二章―23
その言葉に郁斗も、幸明も目を見開く。
「何言ってるの!? 殺すって……っ」
「現実を見なさい! このままだと死にます! 俺たちだけじゃなくて、無関係な人々も! ならば、一人を殺して多くを救った方がまだ結果は良い方です!」
「お前、何を……!」
ばりん、と突然ガラスが破裂した。ガラス片が車内に飛び散り、足元へと降り注ぐ。そして、がごん、と音を立てて、電車の扉が開いた。割れた窓から、開け放たれたドアから暴風が流れ込んできた。
「うわ!」
風に叩きつけられる体が、ふわり、と宙へと浮き、そのまま吹き飛ばされる。郁斗は狼の姿から、鳥の姿へと変化させる。うまく風に乗り、車内を飛び回った。しかし、幸明と福良は足下がもつれ、ガラス片の絨毯に転がる。つん、と血の匂いを感じた。
「幸さん! 福良さん!」
「大丈夫……って、うわ!」
ごう、と唸りを立てた風が、転がっている幸明の体を巻き上げる。ふわり、と幸明の体が浮き、
「幸さん!」
「へ? あれ? 嘘、マジ?」
ぽっかりと口が開いたドアの外へと放り出された。
「くそ……!」
ガラス片が突き刺さった体を動かしながら、福良は《未来》の忘却者を睥睨する。
《未来》の忘却者は、何事もないようにそこに佇んでいた。彼女の力が発動しているのだろう。彼女がいる空間だけにはガラス片が届かずに、風も近寄らなかった。
今、《協会》側には最悪な未来が展開され、《未来》の忘却者には都合の良い未来が展開されている。その落差がこの有様だった。
――負ける。
その言葉は、追い詰められた郁斗の脳裏に浮かんだ。
* * *
「早く乗客の避難を!」
「早くしろ!」
怒号が、響き渡る。忘却者たちは、未だ混乱していた。冷静になれない彼らは、この事態を収拾できそうにもなかった。
――突然。
ばりん、と次々に車窓が破裂し、風に乗ってガラス片が勢いよく飛散した。
そのガラス片が星歌の近くにいた乗客の一人へと向かっていた。
「危な……!」
忠告しようとして、けれど、その乗客は泡を吹いていて倒れていて、そう理解した途端、体が動き出す。乗客は若い男の人だった。大きな荷物から見て、これからどこか遠くへと行こうとしていたのだろう。乗客の男は自分へと突っ込んでくるガラス片に気付くはずもなく、星歌は必死に手を伸ばして――ガラス片が男の胸に突き刺さるのを正視してしまった。
「あ……」
伸ばした手が虚しく空を掻く。その腕に一片のガラスが突き刺さる。ぐじゅ、という肉に鋭い刃が突き刺す湿り気を帯びた音と、焼けるような熱い痛みが腕から全身に駆け巡った。
「いっ!!」
ガラス片が刺さる肉からぼたり、と大きな赤い滴が電車の床へと零れる。
「星歌ちゃん!」
夢子が駆け寄り、腕に突き刺さるガラス片をそ、と引き抜いた。途端、溢れ出る血が、腕から下へとぼたぼたと流れ落ちた。上品なハンカチを巻かれるが、そのハンカチはすぐに血を吸いこみ、ぐっしょりと濡れる。
「大丈夫?」
「……はい」
自分は、大丈夫だ。ただガラスが突き刺さっただけだ。
けれど、眼前に胸を真っ赤に染めた男の人は、大丈夫じゃない。何とかしないと、死んでしまう。
「夢子さん……私は大丈夫だから、あの人……」
と言いかけた時、がこん、と電車のドアが開いた。ごう、と風が流れ込んでくる。夢子が星歌の体を床へとぐい、と押さこんで、伏せさせる。流れ込んでくる風は、まるで波のようだった。波が車内を引っ掻きまわして、扉から扉へと出ていっては、また流れ込んでくる。
その波にさらわれて、胸元を真っ赤に染めた男が外へと放り出されようとしていた。
「ダメ!」
星歌は夢子を押し退けて、男の元へと行こうとする。
「何してるの!」
けれど、夢子はそれを許さない。夢子は自身の腕の中に星歌を押さえつけ、星歌の身動きを封じた。
「夢子さん放して! あの人が……!」
風が男の人をさらおうとしている――その視界を、そ、と夢子の指で覆われる。
「見ちゃ、ダメよ」
その指の隙間から、男の人が風に呑みこまれて、視界から消え去った。風は嘲笑うかのように、ごうごう唸っている。
「何で……」
ぼろ、と熱いものが、頬を伝う。
「何で……」
助けられない?
