一章-1
一章
1
――夜。
すでに後は就寝するだけだった郁斗の携帯に、不躾な呼び出し音がけたたましく鳴った。
「もしもし?」
『《化け者》か?』
「……そうですが、何か?」
『すぐに《失意》の許へ行け』
「《失意》……? 隣の支部ですよね? 何でそんなところへ?」
『お前は知らなくていい。いいか? そこには恐らく《未来》の忘却者がいるはずだ。見つけ次第、即捕獲しろ』
「《未来》の忘却者……? 何故捕獲するんですか?? 捕獲するなら保護チームに任せれば……」
『お前に拒否権はない。訊く権利もない。捕まえろ。そして、余計なことは一切するな』
「……」
『わかったな?』
「……了解です」
ぶつ、と相手との通話が途切れる。
「……まったく」
投げやりに悪態をつき、郁斗はこの夜にも負けない真っ黒なコートを羽織った。
淡い月明かりは、鬱蒼とした山道を薄気味悪くその先を照らしている。
山ならではの真冬の身も凍るような空気が郁斗の剥き出しの頬を、冷たく撫ぜていった。郁斗は舗装された道路ではなく、登山道でもなく、起伏の激しい、野生のままの荒れた山中を歩いている。降雪もなく、積雪もないが、霜が降りた地面は足元が悪く、油断していると滑り落ちそうだった。
郁斗は寒冷で、深淵たる山の闇の中を、明かりも持たずに黙々と歩き続ける。
目的地は、まだまだ先だった。
目的地は、山の中腹にある。
山の麓の街から隠れるように、ひっそりと息を潜めるように存在する、一軒の家。
そこへ行くようにと言われたのが、三十分も前だ。
理由を訊いても突っぱねられ、何が何だかわからないままこうして急いできたのだが。
「……何だって言うんだ?」
呟いた言葉は、白く濁った息と共に霧散していく。
行け、と言われ。
《未来》の忘却者を捕まえろ、と言われ。
恐らく《失意》の忘却者の許に、《未来》の忘却者がいるのだろう。何らかの理由で《未来》の忘却者が暴走し、食い止めるために自分が呼ばれたのだろう、と、そこまでは推測できた。
けれど、
「〝余計なことは一切するな〟……てのは、何だ?」
――余計なこと。
余計なこととは、何だろうか。
自分は《未来》の忘却者を捕獲するだけ。〝余計なこと〟が起こることなど、ないはずだった。
「…………」
とりあえず行ってみないことには、何も分からない。
ただ何が起ころうとも、自分は《未来》の忘却者を捕獲するだけだ。
そうして、郁斗が足を一歩前へと踏み出した瞬間だった。
「え……!?」
ふわり、と寒冷な風が吹き抜けていったのと同時に、突然、目の前に少女が飛び込んできた。
「な、に……!?」
驚愕に目を見開いて、けれど、無意識に体は後方へと飛び退く。
少女は長い黒髪をふわりと靡かせ、
「いだっ!!」
先ほどまで郁斗がいた場所に、派手に転んだ。
「いたたたた……」
うつ伏せに転んだ少女は痛む体を――腹部を庇うように、ゆっくりと上体を起こす。少女の丈の長いダウンジャケットは土まみれで、ジャケットの裾から覗く脚は擦り傷だらけだった。
「……」
「…………ん?」
痛みのせいでしかめっ面をしていた少女は、ようやく郁斗の存在に気付いたようだった。腹を抱え込み、座り込んだ状態で、少女はきょとん、と郁斗を見上げる。
背中に流れる艶やかな長い黒髪。夜目でも視認できる健康的な白い肌。ダウンジャケットが包む小柄な体と、丸く見開いた双眸が相まって、どこか快活そうな気性が窺えた。そして、誰だろう? と探ってくる視線に、彼女は自身の感情に正直のままに動く性質だとわかる。
瞬き一つ。
彼女は小首を傾げて、ようやく口を開いた。
「あなた、誰?」
「あんたこそ、誰だ?」
間髪入れず、訊き返す。そのことに、む、と彼女の眉間に小さな皺が寄った。
「こっちが訊いてるんだけど?」
「僕のことはどうだっていいよ。それよりも、君の方が気になるよ」
「どういうこと……?」
途端、少女が自身の腹部をぎゅ、と庇うように交差する腕に力が籠った。見れば一冊の分厚い本を大事そうに抱いている。
「こんな夜更けにこんな山の中で女が一人。怪しく思うのも当然だろ? で、あんた誰だ? それでその腕に抱えている本は何?」
「……私は四宮星歌。これは本じゃなくて、日記だよ」
――四宮、星歌?
《協会》のメンバーには、四宮星歌と言う名前はない。
そして、自分が捕獲する標的の名前とは違った。