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僕が君の翼になる

作者: 橘菊里

 「■■■■■■■■、■■■■■■■■、■……」

 これは、誰に向けられた言葉でもない。ただの僕の独白。

 ましてや、そこに偶然居ただけの彼女に向けられた言葉でもあるはずがない。

 「…………うふふ」

 心底楽しそうな笑い声が、閉まりきった室内に響く。

 彼女は薄く笑みを口に浮かべて、僕に言った。

 「まったく、面白いことを言うのね――あなた。いいわ、こういうことをまさに僥倖とでも言うのかしら?」

 何故、彼女は僕の他人からすれば意味不明な言葉を拾ったのか。それは彼女の気まぐれだったのかもしれない。それでも僕を驚かせるのには充分だった。

 この場合、僕にとってどれほどの意味がこの言葉に込められていたかは関係ない。ただの気まぐれで僕の言葉を拾ったにしては、彼女の喰いつきは異常だった。

 僕は戸惑うばかりだ。

 「何が……面白いんだ? 自分で言うのもあれだけど、結構意味不明な言葉だと思うんだけど」

 と言った。因みにこの時点では僕と彼女は初対面。そのわりには随分とぶっ飛んだ会話が成立しているが、僕の社交性もまだ捨てたものじゃないのかもしれない。いや、もしくは彼女の、……か。

 初対面故に、彼女が一体何者なのかは僕は知らなかったけれど、一言二言言葉を交わしただけで彼女の普通じゃない気配を感じ取ることは充分に出来た。だからこそ、そんな彼女だからこそ、僕は無意識に思ったのかもしれない。この気持ちを話しても、もしかしたら彼女にならば大丈夫なのではないか。彼女にならば理解してもらえるのではないか。

 僕は抗い難い衝動に駆られて、今一度彼女の姿をよく見る。

 そこにいたものを、僕はた――、

 ――麗しき恐怖。

 すごく、いや、ひどくでもまだ足りないほどだったが、ひどく美しすぎる少女だった。

 腰まで伸びる、鴉の濡れ羽色の美しい髪。触れたら溶けてしまいそうな、まるで雪のように白い肌。

 妖しく輝く、深紅の瞳。

 見ているものを虜にする悪戯っぽい笑みと、形容しがたいミステリアスな雰囲気に僕は既に魅せられていた。

 不意に、彼女の細い指が僕の頬に触れたと思うと、ゆっくり撫で回す。僕はその仕草に思わず息を呑み、急激に体が強張るのを感じる。

 「もう一度言ってごらんなさい」

 ――ゾクッ。

 「あっ……うっ……」

 ただ、ただ頬を触れられているだけなのに、僕の体の主導権は完全に彼女に奪われていて、毛髪の一本に至るまで僕の体じゃないかのような錯覚に陥る。そんな僕の様子に気を良くしたのか、彼女は楽しげに笑うと腕を首に回して抱きつく。

 頭を殴られたような強い衝撃が頭の中で暴れまわる。体の次は心までも彼女の掌に収まった。

 「あらあら、随分と初心な反応するのね。可愛い彼女の一人や二人持ってそうな顔してるのに――」

 生憎、女性と付き合うことはおろか、抱きつかれるなんて体験、未だ経験したことなかった。

 「あなたが言えないなら、私が代わりに言ってあげる――。『この世界の空は閉じている』そう言ったわね? ふぅん。なかなか詩的な響きでいいじゃない」

 この世界の空はさ、閉じているんだよ、ね……。

 確かに言った。事実、僕はそう思っている。骨の髄まで染みこんだこの言葉は、世の中の真理。

 この世界の空は閉じていて、息が詰まりそうなほど狭い。どこにでも行けると思って飛んでいたら、突然空の終わりにぶち当たる。

 例えを変えるのならば、敷かれたレールの上を走っている。だからある日突然レールが捻じ曲がり、絶望の底に落ちることだってある。

 この世界を神様とやらが創ったとするならば、僕らは所詮この閉じた世界という名の籠の中にいる、神様の気まぐれによって創られた玩具なのではないのか。

 その気まぐれで限られた自由すらも奪われ、絶望を味合わされるこちらとしてはたまったものじゃない。僕はそんな世界で生きることに、疲れ、そして、

 ――絶望した。

 「それで、この世界の空が閉じているとして、あなたはどう思ったの?」

 「別に、今になって考えることなんて……。僕は多分、この閉じた世界から消えてしまいたいんだ。逃げて、しまいたいんだよ」

 「逃げる……ねぇ、それで? 逃げた後、何年、何十年後にあなたはしっかり帰ってくるのかしら?」

 僕は、彼女のその言葉に答えられなかった。だって僕は逃げたいと思うだけで、その後の事など考えたこともなかったから。考えようとも思わなかった。

 「別にあなたが逃げるというのなら、私は止めない。けれどね、その眼で世界の何を見たのかは私は知らない。確かに、人は神様の気まぐれにつき合わされてるだけかもしれないわね。だったらいっそのこと現実から眼を逸らして“逃げる”のも悪くないわね」

 彼女の甘い声が空気を震わせる。

 多分、敷かれたレールの上を歩き続けることは楽なのだろう。事実、多くの人が敷かれたレールの上を歩きながら幸せそうに生きている。多分、敷かれたレールの上を歩きたくないからといって、閉じた世界にいたくないからといって、現実から逃げようとしている僕の方がおかしいのだろう。僕は幸せに、世界に、神様に選ばれなかっただけ。

 「僕に出来ることは……そんなことぐらいだから」

 ようやく出てきた言葉はそんな言葉。

 何を、何を言っているんだ僕は。こんなこと言っても仕方がないというのに。彼女は僕とは違うのに。それでも僕は止められなかった。どうしてか、彼女は僕と似ていると、直感的に感じたから。

 「そう、じゃあ私があなたに逃げる以外の新しい選択肢をあげる」

 「……え?」

 「ねぇ、もう一度。もう一度だけ、立ち上がってみない?」

 彼女はそう言って、抱きつく力を強くする。強い毒が、言葉に塗られる。

 「私にチャンスを頂戴。こんなふざけた世界にもまだ希望は残っていて、見捨てたものじゃないってあなたに思わせてみせるわ」

 この閉じた世界に出口などない。

 僕は、もうあきらめるたと思っていたのに。

 ただ、この世界から誰にも気づかれないように消えるだけだと思っていたのに。

 でも、彼女の毒はそれらの考えを投げ出してもいいと思わせるくらい、甘く、僕を狂わせる。

 だから、僕は答えてしまった。

 「いいよ。この世界で生きていく希望になってくれ。そうしたらきっと、僕ももう一度頑張れるから」

 彼女はふふ、と短く嬉しそうに笑うと、小さく耳元で囁く。

 「この籠を突き破る、あなたの翼になるわ」

 その最後の言葉は、耳に噛み付いてなかなか消えなかった。

 どうやら、壊れていたと思っていた僕の物語はもう少しだけ動くらしい。

 それが僕の人生の延長戦の始まり。

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