二章―13
* * *
ぞくり、と星歌の背筋に冷たいものが這いあがった。
星歌は今、《未来》の忘却に追い詰められていた。
自分は、今、鳥の姿になっている。空を飛び、必死に《未来》の忘却者から逃げていた。
風の流れが不規則に乱れ、時折、星歌の肌を乱暴に撫ぜていく。そのたびに、体の芯まで凍結してしまうかのような冷え切った恐怖を覚えた。
何もできないまま、星歌は《未来》の忘却者に背を向けている。
何もしようとしないまま、星歌は《未来》の忘却者の存在だけを感じていた。
――何も、できないから。
ならば、《未来》の忘却者と繋がり、道連れに死のう、と覚悟を決めた。決めたつもりだった。
けれど、死ねなかった。
何でだろう?
何でできなかったのだろう?
――私が、役に立てるのは今しかなかったというのに。
何でできなかった?
そんなの知っている。
怖かったから。
死ぬのが、怖かったから。
この世界に星歌という存在を少しでも残したかった。
この世界をまだ知りたいと未練が残っていたからだ。
――結局、私は、弱いまま。
強さに憧れていた。
一人で生きていける強さに。
独りで立ち続けられる強さに。
『〝強さ〟を求めるあんたは、どうして自分の命を犠牲にするようなやり方をする?』
そんなの決まっているじゃないか。
私は、強くなんてなれないからだよ。なれるはずなんて、ないんだよ。
忘れ続ける自分だから。
捨てるばかりの自分から。
例え、誰かに自分を鍛えて強くなっても、人を忘れ続ける自分は、それだけで簡単に心を折る。強さを持ったとして、独りきりの世界で、何ができるのだろうか。
――何もできないじゃない。役にも立ちはしないよ。
憧れは、憧れだった。
夢は、所詮夢だった。
わかっていた。
わかっていても、認めたくなかった。
だから、「強くなる」と声を張り上げた。たてついた。
けれど、そうわかっていても、やっぱり現実は残酷にも突き付けて。
だからこそ、星歌は他人に迷惑をかけ続けているから、自身の命を他人のために使おうと決めていた。できるなら大切な人のため。それが叶わないなら、近くにいる人のため。それでいい。それが良かった。
それなのに、
――何て、馬鹿だ。
覚悟を持っていたのに、決意を抱いていたのに、何もできやしない。
自分が死ぬという恐怖で、簡単に折れてしまった。
――悔しい……!
自分の荒れる心に、星歌は歯噛みする。
風が巻き上げられ、まるで獰猛な獣が唸るような――重くそれでいて鋭い音を立てながら、その勢いは増していった。
このままでは、死ぬ。
何もできないままに。
不意に、風がぴたりと止んだ。嵐の前の静けさのような、不気味な静寂が山中に漂う。《未来》の忘却者が、不敵に微笑む。心臓が不吉な予感を告げるように、一つ大きく鳴る。
「覚悟はいい?」
死への宣告が、《未来》の忘却者から言い放たれる。
そして、風が動き出した。
土を抉り、木々を呑み込み、風はさらに周囲に吹いている風を巻き込みながら、星歌へとその脅威と獰悪さを剥き出しなまま襲いかかる。
ダメだ、と思った。
もう、終わりだと。
しかし、
「……!?」
ぞくり、と星歌の背筋に冷たいものが再び駆けのぼった。
身も凍りつく戦慄か、それともまた別の何かなのかわからない。けれど、その悪寒の中に、自身を律するような強い力が宿っていることに気付いた。
それは、何だろうか?
これは、誰の感情だろうか?
――郁斗。
あ、と思う。同時にしまった、と、ようやく思い出した。
自分は今、郁斗と繋がっていた。おまけに郁斗の力を借りて、鳥の姿になっているというのに、そのことをすっかりと忘れていた。
――早く、切り離さないと。
このままでは、郁斗が死んでしまう。
星歌は焦燥に駆られながらも、自分と繋がっている郁斗との能力を切断しようとした。しかし、
待て!
郁斗の声が、星歌の内に響いた。
そして、体と意識がずれるような奇妙な体感を覚えた時、〝それ〟は荒れ狂う風を薙ぎ払いながら現れた。
* * *
それは今までに知覚したことなどなかった。
風の流れと空気の動きが手に取るように分かる触覚に、どんな小さな物音でも拾ってしまう鋭敏な聴覚に、どこまでも見通せそうな視覚に、どこに隠れていようと生き物の気配を察知する嗅覚。
全てが今までとは違う感覚だった。
ぞわり、と鳥肌が立つほどの鋭感さは、この地上に住まう生物には持ち得ないものだった。
山の中を駆け抜けて、行きついた先には、星歌と《未来》の忘却者がいた。
《未来》の忘却者は、眼を見開き、絶句している。
鳥の姿の星歌はこちらへと見つめ――そのまま地に降り立ち、人間の姿へと戻った。呆然とした面持ちで、食い入るように郁斗を見つめていた。
なぜ、二人がそのような顔で自分を見るのかわからなかった。
けれど、心と体が繋がっている星歌の眼を通して、自分の姿を見ればようやく納得する。
――確かに、今の僕はこの世界に存在する生物じゃない。
ばさり、と雄々しく広がる両翼に、鋭い弧を描く嘴。獲物を逃さない尖鋭な鉤爪。上半身だけを見ればその風貌は雄大かつ壮麗な鷲、そのものだった。しかし、下半身は鳥のそれではなく、まるで誇り高き王獣の強靭な体躯だった。鷲の頭部に、翼、獅子のような体。その姿はよくファンタジーの世界にたびたび登場する、グリフォンのようだった。
「郁斗、その姿……」
震える声でそう呟いたのは星歌だった。
「これも全て、あんたのおかげだよ」
「――え?」
「あんたの《繋がり》で、僕は鷲とライオンの体を繋ぎ合わせただけだよ。でも、まさか、〝力〟も手に入るなんて」
郁斗は《化け者》という呼称の由来は、生物であれば何でも化けることができるからだ。しかし、化けても、その身体能力はその化けた対象に見合うものだけ。もしその対象以上の力を持った場合、力量の均等は崩れて、体に激痛が走り、最悪気を失ってしまう。
それなのに、今回は生物同士を《繋ぎ》合わせ、《化けた》対象はこの世に存在などしない、空想上の幻獣だった。
だからなのかわからない。
それともまた別の作用があったのかすらわからない。
ただ、はっきりとわかるのは、自分は今、この姿に釣り合う以上の力をこの身に宿していた。あんなに荒れ狂った風も、川の凍結も、あの一鳴きで鎮めてしまった。
今は穏やかな風が吹き、川もさらさらと何事もなかったかのように流れている。
逆に、先ほどまで自然を暴走させていた狂気が、脅威が、何故か郁斗の体の奥深くに複雑に渦巻いていた。ぐるぐると渦巻くたび、混沌とした力が膨れ上がっていくのを感じる。今にも破裂して、この体から飛び出しそうだった。
何が起こったのか、わからない。
このままだと何が起こるのかさえ、わからない。
――ただ一つ言えるのは、
この雄姿に引きつけられたかのように魅入る《未来》の忘却者を確実に捕まえられる、
そのことだけだった。
「化物が……!」
幻想上の獣の戦慄に震え上がりながらも、《未来》の忘却者はグリフォンと化した郁斗を睨みつける。憎悪のままに、怒りのままに、恐怖のままに。
「そうだよ。僕は化物だ」




