第六章:OB訪問と、本当の憧れ
六月初旬。さくらは、今まで避けてきたリストを開いていた。それは、キャリアセンターの「リスクが高い」セクションに分類されていた、中堅・ベンチャー企業のリストだ。
これまでの大手企業への選考で、さくらは「誰かになりきる」ことに疲弊していた。もう、飾らない自分で話せる場所を探したかった。
そのリストの中で、さくらの目に留まったのは「アソビバ・ラーニング」という教育系ベンチャー企業だった。社名に「アソビ」と「ラーニング」という相反する言葉が含まれていることに、文学的な興味を引かれたのだ。この会社は、主に文章表現力や思考力を高めるための、新しいオンライン教材を開発していた。
(言葉で、誰かの心を動かす仕事……)
それは、プロローグで漠然と抱いていた憧れに最も近い場所だった。
さくらは勇気を出して、SNS経由で同じ大学のOGである、入社三年目の森川 真希先輩にOB訪問を申し込んだ。森川先輩のプロフィールには、「小説が読めなくなるまで働くのは嫌だ」と書かれていた。
訪問当日、さくらは慣れないオフィス街ではなく、少し雑然とした雰囲気の、クリエイティブな印象のオフィスにいた。森川先輩は、リクルートスーツではなく、柔らかな素材のジャケットを着ていた。彼女の瞳は生き生きとしていて、大手企業の社員が持つような、疲れや緊張とは無縁に見えた。
二人は、まず大学の近況について話し始めた。
「そっか、学食のきつねラーメン、まだメニューにあるんだ。私、あれと、大学の裏の公園の桜が好きでね。試験前はよくあそこでサボってたな」
森川先輩は遠い目をしながら笑った。さくらの心臓を締め付けていた緊張が、その懐かしむ表情と共に少し緩むのを感じた。
「あの公園、今年は例年より早く咲きました。私もあそこで、レポートの構成を練ったりしました」
「やっぱりね。あの公園は、私たち文学部にとっての癒やしスポットだったんだよ。こうやって、後輩と話すと、あの頃の、純粋に『好き』だけで学んでいた気持ちを思い出すな」
短い大学時代の話が、さくらと森川先輩の間に信頼の橋をかけた。そして、森川先輩は本題に入った。
「田中さんのES、拝見しましたよ。『文学部で培った読解力と想像力で、ユーザーの潜在的なニーズを掘り起こしたい』。これ、すごく良い表現ですね。大手には刺さらなかったかもしれないけど、うちでは最高の自己PRです」
森川先輩は、さくらが大手向けに書いた「粘り強さ」や「協調性」ではなく、文学部らしい本質的な強みに言及した。さくらは驚き、そして胸の奥が熱くなるのを感じた。
さくらは、正直にここまでの就職活動の経緯を語った。安定志向に流されたこと、集団討論で失敗したこと、そして、自分が本当に何をしたいのか分からなくなったこと。
森川先輩は微笑んで言った。「安定って、人からもらうものじゃなくて、自分で作るものだと思うんだ。うちの会社は安定してないかもしれないけど、社員はみんな『自分の仕事が世の中に貢献している』っていう確かな手応えを持ってる。それが、何にも代えがたい安定なんだよ」
そして、彼女は最新の教材開発の話をしてくれた。それは、ただの国語教材ではなく、「AIでは書けない、人間の感情の揺らぎを表現する文章」を子どもたちに教えるための、情熱的なプロジェクトだった。
「私たちは、言葉の力を信じてる。さくらさんのような、言葉に真摯に向き合ってきた人に、ぜひその力を貸してほしい」
その言葉を聞いた瞬間、さくらの全身に鳥肌が立った。それは、巨大な合同説明会で何十社ものブースを回ったときも、親からの激励の電話を受けたときも、決して感じることのなかった、心の底から湧き上がる感動だった。
(これだ。私が本当にやりたかったのは、この仕事だ)
さくらはその日、初めて就職活動のゴールが見えた気がした。それは、社会的な地位や給与の額ではなく、自分が心から「憧れる」生き方、そして「貢献したい」と思える場所だった。
帰りの電車の中、さくらはスマートフォンを取り出し、大手企業の選考カレンダーを静かに閉じた。そして、「アソビバ・ラーニング」の企業ページを開き、その小さな会社を、迷いなく自身の「第一志望」に設定した。




