二章―7
それっきり、彼女は黙々と日記を読み漁る。それは昨日のことだけではなく、過去を、もう失くしてしまった昔をも、感慨深げに――もしくは小説を読むかのように淡々と頭に叩き込んでいた。
「これねー……」
「……」
「日記を書いて、次の日、読むといいよってアドバイスをくれたのはね……」
誰に言っているのか。
それとも確認している己自身に言っているのか。
星歌は気抜けた声色で、ただ話している。
「《夢》の忘却者なんだ。日記に書いてある。このアドバイスをくれたおかげで私は肝心なことは絶対に忘れることはなくなったの。人間としてマシな生活をさせてもらってる。でも、このアドバイスをくれた人のことを、私は忘れてるんだよね……。女だったか、男だったか。若い人なのか、ちょっと年配の人なのか、とか」
「……」
「ね、あんたは知ってる?」
期待を込めた問いに、郁斗は沈黙で答えた。目は新聞に落としたまま。
「……」
「……」
互いが閉口し、どこか息苦しい静寂が朝の爽やかな空気を鬱屈とさせた。
「おはよーう」
タイミングが良いのか、それとも悪いのか、間延びした声が静寂を打ち破る。
「……どした? いっくん? ホッシー?」
二人の間に漂う空気に珍しく機敏に感じ取った幸明が、気まずげに首を傾げた。
「何、この険悪な雰囲気。朝の美味しい空気が不味くなる。子供は風の子。外で遊んできなさい!」
悪い空気を追い払うかのように幸明に叩き出された郁斗と星歌は、道に人っ子一人見当たらないような早朝の時間に、二人は並んで歩く。
町に行く気もなく、そもそもこの時間帯に町に行っても店は開いておらず、時間を潰す娯楽もない。ならば、と向かった先が田舎町を囲むようにある山だった。ここならば人は来ないし、堂々と常人とは違う自分たちのことを話題にできるからだった。
近くにはこの真冬の寒さに水面が凍った小川がある。踏み締めれば足下で霜が割れた。体の芯を凍らせるような冷気が風と共に二人を包んでは、通り過ぎていく。それでもこの自然に淘汰された澄んだ空気は、とても心地良かった。
目の前には不貞腐れた面持ちの星歌が、近くの小岩に座っている。
ダウンジャケットに身を包み、マフラーと、ニット帽でこの寒さに対抗しているようだが、それでも寒さは体内へと侵食しているのか小さく震えていた。
「先生。一ついいですか」
はい、とご丁寧に挙手をする星歌。郁斗は沈黙と、視線でその先を促す。
「あんたの恰好、すごい寒いんですけど」
郁斗の恰好は薄手のジャケットに、長袖Tシャツ、ジーンズの姿。確かに常識で考えれば真冬の山中、この風姿は寒々しいものだろう。かといって、自分は特に寒くはない。暑くもない。ただ動きやすいからこの恰好なだけだ。
その理由を星歌に話すつもりもなく、郁斗は黙殺する。
「先生。また無視ですか」
あからさまに顔をしかめ睨みつける星歌の、刺々しい言葉をさらに黙殺した。
「……」
「……」
「……」
「……先生、何か喋ったらいかがですか?」
「なら、その口調を止めてほしいんだけど。誰が先生なの」
「先生がダメなら、先輩で」
「却下」
「マイ・パートナー?」
「それ以上言うと、いくらあんたが女でも殴るよ」
「殴ってみせろよ! ほら!」
昨日から思っていたことだが、星歌を怒らせると、彼女はどうやら言葉は乱暴になるらしい。同時にその態度も荒々しいものになるらしかった。
「一つ言っておくよ。僕はあんたのパートナーになったつもりはさらさらない。幸さんに言われて、仕方なく、だ。形だけだよ」
「……」
「それで、これからのことを話しておくよ」
郁斗はちら、と星歌と一瞬だけ視線を合わせて、逸らす。自分の行為が気に障ったのか、星歌の怒気がますます濃くなるのがわかった。
「《未来》の忘却者は、《知識》の忘却者が一応は探してくれている。だけど、《未来》の忘却者の狙いは僕とあんただ。狙いが二人一緒にいれば、向こうから仕掛けてくる可能性が多い。《未来》の忘却者と出くわした場合、あんたはさっさと逃げろ。僕が戦い、捕まえる。以上」
簡潔かつ、端的に、そう説明すれば、星歌は静かに小岩から腰を上げる。さくさく、と霜を踏み鳴らしながら、自分に近づいてきた。途端、ぐい、とシャツの襟を締めあげられ、無理矢理視線をかち合わせる。
真っ直ぐで強い、怒りを湛えた彼女の眼に、無表情な自分が映り込む。
「つまり、私は囮にするつもり?」
「……よくわかってるね」
「……」
「さっき言った通り、あんたは何もしなくていい。ただ逃げ回ってればいいんだよ」
郁斗の言葉にかちん、ときたのだろう。怒りに目の色を変えた星歌が、ぎり、と奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「ふざけるな!!」
ビリ、と怒声が、鼓膜を痛いほどに震わせる。
「私は皆の仇を討つ! そのことをあんたにも言ったはずだ!」
「僕はそれを了承した覚えはないよ」
「その様子じゃあそうだろうな。だけど、私が私であるために仇を討たなきゃいけないんだ!」
――私が私であるために?
