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二章―22

 ぐらり、と傾いた老人の体が、どさり、と床へと落ちる。

「!」

「おい! まさか……っ!」

 福良が慌てて腰を上げて、郁斗はゆっくりと腰を上げて身構えた。

 一人冷静な幸明だけが、口端を歪めて、言い放つ。

「どうやら来てるみたいだよ? 《未来》の忘却者が」

 郁斗はす、と周囲の気配を探る。隣の車両には星歌と夢子がいた。《協会》のメンバーも。もそして、数名の乗客が。けれど、乗客全員が倒れているようで気配を感じない。星歌と夢子と《協会》のメンバーたちの愕然とする気配だけがあった。

 そして、郁斗がいる車両。ここには郁斗、幸明、福良の三人の気配があった。老人もいるが、倒れているため気配がない。そして、あと一人。

「後ろ……!」

 いつの間にか、車両の後方に女が一人立っていた。

「―――――」

 三人は絶句する。

 女は――《未来》の忘却者は、〝気狂い〟となっていた。




   * * *




「え、嘘……」

 星歌は、自分と郁斗の関係を夢子の口から語られて、ただ信じられない思いで一杯だった。信じたくない、信じられない――拒絶だけが、心の底から溢れてくる。

「私……郁斗に……、皆に……っっ」

 目の下がじんわりと熱くなった。鼻の奥もつん、として、沁みるように痛い。

 ダメだ、と星歌は目元を乱暴に袖で拭った。ここで、泣いてしまったら負けだ。

「でも、これは本当のことなの」

「なら、私は……っ!」

「これは不運が重なった、……?」

 不意に、夢子の言葉が途切れる。涙で滲んだ視界の中で、夢子が眉を顰めていた。初めて見るその表情に、星歌は首を傾げる。

「どうしたの……?」

「静かに」

 す、と夢子の細い指が星歌の肩を掴んで、座席に深く腰掛けさせた。

 夢子はこちらを見ていない。見ているのは、自分たち以外の乗客たちだった。星歌も視線を周囲へと向ける。

 ふと、様子が変なことに気付いた。

「え……?」

 乗客は全員が全員、眠っている。電車の中で眠るのはよくあることだが、ただ眠っているのとは違う。乗客全員が泡を吹いて、意識を失っていた。それに気付いた近くに座っていた忘却者たちが慌てて立ち上がった。

「どうした?」

「何が起こった!?」

 この事態を把握しようとする彼らの姿に、言い知れぬ不安が一気に押し寄せた。

「何!?」

 こののどかで静かな車内に、不気味な陰が潜んでいることにようやく気付く。星歌は慌てて、隣の車両を見て、息を呑んだ。




   * * *




「一体、いつの間にここに……!」

 福良が悔しそうに歯噛みするのを、冷静に幸明が半笑いで答えた。

「そんなの簡単だろ。相手は何しろ自分の都合がよろしい未来へと書き換えることができる《未来》の忘却者様なんだ。俺たちが気付かないことくらい、力で何とでもできるだろ」

「く、呑気に言っている場合か! 何とかしろ!」

「無理。そんなこと言われたら、俺、やる気でないもん」

「《力》の忘却者だろ!」

「俺の能力発動条件は、やる気でない時だからねー。もうちょい、このままでいさせてー」

「役立たずが!」

「あんたも《旋律》の忘却者なんだろ。何とかしたら?」

 こんな時だというのに二人は言い合いを始めた。隣の車両でも福良の部下である忘却者たちが慌てふためているのが、気配でわかった。郁斗は無視して、《未来》の忘却者へと突っ込む。体を変化させようとした時、


