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夫が連れてきた恋愛カウンセラーに、初対面でいきなり三つのダメ出しをされた

作者: 熾星
掲載日:2026/09/11



 夫の神谷悠真が、半年以上続いた海外プロジェクトを終えて帰国した。


 私は午後の予定を調整し、霞ノ宮国際空港まで迎えに行った。到着口から悠真の姿が見えた瞬間、自然に頬が緩む。半年ぶりに会う夫を抱きしめようと、そのまま両手を広げた。


 ところが、悠真の隣にいた若い女が先にタブレットを持ち上げた。私の手元を見て、画面を二度ほどタップする。


「再会してすぐ自分からハグを求める。スキンシップへの要求が強いので、リスク一ポイント。長いネイルのまま抱きつこうとするのも、相手への配慮が足りません。これも一ポイントです」


 女は次に私の顔と服装を見た。


「フルメイクで空港に来ている点も、自分がどう見られるかを気にしすぎています。これで三ポイント。レッド判定ですね」


 そのまま悠真へ顔を向ける。


「私は、離婚も選択肢に入れて今後の夫婦関係を考えたほうがいいと思います」


 広げた腕が止まった。


 旅行客が行き交う到着ロビーで、私は目の前の女を見つめた。顔も名前も知らない。会ってから、まだ一分も経っていない。


「誰、この人?」


 悠真が答えるより早く、女が一歩前へ出た。


「佐伯寧々です。悠真さんから依頼を受けて、夫婦関係のカウンセリングとリスク評価を担当しています」


 タブレットを胸元に抱え、落ち着いた声で続ける。


「先ほどの評価も、パートナー適合モデルに基づいたものです。今日の美緒さんの言動を見る限り、お二人の関係にはかなり大きなリスクがあります」


 もう一度、悠真を見る。


「このまま結婚生活を続けるべきか、一度きちんと考えたほうがいいと思います」


 私は黙って悠真を見た。


 さすがに止めると思っていた。


 けれど、悠真は佐伯さんの隣に立ったまま口を開いた。


「佐伯さんは海外で専門的な研修を受けてる。適当に言ってるわけじゃない」


 あまりにも馬鹿げていて、言葉が出るまで少し時間がかかった。


「会って一分もしない人が、あなたの妻に離婚を勧めてるのよ?」


 悠真から目をそらさない。


「それで、あなたも離婚するつもり?」



1



 悠真は眉を寄せた。


「なんでいきなり離婚の話になるんだよ。佐伯さんは父さんが海外から呼んだんだ。俺たちの間に問題がないか見てもらってるだけだろ」


「初対面でレッド判定を出して、離婚まで勧めるのが私たちのため?」


 佐伯さんは私を見ず、タブレットへ何か入力した。


「異なる意見を示された時の反応が強いですね。感情のコントロールにも課題があります。リスクを一ポイント追加します」


 入力を終えると顔を上げた。


「現状では、三か月ほどの観察期間を設けることをおすすめします。その間は不要な身体的接触を避けて、プライベートでも少し距離を置いたほうがいいでしょう」


 そう言いながら、私と悠真の間へ入ってきた。


 胸の奥が重くなる。


 七年前、悠真が最初の事業に失敗し、数千万円の借金を抱えた。返済の目処も立たず、会社の口座には従業員の給与を払う金さえ足りなかった。


 私は自分の貯金を出し、九条家にも頭を下げた。資金繰りを組み直し、取引先への支払いも調整して、会社を潰さずに済むところまで持っていった。


 四年前、悠真が海外へ市場を広げたいと言った時も反対しなかった。彼を送り出し、私は日本に残って既存顧客と会社を守った。


 三年前には、神谷産業会長で悠真の父でもある隆一が重い病気で入院した。私は仕事を調整して三か月間病院へ通った。手術の日も、退院の日も、悠真は海外にいた。


 神谷産業が倒産寸前の小さな会社から上場企業になるまで、その過程をずっと見てきた。


「悠真、私たち八年一緒にいるのよ」


 胸に溜まったものを押さえながら夫を見る。


「本気で、この人に私たちの結婚生活まで判断させるの?」


 佐伯さんが眼鏡に触れた。


「過去にどれだけ尽くしたかと、現在のお二人の関係性は分けて考える必要があります。以前の犠牲を繰り返し持ち出せば、それ自体が相手への心理的負担になることもあります」


