「愛することはできない」と告げたのに、婚約者は今日も朗らかに笑う
婚約の話が正式に決まった日、十六歳のアレクシス・ノクティスは、ひとつの重大な問題に直面していた。
向かいの少女は、いつも通り機嫌がよさそうだった。淡いローズブラウンの髪を揺らし、紫色の瞳を茶菓子へ向けている。
「これ、前にもいただいたわ。アレクシスの家のお菓子はおいしいのよね」
「……リディア」
「なあに?」
先ほどまで、王都にあるノクティス公爵家の屋敷には両家の当主が揃い、二人の婚約を正式に取り決めていた。
十五歳のリディア・ローゼンハイムは、アレクシスが長く付き合いを続けてきた数少ない相手の一人だ。
婚約そのものに異論はなかった。彼女の人柄は知っているし、見ず知らずの相手と将来を約束するより、ずっと望ましい。
ただし、誤解を招きかねない点がひとつある。
「僕は、君を愛することはできない」
リディアの指が焼き菓子の上で止まった。
気分を害しただろうか。アレクシスは彼女の顔を注意深く見つめる。これから長い時間を共に過ごす相手に、曖昧な期待を抱かせるわけにはいかない。そう判断しての発言だった。
「うーん、それなら恋するところからかしら?」
「…………?」
予想していなかった返答に、思考が止まる。
「うふふ、冗談よ。別に、今まで通りでいいじゃない」
「今まで通り?」
「そう。私たち、ずっと仲良くしてきたでしょう? 婚約したからって、急に違う人になるわけじゃないもの」
リディアは当然のように言って、焼き菓子を口に運んだ。
「婚約と友人関係は、同じではない」
「ええ、知っているわ」
「なら、もう少し真剣に――」
「十分真剣よ。知らない方と結婚するより、アレクシスと一緒になれるなんて安心だもの。私は運がいいと思っているくらい」
あっさり言われ、続く言葉を失った。
「お前、婚約が決まった相手に何を言ってるんだ」
呆れた声がした。
開け放した庭側の扉に、ユリウス・ルベライトが立っている。赤い髪は風に少し乱れ、琥珀色の瞳がアレクシスをじっと見据えていた。
「いつからいた」
「『愛することはできない』のあたりからだな」
要するに、ほぼ全部聞かれていたらしい。
「立ち聞きは感心しない」
「そりゃ悪かった。でも、もうちょっと他に言い方があっただろ」
ルベライト伯爵家の嫡男である彼とは、婚約の話が終わったら三人で過ごす約束をしていた。
「嘘はつけない」
「誰も嘘をつけとは言ってない」
「ほら、ユリウス。アレクシスはこういう人だもの」
リディアは肩を揺らして笑い、ユリウスは額を押さえた。
「リディアも、そこで笑って済ませるなよ」
「だって、私もまだ恋をしているわけじゃないもの。お互いさまでしょう?」
アレクシスは頷きかけたが、ユリウスに睨まれて思いとどまった。
三人が知り合ったのは、まだ幼い頃だ。
当時のアレクシスは、人と親しくなることを好まなかった。公爵家の跡取りという立場には打算がついて回る。親しげな相手ほど、その思惑を確かめたくなった。
リディアは、そんな事情を気にしなかった。
初めて会った日から庭の奥にある温室を見たいと言いだし、案内を断ると自分で探そうとした。迷子になると困るので、結局アレクシスがついていった。
ユリウスはというと、温室へ向かう途中で木登りを始めた。二人も登れと誘い、アレクシスが危険性を説明している間にリディアまで枝に手をかけた。
あれから何年も経つ。
彼らが来るたびに予定は狂った。それでも次の約束を断ろうとは思わなくなり、ようやく友人という関係を受け入れ始めたところだった。
そこへ、婚約者という新しい関係が持ち込まれた。
大切な友人ではある。けれど恋愛感情とは別だ。その区別を曖昧にはできなかった。
「とにかく、私はこれからもよろしくねって思っているわ」
リディアが差し出した手を見て、アレクシスは少し迷った末に握り返した。
その指先は、昔と同じように温かかった。
◇
「恋をするために、何から始めるべきだろうか?」
翌週、アレクシスの書斎でそう尋ねると、ユリウスは茶を噴き出しそうになった。
