二章―18
その言葉に星歌は僅かにむっとするが、それでも話が気になるのだろう。口をはさむようなことはしなかった。
「はっきり言って、幼少のころはよく覚えていない。これは幸さんから聞いた話だ。僕は幼少のころ、両親に虐待をされていたらしい」
「え」
「虐待されていた僕は、きっと、追い詰められていたんだろうね。僕はある日、《自身》の喪失と引き換えに、仮初の《自身》を手に入れた。それは、《自分》以外の生物なら、何でも化けられる力という《自身》の力を」
「《自身》の喪失で……仮初の《自身》?」
「そうだよ。あんたの日記にも書いてあっただろう? 犬や猫、鳥にだってなれる。それに人間にだって化けられるんだ。幸さんにもなれるし、性別も違うあんたにもなれる」
「嘘!!」
「本当だよ。《自身》以外なら何だってなれるんだ。その代わりに、僕は、僕になれない」
「郁斗になれない? だって、郁斗は郁斗じゃない」
何が違うの? 星歌は首を傾げた。
「僕は僕自身のことがよくわからない」
「……それは、《自身》の忘却者だから?」
「僕のこの姿は、僕の弟かもしれない男の子の姿なんだよ」
「え……」
「僕は、本当の僕としての姿形を忘れたんだ。男だったか、女だったのか。老いていたのか、幼かったのか。そもそも人間だったのかすら、わからないんだ」
「……」
「この姿は四度目に化けて、ようやく落ち着いた姿なんだ」
「四度目?」
「うん。最初も、二度目も、三度目だった自分の姿と記憶は、すっかりと忘れちゃったからね」
「え? え?」
「僕は《自身》の忘却者だ。化けた姿で、〝これが本当の僕なんだ〟と思ってしまうと、《自身》の姿形、記憶が全て消去される。これが《自身》の忘却の後遺症。一度目も、二度目も、三度目も、愚かにも《自身》だと思い込んでしまったから、すっかりと忘れたんだ。四度目だとわかるのは、リーダーである幸さんが近くにいたから。この弟かもしれない姿になったのも、幸さんが〝僕〟がまだいたらしい――その時の家族の写真を持っていたから」
「待って、こんがらがってきた。えと、今の郁斗は四度目の郁斗で、でも本当の郁斗じゃなくて、弟さんの姿で――……じゃあ、郁斗は、本当の郁斗は……だから郁斗は……」
混乱する星歌に、郁斗はぺしん、と頭を叩く。
「いた」
「この記憶は忘れて」
「何で?」
「やっぱり、いい記憶じゃないから」
「――そだね」
それっきり、二人は黙って歩いていた。
すぐ傍では日常的な風景が流れている。
普通の人の。
普通の暮らし。
当たり前と、高を括りながら。
決して、そんなことはないのに。
決して、それが当然ではないのに。
「こうしていると、さ」
隣で、星歌がぽつり、と呟いた。
「郁斗は溶け込めないって言ってたけど、うまく溶け込んでいると思わない?」
「溶け込む?」
何が言いたいのかわからなくて、訊き返す。
「普通の人たちの暮らし」
「……」
「ほら、こうして若い男女が二人で歩いている姿なんて周りから見れば「カップルじゃん」て見られるでしょ?」
自分で「カップル」と言ってて、恥ずかしくもないのだろうか? 自分と星歌の間には何もない。それこそ、恋愛しているような甘い繋がりなどあるはずがない。
特に思うところはないのか、彼女は続ける。
「そう見られてもさ、本当は私たちって全然違うのにね」
「……」
「こういう日常に溶け込もうとしても、やっぱり駄目なんだね。どこか変な感じがする。周りの人たちが私たちの存在に気付かなくても、私からしてみると場違いに感じちゃう。私たちは――空っぽだから、溶け込めない。溶け込んでいるように見えても、結局は溶け込めないんだね」
空っぽ――大事なものを失くした忘却者。
その自分たちが、日常に溶け込む?