 悠真は、その言葉にうなずいた。


「それは佐伯さんの言う通りだと思う。美緒、昔のことばかり持ち出しても仕方ないだろ」


「昔のこと?」


「俺たちが考えなきゃいけないのは、今どうやって一緒に暮らすかだ」


 悠真は私をなだめるように声を落とした。


「とりあえず観察に協力してくれ。関係が落ち着けば、評価だって変わる」


 返す言葉が出なかった。


 何もなかった頃、悠真はまともな食事に使う金さえ惜しんでいた。安い弁当を二人で分けた夜、私の手を握って笑ったことがある。


「いつか成功したら、その景色は美緒と半分ずつだ」


 私は八年間、その言葉を覚えていた。


 海外から戻った悠真が最初に私へ渡したものは、抱擁でも「ただいま」でもなかった。


 見知らぬ女がつけた、赤い評価だった。


 佐伯さんが悠真のほうへ向き直る。


「長時間のフライトでお疲れでしょうし、今日はもう休んだほうがいいですよ。ここで話を続けても、お互い感情的になるだけです」


 悠真は私を見た。


「美緒も今日は帰って頭を冷やしてくれ。落ち着いたら連絡する」


 二人は並んで出口へ向かった。


 私は到着ロビーに残り、その背中が人混みに消えるまで見ていた。バッグからスマートフォンを取り出し、秘書へ電話をかける。


「九条ホールディングスから神谷産業への新規資金支援を止めて」


 電話の向こうで、秘書が一瞬黙った。


「九条専務……今日付で、ですか?」


「今日付で」


 そのまま続ける。


「技術ライセンス、海外販路、サプライチェーンも全部確認して。九条側が持っている契約は、終了と再協議の手続きを始めて」


「全部ですか?」


「全部」



2



 翌朝、まだベッドにいるうちからスマートフォンが鳴り続けた。


 何度目かの着信で出ると、悠真の苛立った声が耳に飛び込んでくる。


「美緒、なんで電話に出ないんだよ。佐伯さんから振り返りシートが届いてるだろ。午前九時までに提出することになってる」


 こちらの返事を待たずに続ける。


「期限までに出せば、昨日のリスクポイントを二つ減らせるそうだ。もう書いたのか?」


 寝不足で重いこめかみを押さえた。


「佐伯さんに書いてもらえば?」


「何だって?」


「私が化粧している理由も、ネイルをしている理由も、一目でわかるんでしょう? だったら、私が何を反省すべきかも彼女のほうが詳しいじゃない」


 悠真の声が低くなった。


「わざと佐伯さんに突っかかるなよ。父さんも俺も彼女を信用してる。俺たちのためにやってくれてるんだ」


「私は書かない」


「美緒」


「離婚を勧められたんでしょう?」


 ベッドから降りてカーテンを開けた。


「なら、離婚すればいい」


 数秒、返事がなかった。


「くだらない意地を張るなよ。そんな子供みたいな話に付き合ってる暇はない。落ち着いたらまた話す」


 通話が切れた。


 身支度を済ませて書斎へ行くと、秘書がすでに待っていた。机の上には、九条ホールディングスと神谷産業の資本関係、貸付契約、技術ライセンス、販売網、共同事業に関する資料が積まれている。


「九条専務、新規の融資と追加支援は停止しました。九条側が保有している神谷産業株式と貸付契約についても、財務と法務で精査を始めています」


 続いて別の資料が差し出された。


「主要取引先からも問い合わせが来ています。海外販路と主要技術のライセンスまで見直すとなれば、神谷産業が進めている複数の案件に影響が出ます」


「わかってる」


「九条専務の判断だと公表すれば、市場も反応します」


 私は資料を一枚ずつめくった。


 悠真自身も営業を走り、取引先を増やしてきた。それでも、資金繰りが行き詰まった時、新しい融資先をつないだのは九条だった。海外へ出る時には九条の販売網を使い、競合企業に供給網を押さえられた時には、九条側の取引先から代替ルートを作った。


 どれも何年も続いてきた契約だった。取引先との打ち合わせでも、いつの間にか九条の販路や技術まで「神谷産業の強み」として扱われるようになっていた。


 私は最後のページに署名する。


「予定通り進めて」


「承知しました」


 秘書が書類を持って出ていった。


 以前は、悠真からの着信だけ別の音に設定していた。海外で何かあった時、気づかないのが怖かったからだ。時差があっても関係なく、夜中に電話が来れば出た。仕事で失敗した日も、取引先ともめた日も、何時間でも話を聞いた。


