人の保守性と幽霊の裁判
僕の住む国はとっても小さい。太陽、草花、リンゴの木。平和な場所で、人々は穏やかに過ごしている。可愛い女性、子供たち。曇りのない優しそうな笑顔が、なんだかとっても素敵だぜ。幸せそうな母親が、愛おしそうに子供を眺める、そんな光景を肴にして、胸いっぱいに空気を吸い込めば、生きてる理由なんてどうでも良くなるほどの幸福感。
だけど、それでも毎日、事件は起こる。もちろん、裁判が必要な事件も。法律、社会通念、情報酌量、それらに権力や様々な団体や個人の利害関係が結び付き、その判決は中々に難しい。
僕はその小さな国で、裁判官をやっている。様々な要因が関るのだけど、その判決の根本的な原理だけはシンプルだ。できるだけ、社会全体に良い影響を与えるように判決を下す。ただ、それだけ。
もっとも、その“良い影響”というのが何処の誰にとってのどういう基準での“良い影響”なのかが分からないから、とても厄介なんだけど。
法律なんてのはただの文章で、その文章の解釈はその読む人によって異なる。だから僕らのように、それを決定する職業が必要なんだ。人間は法律を自分達にとって都合良く解釈するケースがほとんどで、だから異なった解釈のそれらの何処かに線を引いてやらなくちゃ、社会は壊れる、成り立たない。
外国が嫌いな人は、外国人の選挙権なんて絶対に認めようとはしないし、地方の政治家達は、自分達の地方住民の投票権の高さを認めたがる。人権の平等に反するだとか、そういう事はどうでも良い。そういうのが、結論を歪めてしまうって訳。もちろん、そんな結論を認め続ければ、一部の人にとってだけ都合の良い社会が出来上がってしまう。そして、その他の人にとっては不幸な社会。全体を見渡せば、住み難い社会の出来上がり。もちろん、一部の人達は社会全体の事なんて考えちゃいない。自分達の利益をただ目指す。
だから、判決を自分達の都合の良い方に解釈させようとする圧力なんかもあって、僕にもそれはかかってくる。だけど、僕はそんなものに屈したりしない。飽くまで、できうる限り平等に。もちろん、僕個人の志向や思想も捨て去ろうと努力もしてる。つまりは、僕は公平な判決を下そうとがんばっているって事だ。
太陽通りの散歩道。葡萄畑が途中にあって、そこでは紫の実達が、気持ち良さそうに光を浴びる。
その片隅の日陰な場所。無数のハエが飛び回って、腐った何かを探している。それを醜いと思ってしまうのは僕の感性。僕はそういう感じ方をする生き物。でも、その僕の感覚が正しいなんて一体誰に言えるのだろう?僕は、僕の立場は、そういう疑問が必要なもの。己の基準なんて否定する。僕の好みなんて、笑って蹴飛ばして捨ててやれ。
その“怒り”は正しいか? 正しいと思えるそれにこそ、むしろ疑問が必要だ。無私を目指して、今日も僕は頭を抱える。苦悩する。そういうのが必要な職業。そういうのがとっても大事。
ある日ある時の控訴審。僕は先の裁判での、自分の判決に疑問を持った。それはとても気持ちの良い朝で、なんだか良い夢を見たのを覚えている。頭は元気によく回り、だから自分の結論の怪しい点にも直ぐ気が付いた。そしてその時の判決は無罪とし、僕は次の裁判に臨んだのだった。
僕の目指す所は無私だから、自分の判決に拘る事もないって訳。プライド重視で自分の誤りを認めない、そんなエゴは最も恥ずべきものだから。夏目漱石の「こころ」じゃないが、もしもそんな自分を見つけたなら、僕はそれにこそ苦しむのだ。
次の裁判も控訴審。その前の裁判も、僕が担当したものだった。休憩を進められたけど、僕はそれを断って、前の裁判の記録を読み直してみた。自分の判断に何か誤りはないか、公平さが欠如していないか。
やがて裁判が始まる。この裁判での結論は、変えないでいこうと僕は考えていた。何処にも誤った点はないように思える。順調に裁判は進み、そして僕は決めていた結論を述べようとする。第一審と同じ判決。しかし、そこでふと疑問を感じたのだった。
あれ? 何かを見落としていないか?
