二章―19
「私たちに戻るんだよ!」
ふん、と女の子なのに、鼻息荒く力強く答える。
「あ、そっか。郁斗は自分自身のことがわからないんだもんね。元に戻った時、自分がどんな姿になるのかわからないのか」
――的確に、人の恐怖を当てやがった。
「そっか。確かにそれは怖いよね。そりゃ」
呑気に、気楽に、間延びに、気軽に同情する星歌に、怒りが湧いてくる。相手は女だろうが、関係なかった、一発、ぶん殴ってやろうかと思った。
「でも大丈夫。郁斗は郁斗だよ。満たされて、元に戻っても」
あっけらかん、と笑う。
「郁斗がどんな本性で、今とは全然違う姿になっても、郁斗は郁斗だよ。私にはわかるよ」
にっこりと浮かんだ笑顔に、絶対の自信を添えて。
「…………ふぅん。今とは違う姿になっても、あんたにはわかるんだ?」
「当たり前。私はどんな姿になった郁斗でも、見つけ出してみせるよ。相棒だからね!」
その言葉に、郁斗は心の中で嘲笑する。
郁斗のことを何も知らないくせに、何を言ってるんだろう、と。
しかし、馬鹿げた言葉は、心の奥底にほんのりと響いた。
あれから、適当にぶらぶら歩いて、馬鹿げた話をして、少しだけ真面目な話をしたり、郁斗にとっては、ここまで他人と喋ったのも、一緒にいたのも初めてだった。
二人でいるときに感じたぬるま湯のようなあの生温いような空気は、どこか気持ち悪く、けれど、どこか心地良かった。
現実から、目を逸らしてしまった。
「え」
夜へと変わる夕刻。家に戻って。玄関を開けて。いつものように幸明が「おかえりー」と気だるそうに出迎えるはずだった。
しかし、
「何で」
そこにいたのは、一人の若い男。
この田舎町には似つかわしくない、都会向けのファッションに身を包んだ若い男の顔には見覚えがあった。
「四宮星歌を、今から本部へと連行します」
《協会》の本部にいる人間だった。
4
――そして、朝。
「いやいや、大変ですねぇ。こんなド田舎町に来て、タイヤがパンクして」
「……」
「電車はあるにはあるんですけどねぇ。何しろド田舎町でして」
「……」
「電車は一時間に一本しかなくて」
「……」
「まぁ、ゆっくりしてってくださいよ」
「……」
「あ、お酒飲みます?」
「……」
「それとも甘いお菓子? デザートとか?」
「……」
「そんなに怒っても、現実は変わりませんよ? オレ、車なんて持ってないし、電車もあんまり乗らないし」
「……」
「あっはっはっはっは。やですねぇ。そんな顔して睨まなくても」
「……」
「とりあえず、これだけは言わせてください」
「……」
「ざまーみろ♪」
「あなたは……っ」
「幸さんからかうのは止めてください。それに福良さんも」
あはははは、と《協会》本部の福良に馬鹿にしたように笑う幸明と、その幸明の前で怒りで顔を歪めている福良を交互に見やって、郁斗は深い溜め息を吐いた。
福良は《協会》の本部から来た忘却者だ。多くの忘却者たちを管理し、また新しい忘却者を見つけては《協会》に搬送する、《協会》の幹部の一人。田舎町ではまず見られない都会向けのデザインの洋服を纏い、髪も茶色に染めている福良はどう見ても軽い男のようだ。しかし、その性格は外見とは裏腹に残酷、非道、冷徹であると知られている。
《協会》の幹部という位置づけのためか、多くの忘却者から嫌われていた。
無論、福良をここぞとばかりにいじめ倒そうとしている幸明もそうであり、郁斗も嫌いだ。
その福良がこんな田舎町に来た理由は、四宮星歌、だった。
星歌がここにいることが分かり、連行しようと自ら赴いた、ということだ。そして、その福良の部下だろう忘却者たちが数名、外で待機している。
呆れて郁斗が幸明と福良の二人を見ていることに気付いた福良は、郁斗を睨みつける。顔にはあからさまに嫌悪を浮かべていた。
「そもそも、あなたが原因ですよ」
その言葉に、幸明が黙る。
郁斗も反論せずに、こちらを睥睨する福良を真っ直ぐに見返した。
「何が?」
幸明がす、と郁斗と福良の間に立つ。大きな背中のせいで、福良が見えなくなってしまった。しかし、福良が纏わせる感情の雰囲気でわかる。福良は怒っていた。
「言ったはずです。余計なことは一切するな、と」
「……」
それは恐らく、星歌と出会ったあの日のことだ。星歌が所属していたと思われる支部のリーダーである《失意》の忘却者のところへと行け、と任じられたとき『余計なことは一切するな』とも言われた。
余計なこと――星歌を拾い次第、すぐに《協会》へと連絡しろ、という意味だったのだろう。
「それに幸明さん、あなたもです!」
怒りの矛先が幸明に向けられるが、当の本人はあっけらかんとしていた。
「何のことー?」
「朝の電話のことです!」
朝の電話、とようやく昨日の朝に電話がかかってきたことを思い出す。確か幸明が出ていたが、幸明は内容を覚えておらず、後でかけ直すと言っていた。その後も自分に報告がないため、特に何事もないと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
「電話で訊いたはずです! ここに忘却者の少女がいるかを! それをあなたが「いるかもしれないし、いないかもしれないし、よくわかんない」って答えるから、俺がこうして自ら来たんです! それなのにあなたは飄々と……!」
「よくわかんなーい」
けたけたと、幸明の背中が笑う。完全に馬鹿にしているのは一目瞭然で、それをわかっているため福良の怒りを余計に煽っていた。
「だからあなたは!」
「オレ、難しい話わかんなーい。馬鹿だから!」
「だったら馬鹿は馬鹿なりに理解しようとしてください!」
「馬鹿だからそんなこと全然思いつきませーん」
「いつもあなたそうですよね! 良いですか? 今度言うこときかなかったら……」
「すんません。馬鹿なんでー」
「貴様!」
「きゃー! 暴行よ! パワーハラスメントよーっ! ドメスティックバイオレンスよーっっ!!」
「気色悪い声を出すな!」
仲がいいんだか、悪いんだか。
息があっているんだか、あっていないんだか。
郁斗は言い合いを始める二人にあきれ果て、そ、とそこから離れる。リビングから離れて廊下へと行けば、ひんやりとした空気が肌に触れる。じわ、と体内へと侵食するのは冷気だけだろうか。特に寒さに弱いというわけではないのだけれど。
「……」
廊下から二階へと上がる。
二階には人の気配がなかった。構わずに郁斗は二階へと上がって、ある部屋の前で立ち止まる。そこは星歌に宛がわれた部屋の一室、だ。
誰もいないことをいいことに、郁斗は思ったよりも冷え切っているドアノブを掴んで、ドアを開けた。開けた途端、風が舞い上がる。ふわりと漂う匂いは、数日前にはなかったものだ。ここに人が来てから、その人が生活しているという匂い。
部屋の中には、必要最低限の調度品以外、何もなかった。
「……あ」
あった。
先ほどまでこの部屋で過ごしていた人物の、大事にしているものが。
それはベッドの上に放り出されるように置かれていた。
郁斗はそれに近づき、手に取る。分厚いそれは、一見すれば本のように見えるが、実際は日記帳だ。その人物が生きていくために必要なことが書かれている、ある意味その人物のライフライン。
手に取ったそれは、ずしりと重かった。その人物の命そのもののように重く、そして、とても軽かった。