 ここ二年ほど、悠真から届くメッセージは少しずつ減っていた。


『忙しい』


『会議が長引いた』


『今日はもう寝る』


『また連絡する』


 それでも仕事なら仕方ないと思っていた。


 夕方、プライベート用のスマートフォンを開くと、今度は悠真からのLINEが何件も並んでいた。


『いつまでこんなことを続けるつもりだ?』


『振り返りシートもまだ出してないだろ』


『佐伯さんがお前のリスクを最高レベルまで上げた。家を壊したいのか?』


 返信する前に、隆一から電話が入った。


「美緒、悠真も久しぶりに帰ってきたんだ。今晩、家に来なさい」


 いつもの穏やかな口調だった。


「家族なんだから、座って話せばわかる。八年も夫婦をやってきて、カウンセラー一人のことで離婚なんて大げさだろう」


 少し考えてから答えた。


「わかりました」


 神谷家の経営が最も苦しかった頃、あの家まで担保処分の対象になったことがある。九条側が急場の債務を引き受け、売却は避けられた。


 夜、門をくぐる。


 何度も改装された邸宅は、昔よりはるかに豪華になっていた。明るいリビングでは、悠真と佐伯さんが隣り合って座っていた。



3



 ローテーブルには、新しいタブレットと専用端末が置かれていた。佐伯さんは次々に画面を切り替え、悠真へ説明している。


「愛着傾向、感情の変化、長期的な相性。それにパートナー間の衝突傾向も確認できます」


 別の画面を開いた。


「神谷会長に費用をご負担いただいたので、フル機能版を契約できました。以前使っていたものより細かく分析できます」


 悠真は興味深そうに画面をのぞき込んでいた。


「使えるならよかった。こうやって数字で見えたほうが、どこに問題があるのかわかりやすい」


 佐伯さんが笑う。


「悠真さんはデータを素直に受け止めてくださるので、こちらも進めやすいです」


 玄関に入ったところで、隆一がこちらに気づいた。


「美緒、来たか。こっちへ座りなさい」


 二人の会話が止まった。


 佐伯さんは私を見ると、タブレットを閉じて立ち上がった。


「美緒さんがそこまで私を嫌っているなら、しばらく担当を外れます。私がいることでお二人の関係が悪化するなら、続けても意味がありませんから」


 席を立とうとした彼女を、悠真がすぐに止めた。


「佐伯さんが辞める必要はない」


 それから私を見る。


「美緒、空港のことはもういい。振り返りシートも多少遅れていい。でも佐伯さんには謝れよ。彼女は仕事でやってるだけなんだから」


「何を謝るの?」


「空港で最初から喧嘩腰だっただろ」


「初対面で離婚を勧められて、笑ってお礼を言えばよかった?」


「そういう言い方をするなよ」


 隆一が間に入った。


「今日は喧嘩をさせるために呼んだんじゃない。美緒も座りなさい」


 私はソファに腰を下ろした。


 隆一は少し身を乗り出す。


「この二日、私も考えた。お前たちは仕事と家庭が近すぎる。美緒は会社の実務を少し減らして、家のことに使う時間を増やしたほうがいい」


 私は黙って続きを待った。


「今担当している案件や海外取引、九条側との窓口も、少しずつ悠真に移せばいい。佐伯さんにも補佐してもらえる」


 佐伯さんがタブレットを開いた。


「美緒さんに業務と意思決定が集中しすぎている状態を変えれば、家庭内のパワーバランスも改善します。対外窓口や担当業務を分散させるだけでも、現在のレッドゾーンからイエローまで下がる可能性があります」


