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二章―10




 思わず柔らかな首根っこをくわえ、陸へと引き上げた。沈みかけた小さな体はぐっしょりと濡れ、哀れさを誘うほどのみすぼらしさを晒している。ぷるぷるとその小さな身を震わせて水を飛ばすが、それでもぺちゃりとした毛は、ふわふわだったであろう姿へは戻らなかった。

「寒い、寒い。冷たいし」

 くんくん、と鼻を鳴らして、子犬となった星歌は身震いをしている。

 郁斗はその小さな存在を、見下ろした。

 確かに、彼女は星歌だ。

 何故、彼女が犬の姿に?

 どうやって?

 何をした?

 彼女の能力は化ける力を――と、思い至って、ようやく納得した。

「《繋がり》の力か」

 今、星歌と郁斗は繋がっている。

 今の自分と星歌はまさに一心同体。

 この水の中で溺れたような感覚も星歌を通して、自分にも伝わった。

 それと同じように、郁斗の化ける能力も、彼女にも備わった。ということなのだろう。だから、人間の姿から子犬へと変化できた。彼女の《繋がり》の力は他人だけではなく、彼女自身にも影響を及ぼすのだろう。能力の同調、だ。これが《繋がり》の忘却者の力。おかげで、獰猛な牙たちから無事に逃れることができ、郁斗の元へと走ったのだろう。そして、突っ込んで、この状況だ。

「……とりあえず、大丈夫?」

 子犬はじろ、と自分よりも遥かに大きい獣に向かって、小さく吠える。

「とりあえずは、ね」

 皮肉たっぷり、厭味ったらしく。

「それで? これって、何?」

「これ、がどれを指してるのかわからないんだけど」

「今の私の状況と、今ここで起きている状況」

「……別に言葉にしなくてもわかるだろ? 僕たちは《繋がって》いるんだから。まぁ、あえて口で説明すると……」

 ふわり、と風が小さく唸った。風が不気味に渦巻くのを、毛皮越しに感じる。

 それを星歌も敏感に察したのだろう、濡れそぼった体のまま郁斗へと近寄った。

「あんたは今、僕と同じ変化の力を持ち、それで子犬の姿で震えてる」

 震えてるは余計だよ、と拗ねた声音が傍から聞こえる。

「それと、今の状況は、《未来》の忘却者によるものだよ」


   《未来》の忘却者……!


 星歌の驚愕の声が、郁斗の内に小さく反響した。

「え、じゃあ、本当に、あの犬も、風も、全部《未来》の忘却者が?」

「そう。《未来》の忘却者は、自身の都合がいい未来へと導ける力がある。今のこの状況もあんたを殺すために展開されているんだ。まぁ、体験しての通り《協会》内でもとびきり厄介な忘却者だよ」

「……厄介」

「それと、僕たちの命を狙っている敵、でもある」

 ぴし、と傍らで震えていた体が固まる。固唾を呑んで、さきほどまでの威勢の良さがみるみるうちに沈んでいった。

「私たちを、殺す……」


    それは、何で?


 ――さぁ、それはわからない。ただ酷く憎まれているのは確かだよ。

 心の中で言葉を交わす。彼女は不安に飲み込まれてしまっているのだろう、何だかこちらまで胸奥がひんやりと冷えていくのがわかる。

「さっさと逃げろ。足手まといだ」

 ぎろ、と足下にうずくまる小さな子犬を見下ろした。

 星歌は恐怖からか、寒さからか、一つ身震いをする。


    でも、


 ――いいから。

 まだ迷う思いがあるせいか、星歌は郁斗と野犬たちを交互に見比べた。ひしひしと感じる。星歌は郁斗だけをここに置いていくことに、罪悪感があることを。そして、初めて身を置く戦場にもう逃げ出したいということを。

