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第一章:プロローグ:人波と焦燥

三月一日。東京ビッグサイトの巨大なホールに足を踏み入れた瞬間、田中さくらは息を呑んだ。


フロアを埋め尽くすのは、濃紺と黒の波。誰もが同じ型、同じ色をしたリクルートスーツに身を包み、まるで一つの巨大な生き物のように目的のブースへと流れていく。まだ真新しいスーツの襟が、さくらの首に固い違和感を残していた。


「――すごい熱気」


隣に立つ友人の青井凛は、慣れた様子で入場パンフレットを捲っている。凛はすでに、黒いスーツの海の中から大手コンサルティングファームや金融機関のブース位置を特定し、最短ルートと情報収集の戦略を練っているようだった。その瞳は冷たい炎のように目標を見据えている。


「ここに来ている時点で、もう戦いは始まってる。ぼーっとしてたら置いていかれるよ、さくら」


凛の言葉はさくらにとって、心地よい激励ではなく、冷水を浴びせられたような焦燥感を呼び起こした。対照的に、さくらの視界は黒い人波に圧倒され、焦点が定まらない。


文学部で、漠然と「言葉の力で誰かの心を動かす仕事」がしたい、と静かに憧れていたさくら。しかし、今彼女の前に広がるのは、利益率、シェア、グローバル展開といった現実的な数字と論理の世界だ。企業名が並ぶブースの看板は、どれもこれも輝かしい実績や未来のビジョンを謳っているが、彼女の心が本当に震える言葉は見つからない。ブースから配られるノベルティのボールペンやクリアファイルだけが、なぜか虚しく重く感じられた。


(みんな、自分の行く先が分かっているんだろうか。この人たちが、心からこの企業に入りたいと思っているんだろうか)


ホール全体に漂うのは、「早く内定を勝ち取らなければならない」という切迫した、しかし明確な意志だった。周囲を歩く学生たちの表情は、期待と緊張、そしてわずかな焦りで引き締まっている。さくらは、自分がその波の端に立つ、取るに足らない一滴のように感じた。


「さくらは真面目だから大丈夫だよ」と、凛はよく言う。だが、さくらの真面目さは、この状況下では「準備の遅れ」と「優柔不断」としてしか機能していない。自分が本当に何をしたいのか、なぜスーツを着てここにいるのか、その核心を見つけられないまま、周囲の「安定」という価値観に流されかけていた。もしここで、自分だけ違う方向へ進んだら、何か決定的なものを失ってしまうのではないか。その恐怖が、自由な発想を全て押し殺した。


スマートフォンを握る手がじんわりと汗ばむ。数ヶ月前まで、卒業後のことなど遠い未来の夢物語だったのに、今日を境に、それは達成すべきノルマへと変わった。


「出遅れちゃだめだ、さくら。親を安心させなきゃ。将来後悔しない安定した道を歩かなきゃ」


心の中で誰かが囁いた。それは、キャリアセンターの職員の声か、ゼミの先輩の声か、あるいは、自分自身の不安が生み出した幻聴かもしれない。とにかく、「ここで立ち止まってはいけない」という本能的な焦燥感が、彼女の背中を押した。


さくらは大きく深呼吸をし、パンフレットに載っていた、なんとなく「給料も高そうで安定していそう」という漠然とした理由で選んだ大手メーカーのブースを目指して、人波の中に一歩を踏み出した。その足取りは、まだ確信に満ちたものではなく、ただ「みんなと同じ方向へ行かなくては」という義務感に動かされていた。


三月一日、就職活動開始。これは、田中さくらが「自分」を見つけるための、長く、そして孤独な旅の始まりだった。

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