 悠真も同意した。


「美緒、今まで働きすぎだったんだよ。会社は俺が見るし、佐伯さんも手伝ってくれる。何でも自分で抱える必要はないだろ」


 隆一がローテーブルの引き出しを開けた。


 そこから、すでに印刷された書類が出てくる。


「目を通してくれ」


 私は一枚目をめくった。


 神谷産業の主要案件に対する私の決裁権を縮小する。海外販路の管理窓口も順次移管。技術ライセンスに関する九条側との調整窓口は、悠真が指名する担当者へ変更。


 ページを進めると、外部アドバイザー兼調整担当として佐伯寧々の名前まで入っていた。


 私は書類を閉じた。


「これは、いつ決めたの?」


「ここ二日で相談した」


「誰と?」


「私と悠真、それから佐伯さんだ」


「悠真も賛成したの?」


 悠真は書類を一度見てから、私に視線を戻した。


「一度やってみてもいいと思ってる」


「今日は、これに署名させるために呼んだの?」


 隆一が眉を寄せる。


「そんな言い方をするな。夫婦関係を立て直すための提案だ」


 佐伯さんも続ける。


「美緒さんが自分から環境を変える意思を見せれば、夫婦関係にも良い影響が出ます」


 私は書類をテーブルへ戻した。


「署名しません」


 佐伯さんの指がタブレットへ動いた。


「調整案への拒否反応が強いですね。対抗傾向が高いので、レッド判定を維持します」


 隆一の口調から柔らかさが消える。


「美緒、仕事を少し減らすだけだ。何がそんなに不満なんだ」


 悠真も立ち上がった。


「会社を辞めろとは言ってない。お前が持ってる仕事を分けるだけだろ」


 私は契約書を二人の前へ押し戻した。


「案件も海外販路も技術ライセンスの窓口も渡す。佐伯さんには調整権限までつける。それを『仕事を少し分けるだけ』って言うの?」


「なんでそういう言い方しかできないんだよ」


「書いてある内容を読んでるだけよ」


 部屋が静かになった。


「あなた、本気でこれに賛成なの?」


 少し間があった。


「試すくらいならいいと思ってる」


 私はバッグを手に取った。


「じゃあ、離婚しましょう」


 悠真の顔色が変わった。


「美緒!」


 そのまま玄関へ向かう。


 後ろから隆一の声が飛んできた。


「こんなことで悠真と縁を切るつもりか!」


 足を止めて振り返る。


「そこまで準備しておいて、『こんなこと』なんですね」


 隆一が顔をしかめた。


「九条の力があれば何でもできると思うなよ。悠真と完全に揉めたら、お前だって無傷では済まない」


「そうですか」


 それだけ答えて家を出た。


 車が神谷邸の敷地を離れて間もなく、秘書から連絡が入る。


「九条専務、神谷産業から共同案件を一部停止するとの通知が来ました」


「受けて」


「先方から切った形になりますが」


「構わない」


 秘書が少し間を置いた。


「明後日、神谷産業は主要取引先を集めた業務提携説明会を予定しています」


「知ってる」


「九条側の動きを公表すれば、説明会への影響はかなり大きくなります」


 窓の外を流れる街灯を眺めた。


「契約見直しについて、関係各社へ正式な通知を出して」


「承知しました」


「その先は、各社に判断してもらえばいい」



4



 二日後、神谷産業の業務提携説明会が予定通り開かれた。


 会場には主要取引先、金融関係者、経済メディアが集まり、会社の公式YouTubeチャンネルでも生配信されていた。


 佐伯さんは悠真の近くに立ち、タブレットを手にしている。


「昨夜、取引先のデータをもう一度見直しました。九条側の動きで多少の影響は出ていますが、予定している契約の大半は成立するはずです」


「本当に?」


「はい。長期契約まで見直すほどの材料ではありません」


 悠真は短くうなずいた。


 隆一も最前列に座り、壇上を見上げている。


 悠真がマイクの前へ立った。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。新しい業務提携契約書は、皆さまのお手元に用意しております」


 会場を見渡す。


「契約終了後には懇親会も予定しています。今後も神谷産業とともに、国内外の市場を広げていければと思っています」


 話が終わっても、ペンを取る音がしなかった。


 最前列の森川商事社長が契約書を閉じる。隣のメーカー役員もペンをケースへ戻し、少し離れた席では担当者同士が小声で確認を始めている。


 悠真の笑みが薄くなる。


「森川社長?」


 森川社長は返事をせず、資料をもう一度確認していた。


 佐伯さんが一歩前へ出る。


「現時点で神谷産業との提携を見送れば、各社の海外事業にも影響が出る可能性があります。短期的な情報だけで長期契約を変更するのは、合理的な判断とは言えません。もう一度、長期的なメリットを――」


 森川社長が苦笑した。


「佐伯さん」


「はい?」


「あなたは夫婦関係のカウンセラーでしたよね?」


「関係性に関するリスク分析も行っています」


「企業間の契約は、こちらで判断します」


 近くの席から小さな笑い声が漏れた。


 佐伯さんの表情が固くなる。


 悠真がマイクを取り直した。


「森川社長、契約条件に懸念があるなら調整できます」


「条件の話だけではありません」


 森川社長はスマートフォンをテーブルへ置いた。


「九条ホールディングスから、新規資金支援を停止したとの正式連絡が来ています。海外販路、主要技術のライセンス、調達ルートについても再協議に入るそうですね」


 悠真の顔が強張った。


「それは九条と神谷の間の内部調整です」


「私たちには直接関係します。数年先まで神谷産業が何を提供できるのか、その前提が変わったんですから」


 隆一が最前列から立ち上がった。


「海外事業は神谷産業が長年育ててきた。九条の支援が一部なくなった程度で、事業そのものが揺らぐような会社ではありません」


 別の企業の役員が口を開いた。


「海外案件については、昨日から九条ホールディングスと直接協議しています」


 悠真も隆一も、その役員を見る。


 佐伯さんまでタブレットから顔を上げた。


「九条と?」


「ええ。今後、神谷産業を通す必要があるのか。それも含めて確認しています」


 悠真がマイクを握り直した。


「美緒が神谷産業の経営に関わってきたことは事実です。しかし、会社がここまで成長したのは、神谷産業自身が築いてきた事業基盤があるからです」


 森川社長が彼を見る。


「本気でそう思っていますか?」


「どういう意味です?」


 森川社長は手元の資料を開いた。


「神谷産業が最初に海外へ出た時、銀行との交渉と信用面を支えたのは九条側でしたよね」


 別の役員も口を挟む。


「うちが神谷産業と取引を始めたのも、九条との共同案件がきっかけでした」


 さらに別の席から声が上がる。


「主要システムも、九条側のライセンスだったはずです」


 森川社長がページをめくった。


「三年前、欧州部門で資金繰りが止まりかけた時、美緒さんは現地を回って主要取引先と直接交渉した」


 最前列のメーカー役員がうなずく。


「うちもあの時、支払い条件を見直しました。九条専務本人が来られたからです」


「国内で競合他社に供給網を押さえられた時も、九条の仕入れルートと技術で立て直した。長く取引している会社なら、その経緯は知っています」


 悠真の手が講台の端をつかんだ。


「それは夫婦として支え合ってきただけです。美緒が会社を助けたことは否定しません。でも、夫婦が支え合うのは普通でしょう。神谷産業には神谷産業の事業基盤があります」


「なら、ライセンス契約も覚えているはずです」


 森川社長の合図で、スクリーンに九条側から送られた契約見直しの概要が映った。


 海外販売網、独占的な調達ルート、主要システム、複数の技術ライセンス。


 神谷産業が日常的に使ってきたものが、九条側との契約項目として並んでいる。


 悠真の表情が変わった。隆一もスクリーンを見上げたまま動かない。


「優遇条件で使えていたのは、九条側との関係が続いていたからです」


 森川社長は契約書をファイルへ戻した。


「その前提が変わった。こちらも契約を見直します」


 佐伯さんが慌ててタブレットを操作した。


「ですが、美緒さんには現在、強い感情変動と支配傾向が見られます。九条側が突然契約を変更したこと自体、個人的な感情による意思決定である可能性があります。企業としても――」


