二章―11
私は、何もできない。
悔しさか、
腹立たしさか、
遣る瀬無さか、
やり切れなさか、
ねっとりとしたそれらがぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が、胸の奥をきつく締めあげた。それを振り払う方法もなく、払拭する術もわからず、ただどっしりと暗い翳が纏わりつくようだった。
それが、今の星歌の中に渦巻く闇にも似た、負の感情。
私は忘れる一方で、助けられてばかり。
私は、何も返せない。
ただ、与えられるだけ。
私は、一体、何の役に立つというのだろう?
郁斗の視界が一転する。星歌が動き出したようだった。
目の前には《未来》の忘却者。
昨夜から着替えていないのだろう、その姿はボロボロだった。姿はボロボロだが、けれど、憎悪で凝った翳が《未来》の忘却者の瞳に強く映し出されていた。不気味に弧を描く口元は、獲物が自ら進んで狩られにきたことへの嘲笑だろうか。
子犬の姿から、人間の姿に戻ったのだろう、視界が高くなり、その代わりに獣から人間への感覚になった。
「こんにちは、《未来》の忘却者さん」
星歌が、嫌味なほどに恭しく挨拶してみせた。
「こんにちは、《繋がり》の忘却者」
《未来》の忘却者も、微笑を浮かべて、頭を下げる。
星歌を通して見通せる世界に、ただ二人だけがそこに存在し、そして、互いが相容れない敵であると認めているその眼差しは剣呑なものだった。
立ち向かう星歌は勇姿そのものだったが、胸中が郁斗には手に取るようにわかる。
恐怖、疑問、疑心、――自分が何とかしてみせる、という決死の覚悟。
「止せ!」
郁斗は吠える。
その声が聞こえているはずだろう、しかし、星歌は不敵に笑って見せるだけだった。
「私は」
星歌は、言う。
突然切り出した星歌の言葉に、《未来》の忘却者は不審げに眉を顰めた。
「私は、何もできないの」
ぽつり、と零された声色は、どこか寂しさを漂わせる。
「誰かに助けてもらわなきゃ、私は生きていけない。誰かを犠牲にしなきゃ、私はここにはいられない。それを私はわかっているんだ」
痛いほどに、〝理解〟していた。
「私は、邪魔な存在でしかないんだよ」
だって、こんな私を、誰も必要とはしてくれないでしょう?
「だからこそ、私は――」
熱く、激烈で、けれど、どこまでも清廉で純粋過ぎる彼女の想いが、ど、と津波のように流れ込んできた。それに飲み込まれた郁斗は、絶句する。何も言えない。何も、言えなかった。
星歌が動き出す。ざ、と土を蹴り上げて、《未来》の忘却者へと迫った。
不審げに星歌を警戒していた《未来》の忘却者が、動き出した星歌に驚愕しながらも身構える。薄らと、《未来》の忘却者が纏う気配が変貌した。忘却の力の発動をしようとしているのがわかった。
忘却者との戦いに慣れていない星歌は、郁斗と繋がっているおかげで《未来》の忘却者が何をしようとしているのか理解したようだった。
それでも、星歌は走る足を止めない。
むしろ、加速する。
ただひたすら真っ直ぐに、《未来》の忘却者へと突き進んだ。
――何をしてるんだ!
生死の言葉も届かず、――聞こうともせず、星歌はダウンジャケットのポケットの中に無造作に手を突っ込む。その中には、折りたたみ式の一振りのナイフが入っていた。その行動の意味と、星歌の思考が、郁斗の意識の中に滑り込んでくる。
星歌は、《未来》の忘却者に仇を討つ覚悟を抱いていた。
そこには殺意はない。
捕まえる意識が、はっきりと伝わってくる。
殺さずに捕まえる――そんな甘い考えが、郁斗の思考に流れ込んでくる。そんな甘い考えでは自分の命を落とす。それなのに、彼女はそれがわからない。
星歌の視界では、《未来》の忘却者が《未来》の力を発動させようとしている様子を見せている。しかし上手くいかないのか、それとも別の要因があるのか、《未来》は未だ展開されていなかった。
星歌と繋がっている郁斗の視界では、星歌が《未来》の忘却者に向かって、ナイフを突き付けている瞬間だった。
姿勢こそ殺す意志を見せているが、それは虚勢に過ぎない。脅しで捕まえられるほど、《未来》の忘却者は弱くない。
《未来》の忘却者の力は、未だ発動していない。
戦えば、勝つのは恐らく《未来》の忘却者だ。戦いに慣れていない星歌は、負ける。それはそれでいいかもしれない。彼女が負ければ、自分が捕まえればいいだけのことだ。体に纏わりつく犬たちと風を無視して、郁斗は静かに成り行きを見守る。
見守る視界の中で、星歌が振りかざしたナイフが《未来》の忘却者へと振り下ろされる。しかし、その刹那、《未来》の忘却者の力が動き出す。
突風が星歌にぶつかってきたのだ。
その衝撃が郁斗にも伝わる。まるで鈍器で全身を殴られたような、凄絶な痛みが体を走り抜けた。
