぞ」
「大丈夫ですよ。僕の怪我の治りは他の人より早い。三日も経てば、完治しますよ」
「……便利だねー。おじさんはしばらく駄目だわ」
「無理は禁物ですよ」
「わかってらぁ。それで、お前さんはどこに?」
ずきずきと痛む体で、壁に掛けられていた服に着替える。簡素なパジャマと違い、洋服はずしり、と体に重く感じた。
「これから《知識》の忘却者のところへ行きます」
「行ってどうする?」
「〝気狂い〟となった《未来》の忘却者の捜索状況を聞いてきます。それと《未来》の忘却者に関する情報も」
「仕事熱心だねー」
「福良さんに、やると言ったんです。のんびりできませんよ」
「そっすかー」
「幸明さんは、どうします」
着替え終わった郁斗は部屋の中の電気をすべて消す。後に続いた幸明は少しばかり考えるそぶりを見せて、
「俺も行くわ。暇だし」
「……わかりました。早く準備してきてください」
「別に準備なんてないし、このまま行こうぜー」
「はい。じゃあ行きましょう」
郁斗と幸明はエレベーターに乗る。エレベーターの中には誰もいなかった。綺麗に装飾されたエレベーターの中は豪奢な造りになっている。その中に二人、無遠慮に入った。
「ホッシーは今、どこにいるんだろうね?」
郁斗に宛がわれた部屋は三十階にあったらしい。エレベーターは止まることなく、一階へと降りていく。
「知りません」
「つまんないよねー。せっかくの華が」
「……華にもよるでしょう。それは」
「そう? 可愛くて、明るい女の子だったじゃない。こう、十代の瑞々しい感じがまた……」
「あんたは星歌のことどういう目で見てたんですか」
「怒んないでよー。大丈夫、ホッシーは郁斗のものだから」
「何で僕のものなんですか。星歌は《協会》のものでしょう」
「つまらないなー。いっくん」
「はいはい」
階層を示すランプは三階となっていた。しばらくして、エレベーターのドアが開く。開けた先は、ホテルのロビーだった。ここは客の姿がちらほらいた。
郁斗と幸明は口を閉ざして、歩く。ホテルの出入り口である大きな自動ドアが、目に入った時、
「待ってよー」
もはや聞き慣れてしまった声色が、もう聞けないと思っていた言葉が、郁斗の耳を打った。
脚が止まりそうになる。けれど、無理矢理一歩足を進めた。
声は、横から投げられてきた。
横には確か中庭へと通じる扉があったはず。ということはそこから出てきた、ということなのだろう。
た、た、た、と軽快な足取りで、誰かが近づいてくる。
それでも構わずに脚を動かし続けた。
動かし続けて、目の前を誰かが通り過ぎた。長い黒髪。白い肌に、痛々しい包帯と、ガーゼ。怪我をしていても活発に動き回る体。感情が豊かに浮かぶ目。天真爛漫といった言葉が似合うような少女が、今、目の前を通った。
――星歌。




