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二章―26




   5




 淡い光を瞼越しに感じ、郁斗は目を覚ました。

「い、だ……!」

 体を起こそうとした瞬間、全身に激痛が走る。起き上がることができず、そのままベッドに体を戻した。

 見知らぬ天井に、見知らぬ匂い。空間。

 顔だけを周囲へと巡らす。 

 上品そうな部屋だった。壁紙、天井はアイボリーの色一色。調度品はデザイン性の良いもので、装飾品も落ち着いていながらも優雅さを漂わせている。

 今自分がいる場所は体が沈みこむほどふかふかなベッドだ。部屋の中央には丸テーブルがぽつん、と置かれている。上には花瓶が置かれていた。

「……どこだ、ここ?」

 白いカーテン越しから入り込む朝の光は、淡く部屋の中を映し出す。郁斗以外、誰もいなかった。

 す、と意識を耳に集中させる。聴覚を研ぎ澄ませて、この部屋全体の気配をざっと見通した。しかし、誰もいなかった。

 幸明も、星歌も。

「星歌……?」

 全身傷だらけになり血まみれになっていた少女。恐怖に涙し、必死に縋りついてきた。それが、昨日の最後の記憶だった。

「朝、ということは、星歌の記憶も……」

 きっと、なくなっているだろう。

 これはある意味幸運なのかもしれない。郁斗のことを忘れて、幸明のことも、昨日のことも、何もかも忘れられる。きっと辛い目に遭ったことさえも――……

「そっか。星歌は、自分のことだけは、覚えてるんだった」

 他者のことは忘れる星歌は、自分のことは忘れない。昨日何が起こったのか――という全体を虫食いのように忘れてしまっても、体験は覚えているはずだ。あの辛く、恐怖した思いだけは、決して。

「何で、こんなことに……」

 そして、もう二度と、自分と星歌は出会えないだろう。

 そんな確信があった。




   * * *




「あなた、誰ですか?」

「私は、夢枕夢子よ」

「夢子、さん?」

「そうよ。あなたのこと、ちゃんと知ってるわ」

「そうですか……」

 ちゃんと知っている、ってどこまで知っているのだろうか。目の前の上品そうな大人の雰囲気を持った少女は柔らかく微笑む。それが何となく恥ずかしくて、そ、と視線を外す。アイボリー一色のどこか優雅さ漂う一室は、どうにも気後れしてしまう。星歌が好きなのは、どちらかと言えばシンプルな方がいい。シンプルで、自然が隣にある温かい家――それは、星歌の最近の記憶にある家だ。どこの誰の家だがわからないが、一番気に入っていた。

「あら、起きて大丈夫?」

「はい。……まだ体、痛いけど、何とか」

 痛む体を支えながら、何とか上体だけを起こす。起こして、一息ついて、自分の腕を見てみた。今の季節は冬だが、暖房がついているらしく部屋は温かい。今、着ている洋服も七分袖のTシャツだった。

「……」

 その袖から覗く自分の腕には、真っ白な包帯が巻かれている。動かせば痛みが全身に響くから、相当な傷なのはわかるが、けれど、どうしてこういう経緯でこのようなことになったのかはさっぱりだった。覚えているのは電車の中での出来事。そこには〝自分〟の記憶しかないが、恐怖で満ち溢れていたのは覚えている。そして、泣いていたことも。何がどうなって、そうなってしまったのかは、覚えていない。微かに残る恐怖に、小さく身震いをする。

 ふと見れば、夢子にも包帯が巻かれている。

 腕、首、脚、全身と言っても過言ではなかった。その白い頬にも痛々しいガーゼが施されていた。何故だろう? 自分と同じ個所に包帯が巻かれているようだった。その疑問を口にするのも、何故か躊躇し、星歌はごまかすように周囲を見渡す。

「あの、ここって……?」

「ここは、ホテルの一室よ」

「ホテル?」

「うん。本当はあのまま《協会》本部に行けばよかったんだけど、そうもいかなくなっちゃって……」

「《協会》……」

《協会》は確か、忘却者が忘却者を支えるために作られた密かな組織だと、誰かが言っていた。その、誰かはわからないが。そこへ行こうとして、何故、行けなくなったのだろう?

