同棲契約は満期を迎えました
真樹と真樹、何だか冗談っぽい。
けど、合コンで声をかけられたのはそれがきっかけ。
彼は目ざとく私の名札に目を止めた。
「真樹ちゃんっていうの? 奇遇だなあ、俺、同じ字で真樹、川越真樹」
プロ野球観戦と子供が大好きな私たちは意気投合して同棲を開始した。
目指せ、授かり婚!
結婚したけど子供ができない、それだけは避けたかった私たち。
だから同棲契約は1年間ぽっきり。
私とマサキは妊娠を同棲のゴールに設定した。
ゴールインしたらすぐに結婚するのも契約のうち。
そしたら二人とも「川越真樹」になっちゃうけどそれも面白い。
こうして私たちはゴールテープを目指して走り始めた。
音楽の趣味も食べ物や飲み物も私は妊活のつもりで好みをぜんぶ彼に合わせた。
なのに一心同体で半年走り続けても妊娠の兆候なし。
私たちの二人三脚のレースは立ち止まって顔を見合わせる時間が増えていった。
10か月が過ぎるころから私はぞわぞわと居たたまれなくなった。
子供ができないことよりマサキと面と向かい合って生活することに。
向き合ってみれば私とマサキは赤の他人。
そんな当たり前のことが前を向いて走っているときは意識に上らなかった。
契約期間2か月を残して私は心の中でそっと二人三脚の紐をほどいた。
1年間の同棲契約が終了する日がきた。
「望まれずに生まれてくる子もいるのになあ、皮肉なもんだ」
「そんな子が私たちに生まれてくればよかったのにね」
相づちを打ちはしたけど本当はホッとしている私。
二人で暮らした部屋は一人暮らしには広い。
それぞれに転居先を見つけて同じ日に荷物を運び出した。
マサキと一緒に部屋を出るとき昔流行った歌を思い出した。
♪二人でドアを閉めて二人で名前消してそのとき心は何かを話すだろう♪
私たちも二人でドアを閉めたけど心はさざ波も立たなかった。
あとは不動産屋に部屋の鍵を返すだけだ。
アーケードの雑踏の中を歩いていると斜め後ろのマサキの手が私の手に触れた。
私は振り返って言った。
「ここからは私一人でいいよ。鍵の返却に二人行く必要ないもん」
「じゃその前にお茶でも」
「いいけど割り勘でね」
アーケードから横道に入ると喫茶店はすぐに見つかった。
入口のドアの脇の壁に手書きの紙が貼ってある。
「鍵をなくした方いませんか お預かりしています」
鍵を落としたのはどんな人なんだろう、今どうしているんだろう。
気になって貼り紙を見ているとマサキが隣りの荒物屋を指さした。
店の看板に「合鍵作ります」と書いてある。
「ここで新しいマンションの合鍵を余分に1本作ったんだ」
そう言って小銭用の財布の中から鍵をつまみ出して私の目の前に差し出した。
「今日持ってきたんだ。どう?」
「どうって、スペアキーは持ち歩かずに部屋に置いとかなきゃ意味ないじゃない」
「……まあ後でもいいか、マキは余分な合鍵持ってない?」
「作ってないわよ、もったいない」
「コーヒーふたつ」
奥まった席に座るとマサキは私の分も一緒に注文してから言った。
「どうでもいい雑談をしようか。重たくない別れ方がいいだろ?」
もろ手を挙げたいほど賛成だ。
「じゃぴったりの話があるわ。女子会でたまに行くバーなんだけどママの名前が小野小路小町なの。本名ですかって聞いたら世を忍ぶ仮の名前だって」
「それで?」
「それだけよ、面白くない? だって60代の太ったママなのに小野小路小町よ、世を忍ぶどころか目立ちまくり。はい次はマサキ」
「さっきのアーケード、いつもたくさんの人が何気に歩いてるけどそれって凄いと思う。マキとの別れで俺のパワー衰えてるから」
「意味分かんない」
「すいすい歩けるのは心身ともに健康な証拠ってことさ。俺は近ごろすれ違う人が気になって仕方ない。この人はどっちによけるんだろう、すれ違った後はどこに行くんだろう。そんなこと考えるともう駄目、スムーズに足が出せなくなる。はい次はマキ」
「はい次、はいどうぞってトランシーバーで交信してるみたい。さっきのママさんだけどね、何か食べるたびに『うまいー』って言うの。どう?」
「どうって言われても」
「『うまい』をひねった『まいうー』とかならシャレになるけど、それをもう1回ひねって元に戻しても意味ないじゃん。はいマサキ」
「この店に入る前、アーケードではマキの足を後ろからずっと見てたんだ」
「やだ気持ち悪い、ストーカーみたい」
冗談のつもりはないのにマサキは微笑んだ。
「歩いてるときの足の運びを観察すればマキも感動するよ。左右の足が最接近するときの間隔は1センチもないくらいなんだ。靴が触れ合わないのは奇跡だよ。はい交代、またママさんの話かな」
また? カチンときた私は話題を変えた。
「ゴールドは日本語で何て言うか知ってる?」
「金」
「『キン』は音読みだから厳密に言えば中国語ね。訓読みは?」
「『かね』かな」
「そう。金属を叩いた時の『カン』って音が『かね』の語源。だから『かね』はもともとは金属って意味で『あかがね』は銅、『くろがね』は鉄のこと。じゃ、ここで問題」