忘却者たちは、荒れ狂う車内をどうにかしようと奮闘していた。こっちのことを気にもしない。
あの人たちがもっと冷静であったなら、助けられたかもしれないのに。
――違う、自分に力があればよかったのだ。
自分は助けられ、守られて――助けられたかもしれない人が吹き飛ばされるのを、黙って見ているしかないなんて。
自分は、何て、無力なのだろう。
誰かいなくては、自分は何もできない。
「誰か……」
助けて。
そう呟いた時、郁斗の顔が浮かんだ。
* * *
負ける、と郁斗は確信してしまった。
相手は力が増幅し、その力が暴走状態に陥ってしまった〝気狂い〟だ。その力の強さも、質も、全てが段違いだ。ぎり、と内心、歯噛みする。
何で、〝気狂い〟になったのだろう。
力が増幅したのか。
力を酷使したのか。
その二つが〝気狂い〟になる要因だった。しかし、もう一つある。執念、だ。自分が目指している目標、願望など、強い思いに目を向けて周りが見えなくなった時、〝気狂い〟になる、と聞いたことがあった。
彼女がここに来た理由は、郁斗と星歌を狙ってだろう。
そして、執念でここまで来たのだろう。
二人を殺す――たったそれだけの、けれど、膨大で凝縮された強い願いと、執念で。
自身を見失ってしまうほどに、その目標に目を奪われて、制御しなくてはいけない忘却の力の発動を誤ってしまった。
――何て、愚かな。
彼女を蔑視する思いと、
――羨ましい。
嫉妬に似た羨望が、心の奥底で膨れ上がった。
郁斗の夢は、所詮叶わない夢だ。どれほど足掻こうと、強請ろうとも、絶対に手に入ることのない夢。だからこそ、諦めていた。もう夢は見ないのだと、目を背けていた。これ以上、願いを加速させないようにと、踏み止まっていた。そして、その当然の答えを受け止めるのが怖くて、脚が竦んでいた。
しかし、彼女は違う。
彼女は、どこまでも願った。足掻いた。強請った。夢を、真っ直ぐに見続けていた。その想いはどんどん加速し、あえて踏み止まらずにいた。当然の答えを、跳ね除けようとしていた。自分自身と言うものを、見失ってまで。
それなのに、自分はどうだ?
自分は結局、立ち止っているだけだ。
あいつも――星歌も諦めてもなお、願い続けているというのに。負けないように、頑張っているというのに。
自分は――〝郁斗〟は何もかも合理的な言い訳を考えて、諦めているだけじゃないか?
諦めたくない。
負けたくない。
力が、欲しい。
初めて、強く、そう思った。
「許さない」
電車が加速していく。がたん、がたん、と車体が激しく揺れた。このままだと脱線してしまう。
「違う。それよりも前に、風にやられる、かな……」
ごうごうと、口を開けて待っているドアから誘うように、風が流れ込んでいた。鳥の姿の郁斗は、人間となって床へと降りた。がしゃり、とガラス片を踏み鳴らす。
「おい!」
風に煽られ、ガラス片の上を転がった福良は全身血まみれだった。
「何してる!」
「別に。これから《未来》の忘却者に喧嘩を売ろうとしているだけですよ」
諦めない。
負けない。
がしゃ、と郁斗がガラス片を踏む。
《未来》の忘却者がここに現れて初めて表情を見せた。憎しみ、怒り、怨み、負の感情全てが混ざり合った、戦慄するほどの形相を。
それでも、自分は負けない。
確信がある。
「来た」