記録をもう一度洗い直す。すると、なんだか違和感が。僕はそれについて考えた。そしてどうにも矛盾する一点に。
ああ、これはまずい。
そう思った僕は、前の結論を否定した。危ない危ない、そう思う。後もう少しで、誤った結論に至るところだった。一人の人間の人生を狂わしてしまう。
それから冷静になってふと思った。朝は簡単に気付けた誤りに、どうして昼前は気付けなかったのだろう? その疑問は不安に変わる。変わった不安は加速する。妙な焦燥感を覚えた僕は、その日の裁判が終わった後で、今までの自分の裁判の記録を、統計的にまとめてみた。
なんという事だろう?
まとめ終わった僕は愕然とした。注目したのは控訴審。僕がどんな結論を出してきたのかに目を見張る。
なんと、午前の早い、まだ元気な時間帯に出した判決は、前の判決を翻すものが多かったのに対し、昼前に出した結論では、同じ結論に至るものが多かったのだ。
これは、どういう事だろう?
僕はそれに苦悩した。ただの偶然だとも思おうとした。だけど、納得がいかない。僕は自分を保護する為に、自分にとって都合の良い結論を採用しようとしてはいないか?
それから、またまた考えた。自分の心をよく観察。自分がどんな状態で、どう考えて裁判に臨んでいたのかを。
午前の早い時間に比べて、昼前の僕の頭は疲れていた。だから、頭が回らなくて、誤った点に気が付かなかった。きっと、そんな要因もあるにはある。だけど、恐らくはそれだけじゃない。疲れた頭。多分、その部分は同じだろう。問題は、その疲れている時の自分が、自分の考えを変える事を拒否していただろう点だ。
自分のかつて出していた結論を否定して、変える事は中々にエネルギーを消耗する。僕は今までの体験からそれを学んでいた。つまりはそれが人間の保守性だ。人間は自分の労力を低減する為に、今までの自分の考えを保持しようとしてしまう。
そこまで考えが至って、僕は不意に不安を感じた。僕が控訴審において、判決を変えなかった裁判に死罪にしたものがあったからだ。一つだけだったけど、僕は確かにその人に死刑判決を下した。
あれが、その僕の保守性によって、決定されたものだとしたら、どうしよう?
近代刑罰の基本は、更正。だからこそ、死刑というのはかなり特殊な刑罰だ。何故なら、更正すべきその対象がいなくなるのだから。そしてだから、取り返しのつかない刑罰でもある。その判決の重要性は、そんな点にもかかっている。
僕の不安は加速していく。そして、僕はその裁判の記録をもう一度よく見返してみたのだ。
その日の晩だった。
誰かが家を訪ねてきた。コンコンコンとノックの音が。「どなたですか?」と僕が言うと、「急な裁判の仕事です」と声は答える。こんな夜中に裁判があるはずないと、僕はそう考えたのだけど、どうにもなんだか嫌な予感が。
「誰の裁判ですか?」
騙そうとしているのだったら、直ぐにボロが出るだろうと僕がそう尋ねると、その誰かは名を告げた。その名を聞いて僕は驚く。それは、僕が控訴審において死刑を下した男の名だったからだった。こうなると、もうドアを開けない訳にはいかない。僕は恐る恐るドアを開けた。すると、そこにはガイコツが。ランプに暗い火を灯し、陰鬱な困ったような表情に顔が固まったガイコツだ。そのガイコツは開口一番にこう言った。
「どうにもね。あなたが、控訴を希望したようなので、もう一度裁判です。こういうケースは珍しいのですよ」
“あなたが”と、そのガイコツは言った。つまりは、それは“僕が”という事だ。でも僕は、そんな希望を出してなどいなかった。そもそも裁判官の僕は、控訴などしない。それで不思議そうな顔をしていると、
「なになに、そんなに不思議に思う必要はありません。真夜中の裁判は、普通じゃないんだ。逆になる。罪人が裁判官に判決を下すし、だからこうして控訴もできる。良かったじゃ、ありませんか」