「……誰が?」
「僕が」
「誰に?」
「リディア以外にいるのか」
「お前、本気であの冗談を受け取ったのか?」
アレクシスは本を閉じた。
リディアは冗談だと言った。しかし、いずれ夫婦になる以上、相手を理解する努力は必要だろう。
「まずは相手を知るべきだと考えた」
「十年近く一緒にいて、今さら?」
「知っているつもりで、見落としていることがあるかもしれない」
「……まあ、それはそうだろうけど」
ユリウスは首を傾げたあと、机の端に置かれた紙へ目をやった。
「なんだ、これ」
「リディアについて、僕が知っていることを整理している」
「……好きな菓子、花、最近読んだ本。なんだ、観察記録か?」
「そこまで大げさなものじゃない」
紙には、彼女が好きだと教えてくれたものや最近興味があると聞かせてもらったことが書き並べられ、その下には、まだ知らないことがいくつか挙げられていた。
「わざわざ書き出さなくても良くない?」
「頭の中で考えるより、書き出して整理した方が効率的だろう」
「……お前、恋愛を試験勉強か何かだと思ってないか?」
その日の午後、リディア本人が訪ねてきた。
薄い外套を抱え、部屋へ入るなり楽しげに言う。
「ねえ、これから街へ行かない? 東の市場にあるパン屋さんが、新しいお菓子を作ったんですって」
「今日は読書の予定だったはずだが」
「本は逃げないでしょう?」
「焼き菓子だって、明日も売っていると思うが」
「それは食べてみなくちゃ分からないわ」
ユリウスの笑い声を聞きながら、アレクシスは読みかけの本に目を落とした。今日のうちに読み終えるつもりだったが、リディアを知るためには一緒に出かけるのが一番確実だ。
「……一時間だけなら」
「決まりね!」
リディアはもう扉の方を向いていた。
東の市場には焼きたてのパンと香辛料の匂いが漂い、色とりどりの天幕を張った露店が軒を連ねていた。買い物客の声があちこちで重なる。
アレクシスが訪れるのは久しぶりだ。買い物は屋敷の者に任せられるし、視察では事前に整えられた経路を通る。
「リディアお嬢さん、今日はお友達も一緒かい」
果物を並べた店の主人が、彼女を見つけて声をかけた。
「こんにちは。先週の林檎、とっても甘かったわ」
「そりゃよかった。こっちの梨も食べてみな」
「まあ、ありがとう。でも今日はパン屋さんに行くところなの」
「相変わらず忙しいお嬢さんだ」
歩くたびに誰かから名前を呼ばれた。花屋では年配の女性に手を振り、子どもにはしゃがんで話しかける。誰も彼女を遠巻きにはせず、リディアも以前聞いた話の続きを当たり前のように尋ねていた。
「いつから、こんなに通っているんだ?」
アレクシスが聞くと、リディアは不思議そうに振り返った。
「ずっと前からよ。お母様のお買い物について来ていた頃から」
「僕は知らなかった」
「聞かれなかったもの」
それは、まったくその通りだった。
目当てのパン屋では、小さな騒ぎが起きていた。
店主の娘が、配達するはずの焼き菓子の箱を探しているらしい。近くの宿屋から注文を受けており、昼までに届ける約束だったという。
「おかしいな。さっきまでここに置いてあったのに」
「青いリボンがついた箱?」
リディアが口を挟むと、娘は驚いて頷いた。
「ええ、それよ!」
「それなら、奥の棚に置かれていたわ。さっきお店の方が運んでいくのを見たもの」
「本当? 助かった!」
娘が奥へ駆けていくのを見送り、リディアは菓子を三つ注文した。少しして、箱が見つかったという弾んだ声が聞こえてくる。
「よく見ていたな」
「だって、綺麗な色のリボンだったから。何が入っているのか気になったの」
そう答えたリディアの頬には、何かを成し遂げたという誇らしさもない。
誰かの困り事を見つければ、手を伸ばす。自分の知っていることが役に立つなら惜しまない。ただ、それだけらしかった。
店を出ると、通りの向こうから彼女を呼ぶ声がした。
リディアはぱっと顔を上げ、花が咲いたように笑った。
「エッダさん! この前の苗、ちゃんと根づいたの?」
人混みを縫うように駆けていく背中を、アレクシスは無言で目で追った。