「当たり前だよ」
溶け込めるはずがない。
自身の核心の部分の喪失というのは、自身の生きながらの死と同義だ。
他者の記憶を留めておけない。
自分自身の記憶がなくなってしまった。
それはずっと治ることがない、本当の意味での喪失――死。
「僕たちは、ずっと空っぽのままなんだよ」
だから、自分たちは世間とは一歩離れて生きている。
「でも」
その言葉を打ち消すように、
「空っぽだからこそ、満たしたいんだよね」
言葉を継いだ。
満たしたい。
失われた自分自身を取り戻したい。
「無理だよ」
けれど、その願望はいとも簡単に否定された。
即答されたことに苛立って、星歌を睨みつける。
「私たちは忘却者。もう元には戻れない。だから、満たすことなんてできない」
紡がれる絶望的な現実。
どうしたって、自分たちは、元の自分には戻れない。
わかっている。
わかっているけれど。
「あんたは勝手だね。昨日は〝自分を探す根性を見せろ〟って人を罵っておいて、今日になっては〝無理〟って……」
は、と我に返る。
そうだった。
星歌は自身の記憶はあれど、他人に関する記憶が掻き消される。昨日のことだって、覚えているはずが――……
「あぁ」
納得したかのように、星歌は頷いた。
「あなたが私に対してどう言ったかわからないし、覚えていないけど、でも、自分が言ったことはちゃんと覚えてるの。ごめんなさい。酷いことを言ったね」
今さら。今さら謝られても。
「私の夢を教えてあげるね」
睥睨する先、星歌は他人事のようにけらけらと、しかし、どこか乾燥しきった笑い声を上げた。
「私の夢は、〝皆〟を取り戻すこと。空っぽなそこを埋めて、私を取り戻すの」
「は?」
それはまるっきり、郁斗が言った台詞と同じものだ。その願いを持っているならば、わかるはずだ。それが否定される苦痛を、怒りを、絶望を。
「そう願うたびにね、次の日になると壊されるんだ」
「……」
郁斗と星歌の違い――それは後遺症の症状だ。
郁斗は自分を忘れた時は、忘れたままで終わる。
しかし、星歌は違う。生きている限り、人は誰かしらと接点を持つものだ。星歌の後遺症は〝他者の忘却〟。他人と関われば、眠りについて、起きた時には自動的に記憶から削除される。毎日、それは繰り返される。どんなに願おうとも、現実へと目覚めた瞬間、後遺症の絶望を味わう。
願っても願っても、否定する現実。
「……それは、苦しいだろうね」
願っても「叶うはずがない」と現実がつきつけられるたびに、再確認されるたびに、強くあろうとする心は重く軋んだはずだ。
「強くなりたい。強くなりたいんだ。でも、プレッシャーって言うのかな、凄い感じるんだよね」
ざ、ざ、と二人分の足音。
行き先がわからないまま、歩く二人。
目的すら、ない。ただひたすらに歩くだけだ。
「本当は強くなれないって、わかってる。でもさ、〝強くなる〟って言い続けなくちゃさ、負けそうじゃん?」
何にだろうか?
忘却にだろうか?
後遺症にだろうか?
現実にだろうか?
それとも、自分自身にだろうか?
突然、星歌が自分自身の頬を両手で叩く。ぱん、という小気味いい音に、郁斗はぎょ、とした。
「な、何しているの?」
「だって、弱気になってるから」
「あんたは弱気になると、叩く癖があるの?」
「べっつにー」
てくてくてく、速足になって歩き出した彼女の後を、郁斗は肩を竦めてゆったりとついていく。
「……一つ、訊いていい?」
郁斗は元気良く歩く彼女の背中に投げかけた。ちら、と星歌がこちらを振り返る。
「僕は僕自身を取り戻したい。でも、怖くないか? 取り戻して、全てが元通りになった時、僕たちはどうなるんだろう、って」
「そんなの決まってるじゃん」
体ごとこちらに振り返った星歌が、何故か勝気に胸を張った。