そんな事をそのガイコツは言ってきた。
僕は何の事だか分からないようで、それでも何の事だか分かっていた。あの裁判のやり直しができるのなら。
僕は黙って頷くと、外出の準備をして外へと出た。
裁判所に辿り着くと、真っ暗なのに何故か鍵は開いていた。中もやっぱり真っ暗だったけど、それでも僕は抵抗なく道を行けた。いつものように法廷に向かう。そこには先ほどのガイコツと、そして死刑になった例の男が。
例の男は証言台で、僕の事を恨めしそうに見つめていた。証言台。僕は男から何か発言がないかと待ったのだけど、何も動きがないので困っていた。どうにもいつもと勝手が違う。やがて見かねたのか、ガイコツが発言をした。
「真夜中の裁判は、逆だと言ったでしょう? 普通の裁判とは逆です。彼に向かって何かを言うのはあなたの方ですよ」
僕は男をじっと見てみる。よく見ると、なんだか半透明。どうやら彼は、幽霊らしい。それもそのはず、既に死刑は執行された後なのだから。
僕は重たく口を開いた。
「あなたの裁判に関する記録を、もう一度読み返してみました」
そう言っても、男は何も返してはくれなかった。僕は続ける。
「やはり表面上は何も不審な点はないように思える。普通に考えるのなら、あなたが5人を殺した犯人です」
男は微動だにしない。僕はまた続ける。
「しかし、妙なのはその背景です。殺された人の中には製薬会社の人間が含まれている。しかも、薬の健康被害が問題だと噂されている製薬会社の技術者だ。その場に残された遺留品は何も報告されていないが、しかし、却ってそこが怪しいような気がしないでもない」
そこまでを言うと、ガイコツが口を開いた。
「あなたは、一体なぜ、裁判の時は、それを疑わなかったのですか?」
僕は頷くと、こう言った。
「何も圧力がなかったからです。こういった件には、何かしらの圧力が、僕に直接ではなくてもかかるもの。それがなくても、噂にはなるのです。しかし、この時の裁判では全く噂にすらならなかった。それで、僕は真っ当な事件だと思い込んでいた。証拠も揃っている。単純に、この人が犯人だとそう思ってしまっていた」
「なるほど」と、それを聞いてガイコツはそう言った。
「それがあなたの“思い込み”ですか。固定概念」
「そうです」
そう僕が答えると、今度はガイコツはこう訊いた。
「どうでしょう? もし、今なら、あなたはどんな結論を出しますか? この男は無罪だとそう思う?」
僕は首を横に振る。
「分かりません」
そう答える。しかし、その後でこう続けた。
「ですが、少なくとも死刑にはしない」
死刑は、取り返しのつかない刑罰だ。
ガイコツはそれを聞くと、数度頷いた。そして言う。
「それを聞いて、その男も少しは浮かばれたでしょう」
だけど、その言葉に僕は首を横に振った。
「そんな言葉は必要ありません。この裁判は逆だとあなたは言った。そしてならば、判決を受けるのはこの僕のはずだ。その判決はどうなるのでしょう? 誤った判決を下したこの僕の判決は?」
「聞いた通りですよ。その男も少しは浮かばれました」
僕はまた首を横に振る。
「でも、それは僕が自分の為に、自分を護る為に下した判決かもしれません。あなただって、僕の都合の良い解釈によって生まれた存在だと、誰に否定できるのです?本当には、僕は許されてはいけないのかもしれない」
そう僕が言い終えると、いつの間にかガイコツは僕の目の前まできていた。そして、肩に手を置く。
「それでいいではありませんか。あなただって人間なのですから」
そして、その言葉を受けた瞬間、ガイコツは消えた。証言台の男の姿もない。真っ暗闇の法廷には、僕がただ一人残されていた。
自己自省的なテーマと社会問題なテーマを両立させたい、というか、絡ませて混然一体となったなんかを書きたい、と前から思っていたけど、最近になって明確に目標の一つにし始めました。