二章―25
* * *
もう、何もかもがわからなくなった。
* * *
「郁斗――――――っ!!」
びく、と体が強張る。意識がぐん、と現実世界へと引っ張り上げられた。
「……何?」
自分を呼ぶ声が聞こえて、振り返り――ぐるり、と視界が揺れる。
「え」
意識と視界が混濁し、思考が覚束なくなった。手足の感覚もなくなり、体の均衡が保てなくなる。ぐらり、と体が傾ぐのだけはわかった。そのまま、床へと倒れ込む。
「……?」
体の奥底が冷え切って、全身から汗が伝った。呼吸も早く、上手く肺に送り込めない。
「郁斗、郁斗……」
誰かが、泣いている。誰だろう、と体を上げようとして、上げられなかった。体に何か重いものが圧し掛かっているかのように、全身が気だるかった。
――星歌?
仕方なく、心で問いかけた。
……郁斗?
――何、泣いているの?
だって、郁斗が怖いから。
――僕が、怖い?
怖いよ。何で、そんな風になっちゃったの?
――そんな風?
何で、皆……
「皆……?」
気だるい体を、無理矢理起こす。無理矢理起こされた体はうまく言うことをきかずに、無様にひっくり返った。けれど、それだけで十分だった。
「ひ……」
初めて、恐怖と言うものを感じた。
服装からして、対策チームの隊員だったのだろう。匂いで、わかった。彼らは化物となっていた。体が蛇で頭が人間という者。体は人間だが、顔は鶏かウサギのような妙な形をした者。果ては、人間の形そのままにあちこちから脚や腕を生やした者。皆、色々な生物をくっつけたような体をしていた。
――何だこれ?
わからないよ。わからない。気付いたら皆……
「……福良さん。福良さんは!?」
慌てて、郁斗は周囲を見渡す。奇形な生物たちがあちこちにいた。車内はひっくり返り、床だと思い座り込んでいた場所は天井だった。車窓は、のどかな田園が広がっている。異界となったのは、この電車の中だけのようだった。
「俺は、ここです」
福良は自分たちより後方にいた。逆さまになったドアの付近に座りこんでいた。そこに夢子もいる。
「彼女に、助けられました」
彼女――星歌を見た。星歌は全身血まみれで、ぼろぼろと泣いている。可哀想なくらいにぶるぶる震えて、郁斗の近くにあるドアの手すりを掴んでいた。
立ち上がろうにも、立ち上がれない。
全身が痛い。重い、苦しかった。
結局起き上がることは諦めて、周囲を再び眺めまわす。
「《未来》の忘却者は?」
「逃げましたよ」
「逃げた?」
「この状況ですからね。何事か喚いて、どこかへと行きましたよ」
「……そうですか」
また、捕まえられなかったのか、自分は。
ばしん、
「いたっ!!」
突然、頭を強くひっぱたかれた。
見れば郁斗ほどではないが、全身傷だらけの幸明が珍しく切羽詰まった表情で、郁斗を見下ろしていた。幸明は珍しく険しい顔をして、肩で息をしていた。確か、幸明は電車の外へと放り出されたはず――そう考えて、戻ってきたのか、とようやく見つかった答えに、僅かに安堵した。
「バカやろう」
ふざけるでもなく、飄々とするでもなく。淡々とそれだけ言って、福良のところへと行ってしまった。その背中を呆然と見ていると、どん、と体に何かがぶつかってきた。
「……郁斗、郁斗!」
泣きじゃくりながら、星歌が抱きついていた。彼女の震えが、こちらにも伝わってくる。どれほど怖かったのか、どれほど辛かったのか。
ぽん、とその頭に手を置いた。
「悪い」
ただ一言、これだけは言わないと思った。
「悪かった、星歌」
異形となった仲間たちの奇声と、星歌の嗚咽だけが、車内に響いていた。
* * *
《未来》の忘却者は、ひたすらこの田園の細長い道を走っていた。腹からは、どくどくと血が流れて、下半身へと伝っているのがわかる。
痛い、気持ち悪い――許さない。許せない。
痛みなんてどうでもいい。
この気持ち悪さなんて、それこそどうだっていい。
ただ、あの二人を許せない。
許せるはず、なかった。
「力が……!」
もう暮れゆく夕陽に照らし出される道端で、限界が来ていたらしい体がとうとう悲鳴を上げた。脚がもつれて、前のめりに倒れ込んだ。
過去なんて、どうでもいい。
未来なんて、どうでもいい。
今なんて、知ったことではない。
「力が、欲しい……!」
心からの、願いだった。
心からの、叫びだった。
自分には、あの二人を倒す力がない。倒せればいい。ただ倒せれば。それだけでいい。
――それ以外は、何も要らない!
「なら、ちょうだいよ」
心の願いに、叫びに、答える者がいた。顔を上げる。そこには、自分と背恰好がそっくりな女が立っていた。夕陽を背に、彼女の陰が自分の体にかかる。逆光のせいで表情はよくわからないが、きっと、嗤っているのだろう。
「ちょうだい? そしたら、全部をあげるよ」
きっと、それは真の意味での悪魔なのだろう。悪魔の誘惑を呑んでしまえば、どうなるかはよくわかっている。
けれど、
「いいわよ、あげる」
力が手に入るならば、もうどうだっていい。
自分の全てを捧げよう。
《未来》の忘却者は、嗤った。




