二章―12
絶望に彩られた呟きが、心の奥底に寂しく響く。
喉がからからに渇いていく。手のひらに、体から力が抜けていく。目の前に見えないフィルタでもかかっているかのように、不鮮明だった。
私のせいで、皆、殺された。
不甲斐なく放心した星歌を、《未来》の忘却者は嗤っていた。
駆けている脚から、力が抜けていく。星歌の真っ黒に塗りつぶされた感情に、郁斗も引きずられていた。
――くそ!
脱力していく脚に何とか力を入れる。ずるずる、と脚を引きずるようにして、走った。
不意に、どすん、と力を入れすぎた脚が、地面に沈み込んだ。
「何だ!?」
抜け切っていた力が、突然蘇った。
郁斗は意識を星歌に向ける。
星歌は、微笑んでいた。
「そうだね。それなら、確かに私のせいで、皆が死んだ」
ぎゅ、とナイフを握り締める感覚が、郁斗の熊の手のひらでも痛いほどに感じ取る。
「私のせいだよ。私のね」
力が戻っても、彼女の感情は未だ凍えるほどに冷え切った暗闇の色だった。それなのに、何故笑っていられるのか――そう疑問を抱いた時、すんなりと答えは彼女から得られた。
「なら、やっぱり私が皆の仇を討つ!」
ナイフの切っ先が、ようやく得られる血肉に狂喜したかのように、鈍く煌めく。
――待て!!
星歌が何をしようとしているのかわかったのだろう。《未来》の忘却者は、何とかその行為を阻止しようと力を発動させた。
でも、遅い。
《未来》の忘却者が自身にとっての〝都合〟が良い未来へと導かれるより先に、星歌が動く方が速かった。
ナイフがぎらり、と獰悪に煌めく。
そして、その凶刃が星歌の首へと突き付けられ、僅かな肉の弾力に抵抗されながらも、彼女の柔肌に沈み込んだ。
何とかしなければ、と郁斗は焦っていた。
《未来》の忘却者の意識が全て星歌へと向いていたおかげで、郁斗の前に邪魔者が現れずに済んでいたのだが、事態は一層切迫したものになっている。
ぎり、と郁斗は歯噛みした。
うまくいかない。
何故、こんなにも状況が悪い方へと転がっていくのだろうか。
ずき、と先ほどよりも深く切りつけられた傷が、鋭く痛む。温かいモノが毛に覆われた皮膚の上を伝っている感覚に怖気が走った。
今、星歌を通して映る彼女たちの現況は、郁斗とは違って、まるで何もかもが凍りついてしまったかのように固まっていた。
星歌も、《未来》の忘却者も、空気も、風も、時間さえ。
まさに今〝死〟という終焉の一歩手前までの、実はもう死んでいるのではないか? という疑問を抱くほどの僅かな時間の混迷に、 誰もが恐怖で凍りついていた。
けれど、死は、やってこなかった。
星歌の手がふるふると震えている。強張った指の隙間らから、握りしめられていなかったナイフが零れ落ちた。からん、と刃に血が付着したナイフが、転がる。
「あ……、あれ?」
がくがくと大げさなほどに震えている星歌の体。星歌は震えあがりながら、零れ落ちたナイフを呆然と見下ろした。
「わ、私……?」
自分の中で感情が入り乱れているのか、星歌は未だ整理のつかない思考で一生懸命自身の中に芽生えた想いに戸惑うのがわかった。
何とかしなければ、と郁斗は焦る。
脅かされた死という影に立ち直れずにいるのか、《未来》の忘却者は立ち尽くしたままだった。何が起こったのか。今、どうなっているのか。そんな混乱が《未来》の忘却者の顔に浮かぶ。
しかし、星歌よりも先に《未来》の忘却者が正気に戻った。
「お前……!」
苛立ち混じりの声色に、星歌がやっと我に返る。
「――――っ」
星歌は咄嗟に身構えるも、《未来》の忘却者がそれよりも早く忘却の力を発動させた。
風が、ふわり、と星歌の横をすり抜けていく。その感覚を、星歌と繋がっている郁斗も感じた。
――来るぞ!
心の中で忠告する。その瞬間、風が荒れ狂う。木々を揺らし、枝をへし折り、地を巻き上げ、周囲を呑みこみながら星歌へと襲いかかった。
ひ、と星歌が喉の奥で引き攣った悲鳴を上げる。脚が竦み、体が震えあがり、硬直した。
――早く!
刹那、郁斗は思い出す。
星歌と繋がった自分。
逆を言えば、郁斗と繋がっている星歌。
そして、先ほど、星歌は郁斗と繋がり、郁斗の力を自分の力として操った。
ならば、
――化けろ!
びく、と星歌の体が揺れる。
揺れて、大きく翼を広げた。
何とかしなければ、と郁斗は未だ焦っていた。
化けろ、と星歌に叫んで、星歌は郁斗の能力で鳥へと変化した。その姿は先ほど郁斗が化けたイヌワシと同じもので、ただ逃げるように飛翔する姿は雄々しさの欠片もない。
星歌の視界では、《未来》の忘却者が能力を発動させようとしていた。
何とかしなければ、このままでは負ける。もしくは死ぬ。
郁斗は走り続けた。
その間も、黙考する。
化ける力を持つ郁斗。
繋がる力を持つ星歌。
化ける。繋がる――他者と繋がり、化ける。その二つの力を、郁斗が、星歌も持っているのだ。
化ける。繋がる――他の存在を繋げる――繋げる? 他者と、他者、を?
ふと、閃いた答えに、郁斗は逡巡し、足を止めた。
――できるか?
動物の姿である郁斗と星歌。その動物同士の力を、融合できないだろうか?
できない、と咄嗟に諦観が首を振る。しかし、できるかもしれない。何しろ、自分たちは今、繋がっている。その《繋がり》さえあれば、もしかしたら……。
しかし、自分はどうなる?
今まで試したことも、経験もしたことがない。
何が起こるかわからないし、どうなるかもわからない。
もしかしたら、今まで築き上げてきた〝郁斗〟も崩壊してしまうかもしれない。
ならば、何もしない方がいいかもしれない。
星歌を見殺しにして、仲間を――幸明を連れてきた方が、得策だろう。
――逃げてばかりじゃ何も見つけられるはずないだろ!
少女の、必死な形相が脳裏に蘇った。
――逃げる?
この、自分が?
笑わせる。
「やってやろうじゃないか」
ふと、風に微かな違和感を覚える。また、風が操られているのだろうか、と郁斗は周囲を見渡す。だが、郁斗の周りはとても静かだった。何事もありません、という素知らぬ空気に、郁斗は眼を細める。
風に違和感を覚えているのは、郁斗ではなく、星歌だ。
繋がり、一心同体だからこそ、星歌の異変をすぐに察知できる。
まだ、間に合う。
かちり、と何かが嵌り込む感覚は、全身へと広がって。
ぞわり、と体の中から外へと迸る力が、『自分』という意識を残したまま『自分』の体に伝わって。
そして、ぐるり、と郁斗は全てを変貌させた。
まるで世界そのものがひっくり返るような感覚と共に、
鷲のような、
獣のような、
この世の生き物とは思えない咆哮が、小さな山を一つ揺さぶった。