見慣れた笑顔のはずなのに、周りの人々までつられて笑うのを見て驚いた。
「……あいつ、あんなに知り合いがいるんだな」
隣でユリウスが菓子を頬張る。
「お前も知らなかったのか」
「俺が知ってるのは半分くらい。まあ、あの調子ならこれからも増えていくんだろうなあ」
アレクシスは手元の包みを見た。
温かい菓子から、甘い香りが立ち上っている。通りの向こうでは、リディアがまだ楽しそうに話していた。
一時間だけと決めたものの、もう少し彼女に付き合ってみたくなっていた。
◇
それ以来、リディアと会うたびに、アレクシスは街での出来事を尋ねるようになった。
どんな店が増えたのか。誰と話したのか。何を見つけたのか。
最初は彼女をよく知るためだったが、聞いているうちに話そのものが面白くなっていった。
「昨日は小さな時計屋さんに行ったの。壊れた懐中時計を分解していてね、中がとっても綺麗だったわ」
「構造を見せてもらったのか?」
「少しだけ。部品に触らないようにって、何度も言われたけれど」
「当然だろう」
「だから触らなかったわよ」
朝市や新しい橋の話も聞いた。リディアは興味を持つと、初対面の職人にも遠慮なく質問し、知らない道があればどこにつながるか確かめようとする。
感心することは多い。だが、同じくらい気になることも増えた。
「待て。その工房へは誰と行った?」
「一人よ」
「護衛は?」
「つけていないわ」
あまりに平然と答えるので、アレクシスは一瞬言葉に詰まった。
「侯爵家の令嬢が護衛なしで街を歩く危険性を理解しているか?」
「分かっているつもりよ。でも、護衛の人が後ろにいると、みんな急にかしこまってしまうの。普段通りに話せなくなるのは寂しいでしょう?」
「寂しいことと、安全であることは別だ」
「そうね。でも、危なそうなところは避けているわ」
「君の判断だけで?」
「ええ」
それが問題だと言いかけ、アレクシスは口を閉じた。
リディアは何も考えずに出歩いているわけではない。道を選び、顔なじみの店を訪ね、彼女なりに注意している。そのことまで否定するのは違う気がした。
「……いや、護衛なしはさすがに危ないんじゃない? リディア」
椅子の背にもたれていたユリウスが、いつになく真面目な顔をした。
「ただ、頭ごなしに危ないから駄目だって言うだけじゃ、リディアは納得しないよな」
「……それもそうだが」
「大丈夫よ。私、逃げ足は速いもの」
「まあ、確かに昔から異様に速かったな。ほら、あの時も――」
ユリウスが懐かしそうに昔の出来事を持ち出すと、リディアも楽しげに声を弾ませた。二人の間で思い出話が始まる一方、アレクシスは眉を寄せたままだった。
護衛の必要性は譲れない。けれど、彼女が街の人々との交流を大切にしていることも、今ではよく分かっている。その時間を窮屈なものに変えたくはなかった。
結論の出ないまま、季節が進んだ。
市場には秋の果実が並び始め、朝晩には外套が欲しくなるような風が吹くようになった。
ある日の午後、アレクシスとユリウスは約束の時間に合わせてローゼンハイム侯爵邸を訪ねた。
ところが、出迎えた侍女はひどく青ざめており、落ち着かない様子で二人を見比べた。
「リディア様が……また、お一人でお出かけになってしまって」
裏庭の小門から出ていき、行き先も告げていないという。
「……いつ出た」
「三十分ほど前でございます」
「分かった。心当たりを探す」
アレクシスがすぐに踵を返すと、ユリウスが横に並んだ。
「東の市場か?」
「昨日、川沿いの染物屋に新しい染料が入ったと話していた。まずはそこだ」
「よく覚えてるな」
「本人が話していた」
何度も聞いた街の話が、今は道順を選ぶ手がかりになった。
川沿いの通りを抜け、染物屋を訪ねる。店主はリディアが少し前に立ち寄ったと教えてくれた。そこから古書店へ向かったらしい。
通りの奥へ入ると、店先の賑わいは急に遠のいた。石壁に挟まれた細い道は、午後だというのに日が当たらず、雨の名残が溝に黒く残っている。
「……あれ、リディアじゃないか」