何を言っているのだろう。
他人の死を利用しなくても、彼女は彼女であるくせに。
自分自身を、しっかりとその身に持っているくせに。
掴み上げられた首元がにわかに苦しくなった。彼女の怒りの度合いがさらに増しているらしく、締め上げる手の加減を忘れている。
ぐ、と郁斗は自身の首を締め上げている星歌の手を掴んだ。ほっそりとして、滑らかな、けれど、この寒さに冷え切った手の感触。けれど、その手から彼女の怒りが郁斗の中へと侵食したのか、郁斗の中に沸々とした苛立ちが募っていった。
「仇を討つ、か。あんたは忘却者について何も知らない。対抗する力もない。それなのに、あんたは戦えるとでも言うのか? 勝てるとでも言うのか?」
「なら、私の強さを見せてやる!」
彼女の怒気が、敵意へと一変する。締め上げていた彼女の手のひらが、郁斗の体を突き飛ばした。後方へと大きく傾ぐ郁斗の体。視界がぐるり、と変わるその世界の中、星歌の姿を捉えた。
込み上がる自身の中の燃え上がる怒りに顔を歪ませて、制御できない感情をその双眸を滲ませて、自身を突き動かす激情に身震いして。それでも脚はしっかりと地面に立っていた。
傾ぐ体をそのままに、郁斗は彼女から視線を外す。
そして、くるり、と本当の意味での世界が変わった。
「え……」
感情が、激情が、憤りが途絶え、その代わりに信じられないものでも見たような呆けた声が郁斗の聴覚に届く。
郁斗は倒れ込む体を捻り、大きくその〝翼〟をはためかせた。ばさり、と空気を叩き、翼を羽ばたかせ空を舞う。そして、聳え立つ樹の、太い枝へとその足を下ろした。星歌の顔をよく見るために顔を横に向いて、眼下にいる彼女を見つめる。一声、鳴いてみせた。鳥特有の単調で、けれど、猛禽類ならではの高圧的な響きが山の空気を震わせた。
「鳥……に、なった?」
「イヌワシ、って言うんだよ」
呆然と仰視する星歌に、郁斗はその翼を広げた姿を見せつける。翼長は約二メートル。小柄で華奢な星歌の身長を軽く超える大きさになる。郁斗自身ではわからないが、この姿を見せると大抵の人間はこの様に圧巻するらしい。星歌もまたそうであるらしく、イヌワシの姿に目を奪われ、色をなしていた二つの眼には小さな恐怖を浮かばせていた。
「これが、僕の忘却の力」
「……鳥になることが?」
「違う。鳥だけじゃない。僕の変身の能力は、老人にも、幼い子供にも、男だろうと、女だろうと変化できる。この姿を見たとおり、物以外だったら何にでもなれるんだよ。鳥だけじゃなくて、犬だって、ネズミだって、それこそ虫にもね」
「じゃあ、日記に書いてあったのは本当だったんだ」
「日記?」
「そう。私の日記に、二日前――あんたと出会った日。男の子が猫になったって書いてあった。自分で書いたことなのに、半信半疑だったよ。実際、この目で見るまでは」
「感想を聞かせてもらいたいね」
「……びっくりしたー」
「随分と、単純な感想だね」
「それ以外に何かあるの?」
「別に。何もないさ」
星歌は先ほどの怒りも、忘却の能力を前にしての驚愕も、すっかり消え去ってしまったらしい。眉を顰めて、しげしげとこちらを観察するような視線を投げていた。
「あんたは、本当に何にでもなれるのね」
「まぁね」
「前に言ってたよね? 忘却者は、空魔に大切なものを食われて、その欠けてしまった部分を埋める仮初のモノが力になるって」
「そうだね」
「あんたは、空魔に、何を食われたの?」
星歌は首を傾げる。
郁斗はその純粋な疑問を浮かべる眼を、じ、と見つめた。
「あんたに教える必要はない」
ばさ、と長大な翼を大きく羽ばたかせる。ぱ、と枝から足を剥がして、星歌へと突進した。
「へ!?」
突然の攻撃に驚いた星歌は、咄嗟にその場に伏せる。鋭い鉤爪が空を切った。
「どうした? あんたの強さを見せてくれるんじゃなかったのか?」
一声、甲高く鳴く。嘲笑すれば、彼女の眼に再び怒りが浮かび上がった。
「当然! そんなので私が怯むと思わないでよ」
に、と星歌は勝気に笑う。
「ふーん。じゃあ、見せてよ」
郁斗その場で旋回した。ひゅう、と風の流れに乗りつつ、星歌に狙いを定める。
「来いよ」
果敢に、威勢よく、星歌は郁斗を挑発した。じり、とこちらの行動を見極めようと、身構えている。それに郁斗は小さくせせら笑った。
「死んでも知らないよ」
殺すつもりはないけれど、限りなく死に近い体験を味あわせれば、忘却者に恐怖を抱き、「パートナー」も解消になるはずだ。