 がたん、


 電車が再び大きく揺さぶられ、郁斗は態勢を崩してしまった。

「しま……っ」

 ぐらり、とバランスが崩れて、派手に体を床に叩きつけられる。一瞬、意識が吹っ飛んだ。

「郁斗!」

 幸明の声で、正気に戻る。

 目を覚まし、慌ててその場から飛び退いた。

 けれど、《未来》の忘却者はそのチャンスを黙って見つめているだけだった。

「大丈夫か?」

 見れば幸明も、福良もバランスが崩れたらしく、座席に捕まりながら床に座り込んでいた。

「あいつは……?」

《未来》の忘却者はこちらの敵意に気付いているはずなのに、ぼんやりと三人を見ている。その眼はどこから虚ろで、焦点もあっていなかった。

「〝気狂い〟、だな……」

 福良は《未来》の忘却者を見据えて、苦々しく呟く。

「おいおい、〝気狂い〟って言えば、忘却の力が暴走状態だって言う……?」

「はい、そうです。力が大きくなりすぎたのか、もしくは力の使い過ぎなのかわからないですが。力が暴走状態に陥り、正常な判断ができない状態になっています。堕ちていない分まだマシですが……それでも危険です」

 ぎり、と奥歯を噛みしめる音が、聞こえた。

「どうすれば……」

「どうするも何も、あいつを倒さなきゃだろ。郁斗」

 幸明の声に、郁斗は頷く。

「行きます」

 郁斗は身構えた。身構えて、体を変化させようとした時。


「許さない」


《未来》の忘却者が、小さく呟いたのが聞こえた。

「許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない。許さない……」

 ぶつぶつと念仏でも唱えているかのように、低く重苦しい声色は、虚ろな双眸と相まって不気味な印象を与えた。

 ――一体、何を許さないのだろか?

 わからない。わからないが、正常な意識が持てない〝気狂い〟がここに現れたのは、恐らく郁斗と星歌を狙ってだろう。

 ということは、許さないとは自分たちのことだろうか?

 けれど、身に覚えがない。《未来》の忘却者に恨まれ、殺されるような覚えが。

「許さない!」

 突然、《未来》の忘却者の力が膨れ上がった。力の波が《未来》の忘却者から周囲へと流れていく。

「郁斗! 早く!」

 はい、と返事をする前に、体はすでに動き出していた。

 ぐるん、世界が変わる感覚と、一転する視界。郁斗は床を四肢で蹴り上げ、《未来》の忘却者へと跳びかかった。狼となった郁斗の牙と、爪は鋭い。いくら力を持っていようと、力が増幅しようと、生身の女の力では狼には勝てない。

 跳びかかり、《未来》の忘却者の体に前脚が届こうとした時、突然、《未来》の忘却者と自分の間に影が割って入った。思わず前脚を引っ込め、頭を丸める。思い切り体と体がぶつかった衝動で、郁斗は後ろへと倒れ込んだ。

「な、何を……!」

 するんですか、と割って入った人物に唸る。割って入ったのは、郁斗たちが座っていた座席から少し離れた場所に座っていた老人だった。

 老人は《未来》の忘却者をかばう形で郁斗の前に立ちはだかり、郁斗の体当たりをまともに食らい大きく後方へと弾き飛ばされた。老人は倒れている。狼となった郁斗の鼻には微かな血の匂いを嗅ぎ取った。この血の匂いは、老人のものだ。内心舌打ちをする。まさか、と思った。《協会》を裏切った彼女だが、決して他人を巻き込もうとしなかった。今までは。そんな彼女が今回、他人を自分の盾として使ったのだ。今までのことを振り返れば考えられなかった行為だが、それも恐らく、彼女が落ちたせいもあるのだろう。

 不意にがたん、がたん、と電車が何度も何度も大きく揺れた。

「おいおいおい、まさか……」

 幸明が窓の外を見て、苦々しく笑う。

 郁斗も外を見る。景色がどんどん横へと流れていた。それもどんどんスピードを増して。

「速度が……」

 郁斗は大きく揺れる車体でバランスを取るために、四肢に力を入れた。ふらり、ふらり、と体が左右上下に揺れ動く。

「もしこの先にカーブがあったら……」

「ちょっと福良さん? 不吉なこと言わないでくれる?」

「不吉なことですよ。もちろん」

「どうなるって言うの?」

「このままスピードが増して、この先にカーブがあったら脱線します」

「え――っっ!!」

「だからこそ、何とかしなければいけないんです! 《自身》の忘却者! 私が許可します! 《未来》の忘却者を殺しなさい!」

「は!?」

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