ユリウスが先に気づいた。
路地の先に、淡い髪色が見える。見知らぬ男が二人、その行く手を塞いでいた。
「ですから、通してください」
リディアの声ははっきりしていた。しかし、一人の男が笑いながら彼女の腕を掴む。
「ちょっと話くらい聞いてくれたっていいだろ?」
「離して。痛いわ」
「そんなに怖い顔をするなよ、お嬢ちゃん」
アレクシスは駆け出していた。
「――失礼。僕の連れに、何か」
男が振り向くより早く、リディアの腕を掴んでいる手首を捉えた。そのまま外側へ捻り上げると、男は短く呻いて指を離した。
「いってえ! 何しやがる!」
アレクシスはリディアを背に庇い、男たちの動きを見据えた。
背後から駆けてきたユリウスが、すぐ隣で足を止める。
「二人がかりで女の子を囲んで、随分と暇そうだな」
普段は陽気なユリウスの声に、今は笑いがなかった。
男たちは互いに顔を見合わせ、悪態をつきながら路地の向こうへ去っていった。
二人の姿が消えると、アレクシスはリディアへ向き直った。
「怪我はないか、リディア」
「……ええ、ありがとう。アレクシス、ユリウス」
彼女の腕には、掴まれた跡がうっすら残っていた。
アレクシスが眉を寄せると、リディアはそっと袖を引き下ろした。
「平気よ。それより……」
いつもなら笑って礼を言う彼女が、唇を結んでいる。震えてはいない。ただ、ひどく悔しそうだった。
「何かされたのか?」
「違うの。……いえ、違わないけれど」
リディアは一度息を吐き、掴まれていた方の腕を見下ろした。
「女の子だからって、簡単に言うことを聞かせられると思われたのが嫌だったの。離してって言っても、少しも聞いてくれなかった」
声に涙は混じらなかった。代わりに、言葉の端がきゅっと硬くなる。
「私、何もできなかったわ。振りほどくことも、相手を押し返すことも。あなたたちが来なかったら、どうなっていたかも分からない」
「……リディア」
「だから――もっと強くならなきゃね」
アレクシスは返す言葉を見つけられなかった。
彼女は助けが必要だった自分を許せないような顔をしていた。
「僕やユリウスを頼ればいいじゃないか」
「それじゃ、対等じゃなくなっちゃうわ」
リディアは顔を上げ、まっすぐ彼を見た。
「もちろん、助けてくれたのは嬉しいわ。私だって、あなたたちが困っていたら助けたいもの。でも、守られるだけじゃ嫌なの」
「僕は、君を守ることが負担だとは思わない」
「ええ。だからこそ、私もそうありたいのよ」
その答えを、すぐには飲み込めなかった。
婚約者とは、守るべき相手だと思っていた。困難があれば自分が引き受け、危険から遠ざけ、不自由のない暮らしを用意する。公爵家の嫡男として、果たすべき責任のひとつだと考えていた。
けれどリディアは、後ろに立っていたいわけではないらしい。
同じものを見て、行きたい場所へ自分の足で歩いて、必要なときにはこちらの手も引こうとする。
幼い頃から、ずっとそうだった。
温室への道で立ち止まっていたアレクシスを、最初に振り返って呼んだのも彼女だった。
「……そうか」
小さく返すと、リディアはようやく少しだけ笑った。
「分かってくれた?」
「少しは」
「少し?」
「まだ、考える必要がある」
考え込むアレクシスに、ユリウスが肩をすくめた。
「お前らしい返事だな」
アレクシスはもう一度、リディアの袖口へ目を落とした。
彼女の望みは分かる。それでも、もし同じようなことがあったとき、助けに入れる距離に誰もいなかったら。
胸の奥が冷えた。
「リディア。ひとつ、頼みがある」
「なあに?」
「屋敷を抜け出すのも、色んなことに首を突っ込むのも、止めるつもりはない。だが、せめて、護衛はつけてくれ」
リディアの目がわずかに丸くなった。
以前なら、まず危険性を説き、屋敷外への外出そのものを控えるべきだと言っていただろう。けれど今は、それでは彼女が大切にしているものまで奪ってしまうと分かる。
「目立たない服装でもいい。少し離れて歩いてもらう形でも構わない。君が街の人と話すのを邪魔しないよう、僕からも頼める」
