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二章―20

 ぺらり、と開けば、何度も何度も、それこそ毎日――暇があれば読み返していたのだろう。ページはくたびれて、癖がついていた。

 ぺらり、ぺらり、と彼女が生きた日々を通読する。

 苦しみ、悲しみ、遣る瀬無さ、悔しさが綴られて、でも最後には「頑張る」「何とかなる」で前向きな意思で締め括られていた。

 郁斗は最後のページ、昨日の日記を読む。

 内容は、自分がここを離れていく寂しさ、未知なる《協会》へと恐怖、またこうなるんだという諦念、それでも最後には「それでもがんばらなくちゃね」と自分を励ます一言が付け加えられている。

 そして、

「……」


 ――郁斗のこと、忘れたくないよ。


 日記を読んでいて、わかったことが一つある。

 彼女は絶対に弱音を吐かない。それよりも自分を明日へと生かす勇気の言葉を書き残すのだ。脆い想いよりは、さらなる上への強みしか、彼女は言わないし、書いていなかった。

 それが、何故。

「馬鹿だね。明日のあんたがどう思うか、ちゃんと考えなよ……」

 知らず、呟かれた言葉は空しく部屋の中に溶け込んでいった。




   * * *




「ん?」

 誰かに呼ばれたような気がして、星歌は振り返る。広がるのはのどかな田園や、ちらほらとお情け程度にある家々ばかりという田舎町の風景だった。

「星歌ちゃん、どうかした?」

「え、ううん。何でもない、デス」

 振り向いて思わずため口になりかけて、慌てて直したら妙な口調になってしまった。恥ずかしさと、情けなさで、星歌は視線を下に落とす。自分の手のひらはデジカメを持っていた。

「ふふ。面白い子だね」

「……」

 何て言えばわからず、視線を下げたまま沈黙する。その頭にぽん、と手を置かれて、子供をあやすように頭を撫でられた。ちら、と視線を上げれば、その人とばっちり目があってしまう。慌てて、再び視線を下に戻した。

「あれ? いつから照れ屋さんになったのかな? 前の時は「夢ちゃん、夢ちゃん」ってにこにこしてたのに」

「……ごめんなさい。全然覚えてないです」

「気にしないで。あなたの忘却の後遺症は知っているから」

「…………そ、ですか」

「ほら、顔を上げて」

「……」

 星歌は言われた通りに顔を上げた。

 そこには綺麗な少女が立っている。ふんわりと巻かれた柔らかい栗色をした髪の毛は、風が吹き抜けるたびにふわふわと揺れる。白磁のような肌は女である星歌から見てもとても綺麗で、滑らかそうで。整った顔立ちには柔和な笑みが、優しく浮かび上がって。華奢で小柄な彼女には温かそうなモッズコートと、レースをあしらったワンピースはとても似合っていた。

 どう見ても星歌と同年代か、下の女の子なのに、雰囲気からか、それとも穏やかそうな性格のためか、どうにも身構えて、心構えてしまう。気軽にお喋りもできないし、それどころか声をかけるのもきっと躊躇ってしまう。いわゆる、苦手、だ。

 心なし、肌寒いというのにデジカメを持つ両の掌には汗がじんわりと浮かんできている。

 そして、彼女の雰囲気だけではなく、彼女と自分にある接点に星歌は意識しているようだった。

 星歌と彼女――夢枕夢子とは、どうやら昔、会ったことがあるようだった。

 星歌は忘却者になった後遺症である〝他者の忘却〟のせいで、他人に関する記憶を留めることができない。その自分以外の〝空白〟を埋めるために日記を書いているほどだ。しかし、その日記には夢枕夢子という名前は出てこない。今日だって確認した。だから例え昔顔を合わせていたとしても、自分には思い出すことは不可能だった。夢子が覚えていたとしても。

 苦手意識は罪悪感から来ているのかもしれない。今、ふとそう思い至った。けれど、思い至ったとしても、どうにもならないけれど。

「ほら。写真撮るんでしょ? 早くしないと時間が来ちゃうわ」

「は、はい」

 デジカメを構えて、数日間しか過ごせなかった風景を映し出す。レンズ越しに見えるのどかな風景をきっと自分は忘れてしまうのだろう。

 かつて、過ごしてきた仲間たちの顔を忘れてしまったように。

「あの」

 思い切って、星歌は夢子に話しかけた。彼女は「何?」と小首を傾げている。

「あの、私と一緒にいた《失意》の忘却者の人たちって……どういう人たちでした?」

「え?」

「え、いや、あの。私のこと大変だったんじゃないかな、って思って」

 今でも郁斗や幸明には迷惑をかけている。きっと前いた仲間たちのところでも多くの迷惑をかけたのではないか、と罪悪感がさらに募る。そして、恐らく、この夢子にもこれからたくさんの迷惑をかけるのだろう。

