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二章―21

 しかし、


 ばしゃ、


「……」


 水がぶちまけられるような音と、それに続く呆気にとられた沈黙が空気を止めた。

「ふ」

 隣にいた幸明が吹き出す。

「あらあら」

 星歌の隣にいた夢子が僅かに驚いたような声を漏らす。

「―――――っ!!」

 全身が紅茶の匂いと、紅茶の色に染まったびしょぬれな服を見て、福良の戸惑い、困惑する言葉にならない声が口から飛び出す。

「……」

 郁斗の、何が起こったのかよくわからないという沈黙。

 そして、仁王立ちに、勇ましく胸を張り、星歌は言い放った。


「ごめんなさい! 手が滑りました」


 彼女の手には、中身のないカップがあった。




 がたん、ごとん、と体が荒々しい振動に揺さぶられる。たった二車両しかない電車の中は空いていた。郁斗たちから離れて老人が一人座っている。隣の車両にも五人いるかいないか程度だった。隣の車両では星歌と夢子が座っている。あとは、福良が連れてきた数人の忘却者たち。こちらから見ると、星歌は車両の外の流れていく風景を楽しそうに見ていた。

 郁斗と幸明は福良を挟むようにして、座っている。ぴったりではなく、他人と言う空間をかなり空けて。

「まったく、あの女は……」

 ぶつくさと文句を口の中で言う福良は、明らかに苛立っていた。というのも、いざ、出かけようとした時に星歌がぶちまけた紅茶まみれの姿ではさすがに出かけられないということで、一本電車を逃して、次の電車にしたのだ。おかけで二時間くらいのロスがあった。

 星歌は悪びれもしなかったし、幸明は終始笑っていた。本部の人間である夢子は福良を助けることもなく、ほのぼのと微笑んでいた。気が短い男は、怒りもまだ持続しているようだった。

「あなたがちゃんと世話をしていないからです」

 何故か、その怒りの矛先が郁斗に向けられる。

「何で僕なんです? リーダーは福良さんの隣で寝息を掻いている男ですよ」

「こいつが起きないからあなたに当たっているんですよ」

 だからって当たるんじゃない。

 もう会話すら嫌悪し、郁斗は口を噤んだ。だが、福良はそうではないらしい。口元を厭らしく笑いながら、言葉を続けた。

「まったく、最悪ですね。こんな田舎に来なくてはいけなくなって、タイヤもパンクするし、こうして、実に乗り心地の悪い電車にも乗らなくてはいけない。全てはあなたのせいですよ?」

「……」

「それにしても《繋がり》の忘却者もまた説教しなくてはいけませんね。子供に言い聞かせるのも我々の仕事ですから」

「……」

「早く着きませんかね……《協会》に」

「……」

「空気が悪くていけません」

「……」

「ここには《自身》の忘却者と、《繋がり》の忘却者がいますからねぇ」

 よくまぁ、ぺらぺらと喋るものだ。内心、郁斗は感服しつつ、福良の言葉を聞き流していた。聞き流していたが故に、福良の口から出てきた次の言葉を呑みこむのに、随分と時間がかかった。


「――全く、人殺しどもが」


「……」

 聞き流そうとして、けれど、引っかかった言葉に、「え」と郁斗は顔を上げる。福良はこちらを見ずに、車窓の風景を見て楽しそうに笑う星歌を見てほくそ笑んだ。

「本当にどうしようもない、馬鹿どもですね」

「……」

「けれど、あの女はとんでもない力を持っていますからもっと丁重に扱わないとですね」

「――さっきから何が言いたいんです?」

 あからさまな挑発と、その態度にいい加減嫌気が差した郁斗は口を開く。口を開いたことで、その挑発が明らかな敵意となって返された。

「本来なら半殺しにするべきだったんですよ。あなた方は」

「何故です?」

「言ったでしょう? あの女はとんでもない力を持っているって。多くのものと繋がり、強大な力を得ることができる」

 やはり、知っていたのか。《協会》ならば、絶対に星歌の力を見逃さないだろう、と思っていたが。

「あの女の力は、あなたたちにはもったいないんです。あの力は我々が使ってこそ価値が生まれ、そして、真の力を得られるのです」

「……」

「でも、我々も安心できました。ようやく彼女が見つかったんですから」

「……さっきから聞いていれば、彼女のことをどう思っているんですか。まるで……」

「道具、ですよ」

 きっぱりと、福良は言い切った。

「……」

「道具です。便利で、とても強い。そして、利用しやすい。それ以外、何か?」


 ――利用しやすい?


 何でだろう。

 その瞬間、こいつをここで殺したい、そう思ってしまった。




   * * *




「……ん?」 

 どんどん横へと流れていく風景は、山の中の風景になった。先ほどまでは田園が続いて少し飽きてきたが、山の中となるともしかしたら面白いものが見られるかもしれない。そう思って、座り直した時、体の奥底から黒いもやもやしたものが湧きあがったのを感じた。

「何? これ?」

 もやもやは少しずつ輪郭を作っていく。はっきりと、くっきりと、浮かび上がらせて――まるで獣のような形になって行くのを感じた。唸り声を上げて、牙を剥き出しにして、何かに対していしきりに威嚇している。その獣から感じるのは、

「――誰か、殺したいの?」

 殺意、だった。

「どうしたの?」

 少し心配げに、隣から声をかけられる。夢子だった。夢子だけではなく、遠くに座り、こちらを観察している《協会》のメンバーも星歌の様子が気になるようでちらちらと視線を寄こす。

「ん……いえ、何でもないです」

 ごまかすように星歌は笑った。

 殺意を剥き出しに、唸り立てる獣はまだ奥底にひっそりといる。

 ――ダメだよ。

 星歌は心の中で、その獣を宥めた。

 ――ダメだよ。ダメ。大丈夫。大丈夫だからね。

 車窓の風景をぼう、と見つめながら、必死に獣を宥める。獣は今にも跳びかかりそうなほどに気が立っているが、星歌の言葉が届いているのかそれ以上行動しようとはしなかった。

「……《協会》に着く前に」

 不意に夢子が口を開く。

「あなたと、彼の関係について教えてあげるね」

「彼? 誰のことですか?」

「郁斗くん」

「……? 私と、郁斗の関係?」

 彼との関係は、助けられた人で、世話になった人だ。それ以外に何があるというのだろう。

「教えてあげるから、もう彼のことを日記に書くのは止めなさい。会いたい、と思うのも止めなさい」

「…………え?」

「多分、あなた自身が苦しむことになるから」

 どういう意味、なのだろう。

 何故、郁斗のことを思い出そうとすると自分が苦しむから日記に書くのを止めろ、と言うのだろう。どうせ、もう会うこともないのに。

「そうね。まずは、始まりから――……」

 そして、夢子は語り出す。




   * * *




「そろそろお喋りは止めた方がいいんじゃない?」

 寝ていたはずの幸明がいつの間にか起きていて、立っていた。それにわけがわからず郁斗は幸明を見上げる。同様に福良も怪訝に幸明を睨みつけた。

「どういう意味だ?」

 幸明の視線は、離れたところに座っている老人に向けられている。つられて郁斗も注視して、気付く。

 がたん、と一際大きく車体が揺れた。


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