二章-4
「足手まといを相棒にする気はさらさらない」
そう、以前のパートナーも、弱かったらから死んでしまった。相棒の死後は大変だったのを、今でも覚えている。相棒の友人やら、上司やらが〝死〟の痛みに嗚咽を漏らし、慟哭し、郁斗はそんな感情など一切ないというのに悲しみの喧騒に振り回された。あんな目に遭うのは二度とごめんだ、とつくづく思った。
だからこそ、弱い奴は相棒になんかしないし、仲間であると認めない。
郁斗は星歌のどこまでも毅然とした直視を受け止め、見つめ返した。その思いを、覚悟を、彼女にわからせるために。
「なら、私が強くなれば文句はないよね?」
――わかるどころか、さらに彼女の意欲を扇動してしまった。
「はぁ!?」
思わぬ応えに、素っ頓狂な声が自分の口から飛び出た。
「私が強くなればあんたの足手まといにはならないし、すごい心強くなるしね。うん、いいことばかりじゃん」
ちょっと待て、と郁斗の気ばかりが焦る。焦り、そして、狼狽している自分に気づいて、何とか落ち着こうとした。
「待って、待て待て。強くなるなんて、無理だから」
「そんなのわかんないじゃん。やってみなきゃ」
「すぐに強くなるなんてできないから。逆に無茶をして、怪我をするだけだよ」
「……何で、あんたが決めつけるの。これは私の問題であって、あんたには関係のないことだよ」
問答無用とばかりの口調だった。それはもうこちらが何を言っても聞かない、と物語っていた。ならば、と郁斗は口を開く。
「すぐ、忘れるくせに?」
さ、と星歌の顔から表情が消え去った。目を軽く見開いて、絶句する口元は小さく開いて。言動が静止したのを見とめて、郁斗は放心する星歌を置き去りに再度歩き出した。
背後から追ってくる気配はなく、何か言葉を投げつけてくる様子もなく、かといって子供のように喚き散らすこともなく、ただただ静けさだけが郁斗の後をつけてくる。
彼女が強くなるなんて、無理なことだった。
その強い意志にしろ。
その固い覚悟にしろ。
星歌の〝他者の忘却〟という後遺症の前では、とても無力で、儚く散ってしまうものだ。
それを一番理解しているのは彼女だ。
それを一番実感しているのも彼女だ。
郁斗がどうこう言おうと、彼女自身が誰よりも知っている。
だからこそ、無理なのだ。
郁斗はそう確信している。確信しているからこそ、彼女が郁斗の言葉をなす術もなく受け入れるしかないということも、確然とした未来だった。
刹那、背後から流れる風の中に、僅かな〝戦意〟を感じ取る。
「――――っ!」
敵、という言葉が焦燥と共に浮かび上がった。
背中に切迫する敵の気配。郁斗はそれを僅差でかわし、振り向き様、腰を軸に左脚を大きく背後へと切った。そして、目に飛び込んできたその姿に、脚は敵を蹴りつける寸前でぴたりと止める。
「どういう、つもり?」
自分の眼が剣呑に細められ、声も幾段か低くなった。睥睨する郁斗の前に、突き付けられた脚を首元に、〝戦意〟を持つ彼女は――星歌は、こちらの皮膚を泡立たせるほどの、敵意が籠った冷たい声色で、言い放つ。
「ふざけんじゃねぇよ」
彼女は、人に殴りかかろうとしていたであろう姿勢のまま、完全にキレていた。郁斗は自身の脚を下ろす。
さきほどの〝戦意〟は星歌のものだ。そして、その彼女に、郁斗は殴られかかった。背後から、容赦なく、戦意を隠しもせずに。
「……」
じり、と脚が後退した。後退して、しまった。
「ふざけんじゃねぇよ」
星歌はもう一度、郁斗に静かな怒声を浴びせる。
「確かに私は忘れるよ。たぶん、このことさえ私は忘れるよ」
ただ静かに、ただ冷ややかに、彼女は郁斗を前にして、言葉を継げた。
「だからこそ、私は、私の思いを、覚悟を、大切にしたい。それを忘れて、さようなら、っていうことをしたくない」
す、と星歌の眼が、郁斗を映す。
「忘れたくない――忘れないよ。私は強くなる。仲間を忘却のせいで全て忘れました、なんて、情けないことは言いたくないから」
その真っ直ぐな眼を前にして、逃げ腰になってしまった。あまりにも真っ直ぐすぎる、星歌の眼に圧倒されてしまった。そのことに苦虫を噛み潰したような表情になってしまう。しかし、足下に力を入れて、しっかりとこの場から逃げ出さないように地を踏みしめて、郁斗は堂々と星歌の前に立って見せた。
「無理だ。あんたは絶対に忘れる。何で強くなりたいのかも、今の感情も全部。そんな君が強くなることもない。時間の無駄だ」
「そんなのわかんないじゃない」
「わかる。自分のことは、自分でわかっているはずだよ」
「それこそ、わからない。だって、これは私のことだ。それにあんたも、あんた自身のこと理解しているつもり?」
「当たり前だよ。僕は僕自身のことをよくわかってる」
「へぇ、私を見下せるほど、自分は強いって?」
「それこそ、当たり前だよ」
そう言い切った瞬間、右頬に強く威圧感を覚えた。殴られる、と思い立った瞬間には、右手が勝手に動く。ぱしん、と手のひらに伝わる衝撃と、熱を持った痛みが広がった。
女にしては鋭く、随分と重い一撃。
胸中、小さな驚きで心臓が早鐘を打つが、それでも彼女の攻撃を防げた。恐らく、彼女は激昂したのだろう。郁斗よりも、自分は劣る、と言い切られたことに。だから、こんな暴挙に出たのだろう。
「どう? これで……」
わかった? と、わからせるつもりだった。でも、予想外な衝撃が、左頬に食らう。固く、重い衝撃と打撃音に次いで、響く熱い鈍痛。大きく揺らいだ視界に、星歌が怒りの形相で左腕を振り切った姿が映った。
右からの殴打を防いだ隙を見て、思い切り星歌の左の拳が郁斗の頬に叩きつけられた。
よろめいたが、すぐに踏み止まる。倒れ込むなどという無様な姿を晒せずにすんだ。
「自分は、強いつもり?」
皮肉気な嘲笑が聞こえる。
「〝自分自身〟もわかんないくせに、いきがってんじゃねぇよ?」
――〝自分自身〟もわかんないくせに?