「そう、ね。とても仲良かったわよ?」

 にっこりと、夢子は微笑んだ。

 その微笑みを見て、――あぁ、と思う。

 この人は、嘘を吐いている。

 きっと自分と仲間たちの空気は、険悪なものだったのだろう。

 けれど、

「そっか。良かった!」

 自分はこの人の言葉を、例え嘘だとしても信じなければいけない。自分は、他者がいなくては、独りで生きていけないのだから。

 無理矢理浮かべた笑顔はきっと、郁斗から言わせれば「不細工だよ」と言われるくらい酷い顔だっただろう。




   * * *




 福良をここへと引き留めるために彼の車のタイヤを壊したのは幸明だと、薄々感づいていた。それを福良に隠れて指摘すれば、

「当たり前じゃん。ざまーみろ♪ って感じじゃない?」

 と、飄々と言い退けた。

 何でそんなことを? と訊けば、

「だって、可哀想でしょ?」

 と、きょとんとした顔で答えた。

 誰が可哀想? と再び返せば、

「ホッシーに決まってるじゃん」

 と、当然のことのように口にした。

 こちらが黙っていれば、

「お前も、可哀想にな。せっかくの良い相棒だったのに」

 と、慰めるような口調で頭を柔らかく叩かれた。

「別に……。パートナーにしろ、と言ったのは幸さんですよ?」

「まぁな。だけど、お前らなら乗り切れる、そう思ったから相棒を組ませたんだ」

「乗り切れる……?」

 不可解な言葉に、郁斗は眉を顰めた。

「後で、話してやるよ」




 福良の車が壊れて帰れない彼らは電車で行くと言い出した。途中まで電車で行き、こちらに向かっている《協会》本部の者と落ち合うらしい。

 今は昼間。そして、無関係な人々が乗る電車には《未来》の忘却者が現れないだろう、と踏んだものだった。

 確かに《未来》の忘却者は公共の場には現れたことはなかった。

 いつも出会って、戦場と化したのは人があまり来ない山中だ。《未来》の忘却者が裏切り、逃亡と知った後の彼女の動きも、あえて公共の場を避けていたらしい。

 それならば電車で行く方が確率的に《未来》の忘却者が現れるのはかなり低いだろう。

 けれど、低いというだけでゼロではなかった。

「というわけで、あなたたちには護衛をしてもらいます」

 リビングで、郁斗、幸明、星歌、夢子、福良の五人が集まっている時に、福良にそう任じられる。

「護衛ぃ?」

 不満そうなのは、幸明だった。

「福良さんがいるからオレたちはいらないっしょ? 何せ福良さんですから。何と言っても福良さんですから」

「うるさいぞ。ただあなたがたは聞いていればいいんです」

「さすが福良さん。こちらの意見は一切聞きませんなぁ。だから頭が禿げるんですよ」

「俺はまだ禿げてはいません!」

「いや、いつか禿げるよ。上の立場の人は禿げるのは絶対的な約束ですから」

「それは貴様らが余計なことをするからだ!」

「それを管理できてない上がいいますかー? さすが責任転嫁上手な福良さん。かっこいいわー」

 今にも戦闘を始めそうな二人の殺意と殺気に、郁斗は呆れて溜め息を吐く。

「幸さん、いい加減にしてください。話が進みません」

「別にいいじゃん。進まなくて」

「幸さん!」

「へいへい」

 大人しく幸明はソファにふんぞり返った。隣に座る郁斗も、それ以上何も言わずに口を閉ざした。剣呑な雰囲気を感じ取っているのだろう、星歌が不安そうに顔を曇らせている。その隣に座る夢子はこの雰囲気など気にもしていないらしく、ただただ微笑んでいた。

「ふん。あなたに止められるなど、俺もまだまだですね。成長しなければ。指令一つ、まともにこなせないどころか隠蔽する役立たずな馬鹿者ごときに言われないようにね」

 僅かに色をなした嫌味に、郁斗は聞き流す。いつものことは、いつも通りに流せばいい。そうすれば、事はすぐに終わるからだ。

「さて、そろそろ行かないと電車に遅れますね」

 腕時計を確認して、福良は立ち上がる。

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