 森川社長が彼女のタブレットを見る。


「その表で、九条専務の経営判断まで評価するんですか?」


「私は――」


「少なくとも、こちらはその評価表では契約を決めません」


 周囲で苦笑が起きた。


 配信のコメント欄も一気に速くなる。


『え、神谷産業って九条の支援込みだったの?』


『夫婦関係を採点してた人が経営判断まで評価してる』


『社長、自分の妻が何してたか知らなすぎない?』


『空港でレッド判定出してた人、この人か』


『奥さんの会社の技術まで自社のものだと思ってた?』


 会場でも株価や速報を確認する人が増えていた。九条ホールディングスの支援見直しが報じられると、神谷産業の株価は大きく下がり始めた。


 悠真はスクリーンを見上げたまま、まだマイクを離さない。


「これまで会社が積み上げてきた実績まで消えるわけじゃない」


「もちろんです」


 森川社長が答えた。


「だからこそ、神谷産業単独で何ができるのかを改めて確認しています」


 その時、会場後方の扉が開いた。



5



 私は九条ホールディングスの法務責任者、秘書、契約見直しを担当する二人の管理職と一緒に会場へ入った。


 森川社長が立ち上がって会釈する。


「九条専務」


 近くにいた取引先の役員もこちらへ顔を向けた。


 悠真は壇上から私を見ている。


 佐伯さんが先に歩いてきた。


「九条さん。夫婦間のトラブルを理由に企業間の契約まで動かすのは、報復的な判断だと思います」


「まだ私を採点するの?」


「専門的な見地から申し上げています」


 秘書がPCを会場のスクリーンにつないだ。


 佐伯さんが作成した私の評価表が大きく映し出される。依存傾向が強い、支配欲が高い、感情のコントロールが苦手、自己中心性が高い、パートナー適合度が低い。


 その下には赤い文字が表示されていた。


 ――関係の解消を推奨。


 会場からざわめきが起きる。


 私はスクリーンを見上げた。


「私は夫を空港まで迎えに行った。化粧をしていて、ネイルをしていて、半年ぶりに会う夫を抱きしめようとした。それで高リスク?」


 佐伯さんはすぐに答えた。


「一つ一つの行動には、その人が関係の中で何を優先しているかが表れます。その日の美緒さんは、ご自身の外見を強く意識していました。長いネイルで相手に触れようとしたことも――」