「未来なんて誰もわからない。その証拠に私は、私より強いと断言したあんたを殴れた。なら、私だって強くなることだってできるはずなんだ」
「…………」
「あんたは諦めてるだけじゃないか。そんな奴が偉そうにしてんじゃないよ」
ぎり、と音が鳴るほどに奥歯を強く強く噛みしめていた。ありったけの怒りを込めて、星歌を鋭く睨みつける。
「お前に、何がわかる!!」
吠えると同時に、体が無意識に動く。相手が女だということも忘れて、郁斗は右手を握りしめて、拳を星歌へと向かって振りかざした。躊躇いもなく、その拳を彼女の腹にめり込ませる。柔らかい肉の弾力と、その向こう側にあるであろう固い何かの感触を感じた。感じて、は、と我に返る。
女を渾身の力を込めて殴ってしまった。
しまった、と我に返るのと同時に、怒りで我を忘れた女の鬼のような形相が目に映る。
「てめぇっ!! 腹を思い切り殴りやがって、女の子の体を何だと思ってんだ!!」
腹を強く殴打されたせいだろう。星歌は息も絶え絶えに、それでも勇ましい文句と共に、また殴られた。
本当にこいつは女か……!?
少なくとも、自分の周囲にはこんな男のような女はいない。ましてや罵詈雑言を口にしながら、暴力を振るう女など。男勝り、じゃじゃ馬、お転婆娘、なんて言う言葉はこの女にぴったりだ。
「あが……っ!」
そんなことを心の端で思っている間隙に、顎に一発拳をもらった。
「言葉だけじゃねぇか! てめぇも!」
ぶちり、と自分の頭の奥で、何かがキレる音が空しくこだまする。
「あんたこそ言葉だけだろう! すぐに忘れるくせに!」
「あ、また言った! 忘れないって言ってるだろ!! 何回言わせる気!? もしかしてさっき言ったことも忘れてんのか、てめぇ!! 人のこと言える立場じゃねぇじゃねぇか!」
「覚えてるに決まってるだろう!? ちゃんと自分のこと理解しろって言ってるんだ!」
「理解してる! 理解していないのはあんたの方でしょ!!」
「僕はあんたより理解してるし、どこまでが限界かも理解している! あんたは分からず屋な子供か!!」
「子供じゃありません! 体は子供だけど、心はもう大人です!」
「どこかだよ? 人の言うことを聞かない奴が!」
「そこにでかい壁があったら、ぶち破りたくなるのが私なんですー!」
「言い草がまるっきり子供だな、本当に!」
「何だって!?」
それから、正気な自分が見たら馬鹿かこいつら、と蔑視してしまうほどの、本当に馬鹿げた口論を続けた。何度も同じような内容の押し問答を繰り返し、繰り返し。互いに互いを罵り、ヒートアップ。
埒が明かない、と声を張り上げる自分とはまた別の、冷静な自分が嘆息した時だった。
「はい、ストーッップ!!」
二人して付き合わせていた顔が、誰かの手によって引き離される。
「何してんのー? いっくん? オレを迎えに来てくれるんじゃなかったの?」
ぐい、と襟首が軽く締め上げられた。少しの息苦しさに、郁斗は自分を絞めつける手の主を見上げる。
「幸さん」
「やっほー」
何とも面倒くさそうで、寝ぼけた後のような締まりのない顔で、彼はだるそうに返した。
「もー、びっくりだったよー。つーか、恥ずかしかったって言うか。あんな道端で若い男女が言い争ってるっていうから軽い気持ちで見に行ったらさー、知っている顔がくだらないことを口走っててさー、女の子相手に手を上げてるからさー。もう、何て言うか、周りの人の視線が痛いっての? もうオレの繊細な心がズタズタでさー。どうしてくれんの? これ? 高くつくよー?」
「迷惑料として、あんみつくらいは奢りますよ」
「よっしゃー! って、オレの繊細な心はあんみつ一杯と同等なの?」
「違うんですか?」
「うわー。ズタズタにされた上に、さらに踏みにじられちゃったよー」
「はいはい」
「ひどいと思わない? えーと、あなたはどちら様?」
郁斗の隣で黙々とあんみつを頬張っていた星歌は「ふぉい?」と、ようやくこちらに意識を移す。
「そうですねー。ここのあんみつ、美味しいですねー」
ここにも一人、マイペースな人間がいることに、郁斗は吐き出したい不満をも飲み込むように、茶を啜った。