「もったいぶるね」
「黄色い金属は?」
「話の流れからいけば金なんだろう?」
「そう。黄色い金属は黄金、それがちょっと変化して黄金、これが日本語のゴールドってわけ」
「さすがに日本語学校の講師だね、それじゃ俺も建築士らしい話をしよう。テレビに昔ふうの木造家屋が映ると築100年の千葉の爺さんの家を思い出すんだ。小さいころ住んでたんでね」
「古民家は私も住んでみたい」
「いやいや大変だよ。すきま風が入るし、ということはすきまから蚊やムカデも入ってくる、時には蛇も。それにムカデは寝ている人間の耳の穴に入ることもあるんだ」
「ひえー!」
「でも近頃は宿泊客用に内部をリノベーションした古民家が増えてる。工夫や努力で問題は克服していけるんだね」
そう言ってマサキは私の心を覗きこむような目を向けてきた。
ははん、そういうことか。
話が違う、重くない別れ方じゃない。
どうでもいい話をしたのは私だけ。
私は窓の外を見るふりをして顔を半ば横に向けた。
内部のリノベーションは観光客には快適だろう。
けど、それは古民家に住むということにはならない。
それにリノベーションだって限界はある。
すきま風が入らないよう二重サッシにしてもわたぼこりは少しずつ積もる。
人と人の関係も同じことだ、もうたくさん。
マサキは同棲契約を更新したいんだろう。
話のあちこちに未練がチラチラ透けて見えてた。
私が無言のままでいるとマサキは次の球を投げてきた。
「結婚は子供がすべてってこともないんじゃないかな」
来た、高めの誘い球!
カットしてファールで逃げよう。
「好みが変わったの気づかなかった?」
私はコーヒーカップを目の高さに持ちあげた。
「2か月前から私、コーヒーじゃなくて紅茶を飲んでたよ」
「そうだったのか、ごめん」
「別にいいんだけど」と一口飲んでカップを置く。
ソーサーに「Handshake」という店名が花文字で入っている。
Handshakeって「握手」だっけ?
アーケードを歩いてる時、マサキの手が私の手に触れた。
あれもたぶん以前のように手をつなぎたかったのだろう。
そろそろ引導を渡そう。
「ねえ、好きじゃない女の人に触られても男の人は悪い気はしないって本当?」
「なんの話だい?」
「時々いるじゃない、合コンなんかで肩とか腕とかボディタッチしてくる女の人。気にならない?」
「別に。よっぽど変な女性でなければむしろ歓迎だね」
「やっぱそうなんだ、男の人って。女の感覚は違うって知ってる?」
「そうなの?」
「嫌いな男の手は毛虫とおんなじ」
「俺たちのリノベーションは古民家より難しそうだね。俺のどこがマキに嫌われちゃったのかな」
おっと、油断してたらど真ん中のストレート!
「どこって、特にないわ」と絶好球を見送る。
見送りながら心の中ではきれいに弾き返した。
(しいて言えば全部よ)
マサキは生きることにギラギラしてる、そのくせ鈍感。
私はそんなマサキと向き合うのが息苦しくもあり苛だたしくもあった。
野球観戦と同じように人生のイスにただ並んで前を見ていたかった。
野球観戦で思い出した!
東京ドームでの巨人vs広島戦。
先月の日曜日のことだった。
私はソフトクリーム、マサキは缶ビールを買って外野席に座った。
「一口くれよ」
私の返事も待たずソフトクリームの先っぽにかぶりついた。
ソフトクリームの断面にマサキの歯型がくっきり残った。
私はさりげなくトイレに立ちソフトクリームを捨てた。
あのときおそらく私はマサキも捨てたのだ。
「降り出さないうちに鍵を返しに行かなきゃ、じゃね、元気で」
空模様を口実に立ち上がるとマサキは小銭入れを手にして未練がましげに私を見た。
割り勘と最初に断ったのを忘れたのだろうか。
私は自分の分だけの伝票を手に取ってレジで支払いをすませ店を出た。
入口脇の壁の貼り紙がまた目に入った。
「鍵をなくした方いませんか お預かりしています」
合鍵は部屋に置いておくようにマサキに言った私はハッとした。
カップルが合鍵を持ち合うのはエモいことだけど実利的にも役立つのだ。
家族も恋人もいない人間は鍵をなくしたら部屋にスペアキーがあっても入れない。
ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
足を速めながらバッグをまさぐって返却する鍵を取り出した。
鍵を握りしめた手の指が気になった。
ネイルシールが剥がれかけている。
だいぶくたびれてたから無理もない、帰ったらきれいに剥がそう。
爪も切ってすっきりしなくちゃ。
不動産屋はもうすぐだ。
それにしてもやたらと鍵が気になる1日だった。
今日のキーワードは鍵。
そんなしゃれたフレーズを思いついたとたん不安になった。
私の新しいマンションの鍵はちゃんとバッグにあるかしら。
もしさっきの喫茶店に落としていたら貼り紙はどうなるだろう。
あのままだろうか、それとも新しく貼り出してくれるだろうか。