「あの日の午前中、私は海外取引先との商談に出ていたの」


 佐伯さんの言葉が止まった。


「商談が終わって、そのまま空港へ行った。化粧もネイルも仕事の時のまま」


 自分の手を少し持ち上げる。


「半年ぶりに帰ってくる夫を抱きしめようとしただけ」


 客席で何人かが顔を見合わせた。


 佐伯さんはタブレットを握り直す。


「一つの出来事だけを見ているわけではありません。他にもデータがあります」


「仕事への依存度が高い、家庭でも主導権を握ろうとする。それで仕事を減らせと?」


「夫婦間のパワーバランスを調整するためです」


「昨日は、私が担当している案件や九条側との窓口まで移す話になった」


 私は彼女の顔を見る。


「その『分散先』に、あなた自身の名前が入っていたよね」


 佐伯さんの視線が揺れた。


「私はあくまで外部アドバイザーとして――」


「神谷会長」


 私は隆一へ向き直った。


「昨日の契約書も、佐伯さんの提案を参考にしたんですか?」


「家族で相談して決めた」


「悠真も?」


 壇上の悠真が数秒黙った。


「その時は……試してもいいと思った」


 空港で私に頭を冷やせと言った声。


 翌朝、振り返りシートを出せと催促した声。


 昨日、私の前に置かれた契約書。


 もう聞くことはなかった。


 秘書からマイクを受け取る。


「九条ホールディングスから神谷産業への今後の対応について、三点お伝えします」


 会場の話し声が収まっていく。


「一つ目。九条側が提供している技術ライセンス、海外販路、調達ルートについて、契約条項に従って順次終了、または再協議に入ります」


 悠真の顔から血の気が引いた。


「二つ目。新規の資金支援、保証、共同プロジェクトについても停止します」


 そこで悠真を見る。


「三つ目」


 マイクを持つ手に力を入れる必要はなかった。


「夫の悠真とは、離婚手続きを進めます」


 数秒遅れて、会場が大きくざわついた。


 配信のコメント欄も一気に流れ始める。


『離婚まで来た』


『そりゃあんな契約書出されたら無理だろ』


『妻の仕事まで渡そうとしてたの?』


『社長、今になって顔色変わってる』


「美緒!」


 悠真が壇上から降りてきた。


 伸ばされた手を避ける。


「本気なのか? ここ数日のことで、本当に離婚するのか?」


「ここ数日?」


 悠真の足が止まった。


「八年間一緒にいて、問題になっているのがここ数日だけだと思ってる?」


 隆一も席を立った。


「美緒、いい加減にしなさい。ここは会社の正式な説明会だ。家庭の話を外へ持ち出すな」


 私は隆一を見る。


「神谷家が資金繰りに困って、この家まで処分されそうになった時、九条側が支援しました。入院した時には三か月病院へ通った。神谷産業の資金が止まりかけた時には、九条側の融資先をつないだ」


 客席の何人かが隆一を見る。


「海外事業が崩れそうになった時にも、取引先と話をつけてきました」


 声を荒らげずに続けた。


「昨日、その九条側との窓口を佐伯さんに渡す契約書を出したのは、神谷会長ですよね」


 隆一は答えなかった。


 悠真が低い声で私の名を呼ぶ。


「美緒……」


 私は彼に向き直った。


「空港では、佐伯さんの評価には根拠があると言った。翌朝は、私に振り返りシートを書けと言った」


 悠真の視線が揺れる。


「昨日は、仕事と権限を渡す契約書にも賛成した」


 悠真はそれ以上、言葉を続けられなかった。


 会場にはカメラのシャッター音と、配信スタッフの小さな声だけが残っていた。



6



 悠真の沈黙を見て、佐伯さんがすぐにそばへ寄った。


「悠真さん、今の状況に引っ張られないでください。九条さんが急にすべての支援を動かしたこと自体、強い感情反応が出ている証拠です。離婚したいという言葉も、今の感情に左右されている可能性があります」