 じ、と夢子を見つめるが、夢子は首を振った。

「大丈夫。とりあえず、今の私たちは休養が必要なの。もう少し、ゆっくりしてましょう?」

「え、はい」

 頷いて、星歌はまたきょろきょろ、と周囲に視線を送った。

 何だろう。

 何かが足りない気がする。

「どうしたの?」

 星歌の仕草に不思議に思ったのだろう、夢子が首を傾げる。

「えーと、私の日記はどこかな、って」

「あら、そうね。待っててね。どこにあるか確認してみるから……」

「はい、お願いします」

 夢子が立ちあがって、ゆったりとした足取りで離れていく。その後ろ姿を見つめながら、どこか心にぽっかりと穴が開いたような、あるはずの場所に何かがないようなそんな虚しさと、足りなさに、星歌は首を傾げた。

「何だっけ?」

 何を忘れている?

 誰を忘れている?

 何を。

 誰を。

「……何だっけ」

 情けなくも、声に湿り気が混じっていることに気付いて、慌てて目元を乱暴に拭った。全身がまた痛くて、涙が余計に溢れた。




   * * *




「おーす。おっはよーう。いっくん」

 扉をノックもせずに無遠慮に入ってきたのは幸明だった。相変わらずの紺色の着流し姿だが、その着物の下には包帯が幾重にも巻かれている。

「おはようございます。幸さん」

 起き上がれず、取り敢えず言葉だけ返した。

「どう? 調子は?」

「最悪です」

「あらま、大変」

「幸さんこそ、大丈夫なんですか、それ」

「これ? 俺の新しいファッション」

「そうですか。斬新過ぎて、何も言えません。まぁ、似合ってますよ」

「そりゃ、どうも。いっくんも、包帯姿、超萌える」

「そりゃ、どうも」

 ずかずかと部屋に入り込んだ幸明は部屋の中央にあったイスをベッドの脇に持っていく。そこに腰深く座りこんで、深く深く、溜め息を吐いた。

「……珍しいですね」

「ん? 何がよ?」

「そんなに複雑そうな顔をして。いつもはへらへら笑っているのに」

「何言ってんのー。男は時にこういう真面目な顔をした方がいいのよ? ギャップ萌え?」

「意味がわかりません。……そんなに今、深刻なんですか?」

「今、ねぇ。うん、まぁ、深刻だわ」

「僕、昨日のことあまり覚えていないんです。何があったか、教えてくれますか?」

「そうだねぇ」

 背もたれに深く深く腰を預けて、珍しく思案する顔で幸明は天井を仰ぐ。

「それは残念だけど、俺もよくわかんねーんだわ。ほら、俺って途中退場しちゃったでしょ?」

 そう言われて思い出す。

 あの時、幸明は〝気狂い〟となった《未来》の忘却者の力で、風に巻かれて外へと放り出されたのだった。そんなことすら忘れるなんて。

「俺の口からは言えないから、後で福良さんが来るよ」

「そうですか」

 この状態では、あまり会いたくないけれど。

 こん、とドアをノックする音が、部屋の中に響く。

「噂をすれば、何とやら、だな」

 幸明が腰を上げて、ドアへと近づいた。がちゃ、とドアが開き、入ってきたのは福良だった。昨日とは打って変わってスーツ姿だ。堅固な雰囲気があるが、顔や手に巻かれている包帯がどこかちぐはぐな印象を与えている。

「どうですか?」

「……まぁまぁです。福良さんは?」

「まぁまぁですよ」

 福良は先ほど幸明が座っていたイスに座る。幸明はボスン、と遠慮もなく、郁斗が寝るベッドの端に腰かけた。

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