星歌の手からナイフから零れ落ちる。それでも星歌は諦めなかった。痛みに耐えながら、必死に《未来》の忘却者へと手を伸ばした。
「何……!?」
それでも立ち向かう星歌の姿に、《未来》の忘却者は驚愕し、戸惑うように立ち竦む。
伸ばされた手のひら。その指先が、微かに、《未来》の忘却者へと触れた。
凜、と誰かの気配が、郁斗の意識の中へと潜り込んでくる。心の奥底まで浸透し、深く深く繋がり合った。
荒れ狂っていた風が、不意に静止する。
郁斗を噛んでいた犬も、きょとん、とそのままの姿で固まる。
今、《未来》の忘却者と、星歌と、郁斗が、――三人が繋がった。
驚愕に絶句する気配が、意識の中で揺らぐ。おそらく《未来》の忘却者のものだろう。動揺しているのがよくわかった。
「何をした!」
不可思議な感覚に《未来》の忘却者がそれを振り払おうとしているのか、身を捩りながら怒声を飛ばす。
「別に。ただ繋がっただけだよ」
けろり、と何ともないように、星歌が答えた。
けれど、内心では、先ほどの風の衝撃の恐怖に心臓が大きく弾んでいるのがわかる。平然としているように見せてはいるが、気持ちには余裕などないことなど、郁斗には伝わっていた。
この星歌の虚勢は、何故か《未来》の忘却者には流通していないようだった。そして、その逆に、《未来》の忘却者の動揺は手に取るようにわかるが、その思考も、意識も、こちらには流れてこない。《未来》の忘却者が、郁斗と星歌を憎んでいるせいだろうか。無意識にも、無自覚に心の扉を固く閉ざして、こちらには開けようとしないのかもしれない。
――そんなことは、どうでもいいけれど。
郁斗は起き上がる。犬たちが慌てて飛びのき、そのまま逃げるようにどこかへと去ってしまった。郁斗はそれを横目に、走り出す。
星歌を通して映し出される視界には、まだ《未来》の忘却者が戸惑い、狼狽している様子が映し出されていた。
郁斗は走った。
星歌から流される世界を、見つめながら。
「今、私とあんたは繋がった」
星歌が、言う。
「繋がった今、私とあんたは一心同体。その意味、わかる?」
疑念に、けれど、その問いに導き出された答えを見出されたのだろう、《未来》の忘却者の顔が苦渋に歪んだ。
「お前……っ!」
星歌はゆっくりと歩き、弾き飛ばされたナイフを手に取る。くる、と、その切っ先を《未来》の忘却者ではなく、自分の首元へと突き付けた。その尖鋭が、星歌の柔らかな首元に僅かに沈む。
ちく、とした痛みを、郁斗は感じた。
《未来》の忘却者もその痛みが首元に走ったのだろう。《未来》の忘却者は、手のひらをそ、と首元に当てた。郁斗の手にも伝わる、ぬる、とした微かな感触。《未来》の忘却者はその手のひらを見て、眼を見開く。
恐らく、その手のひらには、血痕が付着したのだろう。
「わかった? 今の私と、あんたは文字通り、一心同体。心も体も繋がって、共有し合っている。私が傷つけば、あんたも傷つく。逆にあんたが傷つけば、私も傷つくんだ」
追い詰めていく仇敵に、喜びを隠せずに興奮する星歌の感覚が、郁斗も同じように味わう。けれど、
――あいつは、僕が繋がっていること忘れているんじゃないだろうな!?
星歌が傷つけば、繋がっている《未来》の忘却者が傷つく。同時に、《未来》の忘却者よりも先に繋がっていた郁斗にも傷が刻まれるのだ。
形勢逆転だろうが、逆転どころか最悪なところへと転がり落ちていく可能性だってある。
巻き込まれるのは、ごめんだった。
――おい! 聞こえてるんだろう!
呼びかけるが、答えはない。
「どうするつもり?」
《未来》の忘却者が、問う。
星歌を通して窺える彼女は、窮地に立たされても、その燃え上がる憎悪は決して鎮まることもなく、さらに煽られたかのように暗く、それでも濃密な闇の翳が、その双眸に映し出されていた。
「さて、どうするかな?」
飄々と答える星歌は、にやり、と笑う。尖鋭がさらに深く押し込まれた。
先ほどのちく、とした痛みは、鋭い痛みに変わる。
「まぁ、どうするも何も、私はここで死ぬつもりだよ」
「死ぬ……?」
「そう。本当は捕まえたかった。捕まえて、皆の仇を討ちたかった。でも、それは無理そうだから。だから、私を殺して、あんたを道連れにする。あんたは皆の仇なの。その仇を私が討たなくて、どうするの」
「はは、面白いことを言うわね」
「どういうこと?」
「あんたが言う皆は確かに私が殺したわ。何でだと思う?」
ざざざ、と山を駆け昇っていく郁斗の耳に、耳障りな嘲笑が耳朶に木霊する。
「あんたを殺すのに、他の奴らが邪魔だったからだよ」
さ、と心の奥が、この真冬の空気のようにしん、と冷えた。この感情は郁斗のものではない。星歌のものだ。
「あんたがいたから、あんたの大事な仲間は殺されたんだよ。この私に!」
私の、せいで?