 悠真が何か答える前に、私は秘書から別のファイルを受け取った。


「佐伯さん。あなたについても確認したことがあります」


 彼女の表情が変わる。


「海外の民間研修機関で、夫婦関係やコミュニケーションに関する講座を受けた。修了証も発行されている。そこまでは確認できました」


「きちんと専門研修を受けています」


「ええ」


 私はうなずいた。


「公認心理師の登録歴はありません」


 佐伯さんの声が上ずった。


「公認心理師だなんて名乗ったことはありません!」


「その通り。問題は、資格を持っていないことだけじゃない」


 法務責任者が別の資料をスクリーンに表示した。


「神谷家には、海外で心理分野の専門教育を受けた専門家だと受け取られる説明をしていた。でも、こちらで確認できたのは民間研修の修了歴です」


 画面が切り替わる。


「それから、この評価システム。ベースになっているのは市販のテンプレートです。使用している質問項目とデータの一部についても、利用許諾が確認できていません」


 佐伯さんがタブレットを握り直した。


「システムの出所と、私のカウンセリング能力は別の話です」


「では、これは?」


 私は数枚のアクセス申請記録を彼女の前へ置いた。


「『夫婦間の資源格差を確認するため』という理由で、九条側の取引先一覧、技術ライセンス資料、海外事業情報へのアクセスを何度も申請している」


 佐伯さんの視線が書類へ落ちる。


「夫婦関係を見るために、取引先の一覧まで必要?」


「神谷産業とお二人の生活は密接に関係しています。どちらがどの程度の資源を持っているか把握しないと、関係のパワーバランスを正確に――」


「どこまで見るつもりだったの?」


 そこで言葉が途切れた。


 悠真がアクセス記録を一枚取った。


「佐伯さん、これを申請したのか?」


「悠真さんを助けるためです。美緒さんがどれだけの資源を持っているか確認しなければ、夫婦関係の力関係を――」


「俺には、普段のやり取りを聞ければ十分だって言ってただろ」


「こういう情報だって関係しています」


「だったら、なんで俺に言わなかった?」


 佐伯さんは焦ったように答えた。


「そこまで細かく説明する必要はないと思ったんです!」


 悠真は手元の記録を見たまま動かなかった。


 佐伯さんが腕に触れようとすると、半歩横へずれる。


「悠真さん、ちゃんと説明しますから」


「……少し離れてくれ」


 佐伯さんの手が止まった。


 配信のコメント欄がまた速くなる。


『夫婦相談で取引先リストを見る必要ある?』


『これ普通に会社の情報狙ってない?』


『社長も今さら怪しいって思い始めた感じだな』


『妻に仕事を渡させて、自分はその資料を見る予定だったのか』


 佐伯さんは画面を見て、唇を噛んだ。


「ネットの反応だけで判断するんですか?」


「ネットの話はしてない」


 悠真が彼女を遮った。


「俺が聞いてるのは、この申請のことだ」


 佐伯さんは返事をしなかった。



7



 悠真はしばらく書類を見ていた。


 佐伯さんの評価表と、九条側のアクセス記録。その横には、神谷産業が長年使ってきたライセンス契約の一覧まで置かれている。


 やがて彼は書類から手を離し、私のほうへ歩いてきた。


「美緒……悪かった。空港では先に美緒の話を聞くべきだったし、振り返りシートなんて出させるべきじゃなかった。昨日の契約書だって、俺が止めるべきだった」


「止めなかったね」


 悠真の表情が固まる。


「わかってる。佐伯さんとの契約は終わらせるし、会社にも関わらせない。だから、帰って二人で話せないか?」


「佐伯さんがいなくなれば済む話じゃないよ」


 悠真の足が止まった。


「空港で彼女の言葉を信じたのはあなた。私に振り返りシートを出せと言ったのもあなた。昨日、あの契約書に賛成したのもあなたでしょう」


「美緒……」


「佐伯さんは提案しただけ。私をどう扱うか決めたのは、ずっとあなたよ」


 悠真は口を開いたものの、言葉が続かなかった。


 そこへ法務責任者が来て、何枚かの書類を差し出した。


「九条専務、離婚条件と財産整理の案です。神谷産業との契約終了通知もこちらに」


 私は内容を確認した。財産整理案と双方の代理人確認用の離婚条件案、それに九条側から神谷産業へ出す各種契約終了通知がまとめられている。


 必要な箇所に署名し、離婚条件の書面を悠真の前へ置いた。


「あなたも弁護士に確認して。協議でまとまらなければ、家庭裁判所に調停を申し立てます」


 悠真は書類を見つめるだけで、手を伸ばさなかった。


「八年だぞ。八年一緒にいたんだ。そんな簡単に終わらせられるのか?」


「簡単じゃなかったから、ここまで来たの」


「俺が悪かった。これからは美緒の話をちゃんと聞く。会社のことだって、美緒が今まで通りやればいい。もう佐伯さんの言うことも――」


「会社のことを『やっていい』って、誰が決めるの?」


 悠真が口をつぐんだ。


「私の仕事だよ」


「……わかってる。言い方が悪かった」


 彼は一度息を吐いた。


「俺は一人じゃここまで来られなかった。海外も、資金も、取引先も、美緒がいたから続けられた。でも、それだけで離婚したくないって言ってるんじゃない。美緒を失いたくないんだ」