「行って!!」

 怒鳴り声が咆哮になる。びりびりと空気を震わせた。

 星歌はちら、と郁斗を一瞥して、子犬の姿のままここから去って行った。その後を追おうと野犬たちが動き出す。

「待て。お前たちの相手は、この僕だよ」

 どすん、とわざと地を大きく踏み鳴らした。野犬たちはびくり、と逃げ腰気味になるが、低く唸り続ける。

「来い」

 その言葉の挑発を聞き届けたかのように、野犬たちは動き出す。脚を大きく蹴り上げ、熊となった郁斗へと牙を向けた。

 躍りかかってきた数頭を郁斗は前脚で殴りつける。鋭い爪が生えた大きな手のひらに叩き落とされた犬たちは小さな悲鳴を上げながらも、よろめく体を必死に起こした。

 そして、また後ろにいた犬たちが飛びかかり、足元に滑り込みか齧りつこうとする。そのたびに郁斗は犬たちを薙ぎ払った。

 しかし、犬たちはしつこく立ち上がり、果敢にも、無謀にも郁斗へと立ち向かう。

 ――埒が明かない。いっそ、殺すべきか。

 再び犬たちは躍りかかった。郁斗は犬を叩き落とそうと、太い手を振り上げた。

 けれど、

 一陣の風が、郁斗に衝突する。

「な!?」

 ふわり、と足下をすくわれる感覚と共に、ぐらり、と世界が傾ぎ、どすん、と背中に痛みと衝撃が突き抜けた。

 仰向けに倒れた郁斗に、ここぞとばかりに犬たちが群がる。

 首元に噛みつき、四肢に齧りつき、身動きが取れないように拘束した。

 ――《未来》の忘却者の仕業か。

 風を吹かせ、体の自由を奪い、犬たちに襲わせる。

 ずき、とした痛みが首筋から感じた。僅かに息苦しくなる。

 ――風を操り、犬を操って……地味な攻撃の連続だな。

 地味だけれど、確実だった。

 心の中で悪態を吐き、郁斗は纏わりつく犬たちを振り払おうとする。けれど、犬たちも必死なのだろう。どんなに郁斗が暴れても離れようとはしなかった。それどころか、ますます力を強めてくる。

 せめてもの救いは、分厚い毛におおわれた首元が太いせいで、犬の顎では容易に殺しきれないことだった。それに体も熊に比べれば犬は軽い。この拘束もすぐに解けるはずだ。

 しかし、それでも簡単に振りほどけないのは、体に圧し掛かる風のせいだった。

 ずっしりと、眼には見えない重しが郁斗の全身に乗っかっているようだった。押し潰されるほどではないけれど、それでも身動きはできない。

 ――これがなければ。

 体全体に押しかかる重み。

 首を小さな力で締め上げる牙。

 僅かだけれど、苦しくなってきた。

 ――くそ。

 着実に、じわじわと郁斗を追い詰める。


    見つけた!


 薄暗くなる意識の中で、声が響き渡った。

 誰だ? という疑問と共に、答えはすでに浮上している。

 星歌だ。

 ――そうだった。僕はまだ、あいつと繋がっている……。

 ならば、この息苦しさも、次第に遠くなりつつある意識も、彼女に伝わっていることだろう。巻き込んでしまった、と、他人事のように思った。

 けれど、繋がる先からはそんな郁斗の思いに気付かない。何故か、興奮しているのが伝わった。

 ――そう言えば、見つけたって言っていた。

 何のことだろう、と郁斗は星歌の視界を自分の視覚に繋げる。ぼんやりとした世界が大きくぶれて、ぴた、と焦点があった。

 息を、呑む。

 目の前には――星歌の目の前には、《未来》の忘却者がいた。




 郁斗は犬たちに噛みつかれたまま、体を強張らせる。これは、自分の緊張感だろうか、それとも星歌のものだろうか。よくわからない。

 ただ、星歌と共通する思いは、

〝見つけた〟。

 そして、

〝危険〟。

 その二つが、複雑に絡み合う。

 確か、星歌は〝見つけた〟と言っていた。

 何を探していた――その疑問は、今、眼前にいる存在だ。

 星歌は《未来》の忘却者を探していたのだ。

 何故?

 どうして?

 郁斗は全ての意識を星歌に集中させる。繋がりあっている星歌と自分の距離が、ぐん、と近くなった感覚と共に、どこか溶けて混ざり合うような不思議な心地を覚えた。ぼんやりとその感覚に浸っていると、彼女の想いが伝わってくる。


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