「アレクシス……」
「僕の見ていないところで、君に何かあったらと思うと気が気でない。頼む」
リディアはしばらく彼の顔を見つめていた。
「それは、友達として心配してくれているの?」
「………………そうだ」
「今すごい間があったな」
ユリウスが即座に口を挟んだ。
「考えていただけだ」
「何を?」
「……言葉の定義を」
「そんなところで定義を持ち出すなよ」
リディアが堪えきれず吹き出した。
ついさっきまでの硬い表情がほどけ、紫の瞳にいつもの明るさが戻る。
「友達の頼みなら、仕方ないわね」
彼女はそう言って、アレクシスの前に手を差し出した。
「約束する。次からはちゃんと護衛を連れていくわ」
「……ありがとう」
リディアが少しだけ握る力を強めた。
「その代わり、私がどこで何を見つけたか、ちゃんと聞いてね」
「もちろんだ」
それなら、いくらでも聞ける。
きっとリディアは、これからも自分の足で新しい景色をたくさん見つけてくるのだろう。その話を横で聞くのは、案外悪くない。
◇
それから、リディアには新しい習慣ができた。
街へ出る際には、目立たない服装の護衛を一人連れていく。店を覗く間も、そばで周囲に目を配ってもらう。
もっとも、本人の行動が大人しくなったわけではない。
楽しそうな店を見つければ入ってみるし、面白そうな賑わいには首を突っ込んでいく。先日も裏庭の小門からこっそり街へ出かけたという。
「リディア、まだ裏から抜け出してんの?」
話を聞いたユリウスが呆れると、リディアは悪びれもせず笑った。
「だって、正面から出たら馬車を用意されてしまうもの。私は歩いて行きたいのよ」
「屋敷の人たちが気の毒だな……」
アレクシスは別のことが気になった。
「ちなみに、その日は護衛をつけたのか」
「もちろんよ! 一緒に小門から出てもらったわ」
「そうか、ならいい」
このやり取りも、すっかりお決まりになった。
ある日の茶会でも、リディアは早速、街で見つけた新しい店の話を始めた。
「ねえ、聞いて。三日前に行ったときはね、中央広場の南側に小さな紙屋さんができていたの。変わった色の便箋がたくさんあって――」
「その店の主人とは話したのか?」
「ええ。染料を混ぜる割合で色が変わるんですって。今度、試作品を見せてくれるそうよ」
「それは興味深いな。ちなみに護衛は」
「もう! ちゃんとつけたわよ」
「ならいい」
ユリウスがアレクシスに呆れた視線を送る。リディアは頬を膨らませたものの、すぐに笑みを取り戻した。
「じゃあ、次は一緒に行きましょうよ。アレクシスにも見せたい紙があるの」
「僕に?」
「ええ。きっと気に入ると思うわ」
根拠を尋ねかけてやめた。彼女が自分の好みを考えてくれたことが、思いのほか嬉しかった。
「……次の休みなら、時間を取れる」
「本当? じゃあ決まりね!」
彼女の笑顔を前にすると、予定表を確かめる手が以前より少し早くなる。
アレクシスは、その変化にも気づいていた。
リディアは大切な友人であり、これから人生を共にする婚約者でもある。
その二つの間に何があるのか、彼にはまだうまく説明できない。
「……ねえ、アレクシス」
「なんだ?」
「お菓子屋さんにも寄っていい?」
「紙屋へ行くんじゃなかったのか」
「両方行けばいいでしょう?」
隣ではユリウスが、また始まったとでも言いたげに笑っている。
アレクシスは小さく息をつき、頭の中で街の道順を組み直した。
「……帰る時間を守るなら」
「もちろん!」
その返事を、額面通りに受け取っていいかは疑わしい。
けれど彼女と歩く休日を思い浮かべたとき、浮かんだのは心配よりも先に、どんな姿が見られるだろう、どんな話を聞けるだろうという期待だった。
不器用な公爵家嫡男が、それを恋と呼ぶ日はまだ少し先らしい。
お読みいただきありがとうございました!
本作は、連載作品『アステルの杖の下で』の親世代を描いたスピンオフ短編です。
本編では、彼らの子どもたちの魔法学院での日々を描いています。もし興味を持っていただけましたら、そちらも覗いていただけると嬉しいです。