「もし今日、予定通り全部の会社が契約していたら?」


 悠真の顔を見る。


「九条が支援を止めても株価が下がらず、銀行からも何も言われなかったら。それでも今、ここで同じように謝ってた?」


「美緒、俺は――」


 言葉が途切れた。


 すぐに否定できない時点で、十分だった。


「会社が危なくなって怖いのはわかる。九条の支援も、海外の取引先も、自分の立場も失いたくないんでしょう」


「それだけじゃない」


 悠真はようやく顔を上げた。


「本当に、美緒まで失いたくない」


「それなら、空港で私の話を聞いてほしかった」


 もう、それ以上は言わなかった。


 森川社長が近くまで来た。


「神谷社長、先ほどから数社が契約の再検討を正式に通知してきています。銀行も与信条件を見直すそうです」


 手元のスマートフォンを見せる。


「九条側のライセンスまで外れるなら、今の事業規模をそのまま維持するのは難しいでしょう。まず資金計画から組み直したほうがいい」


 悠真は何も答えず、手元の書類へ視線を落とした。



8



 少し離れた場所で、佐伯さんがバッグを持ち上げた。


 周囲の視線が悠真へ集まっている間に、出口へ向かおうとしている。


「佐伯さん」


 呼ぶと、足が止まった。


「どこへ行くの?」


「もう私の仕事は終わりましたから。辞任します」


 こちらを見ずに答えたあと、悠真のほうを振り返る。


「私がいなくなれば、お二人も落ち着いて話せます。悠真さん、私は本当にあなたを助けたかっただけです」


 悠真は返事をしなかった。


「美緒さんだって、少し時間が経てば冷静になります。離婚までしなくても――」


「あなたが辞めるかどうかと、私が離婚するかどうかは関係ない」


 佐伯さんの顔色が変わる。


「それから、九条側の企業情報へのアクセスについて、法務から警察へ資料を提出してあります」


「警察?」


 彼女が振り向いた。


「経歴や専門性についての営業説明、システムの利用状況、業務範囲を超えた情報アクセス。アクセスログも保存しています」


「私は何も盗んでません!」


 佐伯さんの声が大きくなる。


「申請しただけです。情報を持ち出した証拠なんてないでしょう!」


「それも含めて確認してもらいます」


 会場の外で待機していた二人の捜査員が中へ入ってきた。


 一人が佐伯さんの前で警察手帳を示す。


「佐伯寧々さんですね」


「……はい」


「九条ホールディングスから提出された資料について、お話を伺いたいことがあります。任意同行をお願いできますか」


「今ですか? これは企業間のトラブルです。私はカウンセリングをしていただけで――」


「詳しい内容は署で確認します」


 佐伯さんは悠真を振り返った。


「悠真さん、言ってください。私があなたのためにやっていたこと、知ってますよね? 私、何も悪いことなんて――」


 悠真はアクセス記録を持ったまま顔を上げなかった。


「悠真さん!」


 返事はなかった。


 捜査員に促され、佐伯さんは出口へ向かう。私の横を通る時だけ足を緩めた。


「私を潰したかったんでしょう」


「説明することがあるなら、警察で話して」


 佐伯さんは唇を噛み、そのまま会場を出た。


 配信のコメント欄には、新しい書き込みが流れ続けていた。


『資格の有無より会社の資料を見ようとしてたほうが怖い』


『夫婦相談で取引先リストまで見るの?』


『神谷社長、妻よりこの人を信用してたのか』


『しかも妻に仕事を手放させようとしてたんだよな』


『専門家というより、会社に入り込もうとしてたように見える』


 隆一は椅子の背に手をついていた。近くのスタッフが声をかけると、「大丈夫だ」と手で制したが、顔色は悪い。


「美緒……会社まで、こんなことにする必要があったのか」


 私は隆一の前に置かれた契約書を見る。


「神谷産業が自分で持っているものを取り上げたわけではありません。九条が持っているものを、九条の判断で引き上げただけです」


 隆一は何も言わなかった。



9



 会場では、神谷産業の株価を知らせる速報が次々に更新されていた。主要取引先から契約延期の連絡が入り、銀行からも今後の融資条件を再審査するとの通知が届き始めている。


 森川社長がスマートフォンを確認した。


「神谷社長、今日一日で会社がなくなるわけではありません。ただ、このまま九条側との契約が外れれば、資金繰りも海外事業も大きく組み直す必要があります」


 別の企業の役員も口を開いた。


「うちも今日の契約は持ち帰ります。九条側との再協議が終わってから判断します」


 さらに別の担当者が続ける。


「こちらも同じです。来月開始予定だった案件も、いったん停止させてください」


 悠真は一社ずつ返事をしていた。


 取引先は順番に資料をまとめ始める。契約書を持ち帰る会社、その場で延期を伝える会社、神谷産業の担当者を呼び止めて今後の供給体制を確認する会社もあった。


 私は法務責任者に離婚条件の書類を預けた。


「この後は代理人同士で進めて」


「承知しました」


 出口へ向かおうとすると、背後から足音がした。


「美緒、待って」


 悠真だった。


 ネクタイは少し崩れ、手には九条側の契約見直し通知が握られている。紙の端が皺になっていた。


「もう一度だけ、考え直してくれないか」


「離婚のこと?」


「ああ」


 悠真は息を整えた。


「俺が馬鹿だった。八年一緒にいたのに、帰ってきてすぐ他人の言うことを信じた。昨日だって父さんと佐伯さんの話に流されて、あの契約書にも賛成した」


 少し声が掠れる。


「取り返せるなら、何でもする」


「取り返せないよ」


 悠真が顔を上げる。


「空港へ迎えに行った時、私はあなたに会えるのを楽しみにしてた。半年ぶりだったから、ただ抱きしめたかった」


 あの日の到着ロビーが頭に浮かぶ。


「でも、あなたは私より先に佐伯さんの評価を信じた。次の日は反省しろと言われて、昨日は私の仕事まで差し出す話になった」


「わかってる。本当に悪かった」


「だから終わりにするの」


 悠真はしばらく動かなかった。


「美緒がいないと、俺は……」


 言いかけて、苦しそうに目を伏せる。


「会社のことも怖い。九条の支援がなくなることも、取引先が離れることも怖い。それは認める」


 それから、もう一度私を見た。


「でも、それだけじゃない。美緒までいなくなるのが一番怖い」


 私は少しだけ息を吐いた。


「それなら、もっと早く大事にしてほしかった」


 悠真の口が止まる。


「失いそうになってから言われても遅いよ」


「一回だけでいい。もう一回だけ、やり直す機会をくれ」


 私は首を横に振った。


「弁護士を通して返事をして。私から話すのは、離婚のことだけ」


 悠真の手が途中まで上がり、そこで止まった。


「……本当に、終わりなのか?」


「うん」


 短く答えた。


 隆一も離れた場所からこちらを見ていた。顔色は悪かったが、今度は何も言ってこない。


 私は法務責任者と秘書を連れ、会場の出口へ向かった。


 扉の前で足を止める。


 振り返ると、壇上の明かりの下に契約書が残り、その少し手前に悠真が立っていた。


「悠真」


 彼が顔を上げる。


「八年間、私はできることをやった」


 少し間を置いた。


「これからは、自分でやって」


 扉を開ける。


 廊下へ出ると、会場の話し声やカメラの音が遠くなった。


 秘書がタブレットを確認する。


「九条専務、明日の午前は森川商事との打ち合わせです。午後は欧州側と二件、オンライン会議が入っています」


「そのままで」


「承知しました」


 エレベーターが到着した。


 中に入り、秘書から明日の資料を受け取る。


 八年分のことが、あの会場だけで消えるとは思わない。


 それでも、戻るつもりはなかった。


 最初のページを開いたところで、扉が静かに閉まった。


(完)



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