第七章 完成と解放
本の完成から一ヶ月が過ぎた。美智子は校正作業を終え、いよいよ出版を待つばかりとなっていた。病室には既に見本刷りが届いており、美智子は自分の本を目の前にして深い感慨にふけっていた。
表紙には『静寂に響く生命の歌 ―瞬きで綴る記者の手記―』というタイトルが印刷されている。著者名は「水島美智子」。久しぶりに自分の名前が印刷物に載ることになった。
"ほん が できあがって どんな きもち ですか?"
佐藤が美智子の感想を聞いた。
"ふしぎ な きもち"
"不思議な気持ち?"
"さいしゅうてき に かんせい した という かんじ"
「最終的に完成したという感じ」
美智子は記者として、そして人間として、一つの完成に到達した実感があった。
"これまでの記者人生の集大成ということですね"
"はい でも おわり では ない"
"終わりではない?"
"あたらしい はじまり"
美智子は一回瞬きをした。この本の完成は終わりではなく、新しい段階の始まりだと感じていた。
午後になると、出版社から嬉しい知らせが届いた。本の事前評判が非常に良く、初版は一万部で準備していたが、三万部に増刷することが決まったという。
"すごいじゃない、お母さん!"
真理恵は母親の成功を心から喜んでいた。
"みんな の おかげ"
"みんなのおかげって……お母さんが頑張ったからよ"
"ひとり では かけなかった"
美智子は本の完成が、多くの人々の協力によるものだったことを改めて実感していた。佐藤の献身的なサポート、家族の支援、医療スタッフの配慮。すべてが揃ってこそ、この本は生まれた。
"お母さんの本を読んで、きっと多くの人が励まされると思う"
真理恵の言葉に、美智子は記者としての使命を果たせたという満足感を覚えた。
その夜、美智子は一人で今後のことを考えていた。本は完成したが、まだやり残したことがあるような気がしていた。
翌日、慎一が嬉しい報告を持って病室を訪れた。
"お母さん、毎日新聞の採用試験に合格したよ!"
美智子は息子の成功を心から祝福したかった。
"おめでとう"
"ありがとう。面接で、お母さんのことを話したんだ"
"わたし の こと?"
"お母さんから学んだ記者の使命について話した。人と人をつなぐことの大切さを"
美智子は息子が自分の言葉を理解してくれていたことに感動した。
"きっと いい きしゃ に なる"
"お母さんみたいな記者になりたい"
慎一の言葉を聞いて、美智子は自分の記者としての人生が無駄ではなかったことを確信した。息子に何かを伝えることができた。それは最大の成果だった。
三月が近づいてきた。本の発売日も決まり、各種メディアでの紹介も予定されている。美智子は再び注目を集めることになりそうだった。
"ほん が うれたら どう しますか?"
"本が売れたらどうしますか?"
佐藤の質問に、美智子は考えてから答えた。
"つぎ の ほん を かく"
"次の本を書く?"
"はい もっと たくさん の ひと に でんえたい"
美智子は執筆を続けたいという強い意欲を持っていた。一冊目の本で終わりにするつもりはなかった。
"どのような内容の本を?"
"おなじ びょうき の ひと たち の こえ"
"同じ病気の人たちの声……"
"わたし だけ の けいけん では たりない"
美智子は自分の体験だけでなく、他の閉じ込め症候群患者の体験も集めて、より包括的な本を書きたいと考えていた。
"それは素晴らしいプロジェクトですね"
佐藤も美智子の新しい計画に賛同した。
三月十五日、『静寂に響く生命の歌』が正式に発売された。美智子は病室で、自分の本が書店に並んでいることを想像していた。
発売から一週間で、本は大きな話題となった。新聞や雑誌で書評が掲載され、テレビでも紹介された。読者からの反響も大きく、出版社には感動の手紙が数多く寄せられている。
"ほんとうに たくさん の ひと に よまれて いますね"
佐藤が最新の売上情報を報告した。
"ありがたい こと"
美智子は読者の反応に深く感謝していた。自分の体験が人々の心に響いているという事実が、何よりの報酬だった。
ある日、特に印象的な手紙が届いた。同じく閉じ込め症候群の患者の家族からの手紙だった。
「水島さんの本を読んで、希望を持つことができました。息子も水島さんのように、新しい表現方法を見つけてくれると信じています」
その手紙を読んだ時、美智子は記者として最高の満足を感じた。自分の記事――この場合は本――が誰かの人生に希望を与えることができた。
"つぎ の ほん の じゅんび を はじめましょうか"
"次の本の準備を始めましょうか?"
美智子は一回瞬きをした。
新しいプロジェクトが始まった。美智子は全国の閉じ込め症候群患者や家族と連絡を取り、それぞれの体験を聞き取ることにした。佐藤と出版社の協力を得て、より大きな取材活動が展開されている。
取材の過程で、美智子は多くの感動的な話に出会った。事故で体の自由を失った青年が、目の動きで絵を描いている話。病気で声を失った女性が、瞬きで詩を作っている話。それぞれが、それぞれの方法で表現を続けていた。
"みんな つよい"
"みんな強い……"
"そして みんな うつくしい"
美智子は取材を通じて、人間の強さと美しさを再発見していた。
半年後、美智子の二冊目の本『瞬きでつなぐ 希望の物語』も完成に近づいていた。今度は美智子一人の体験だけでなく、多くの人々の体験が収録された包括的な作品になっている。
その頃、美智子の体調に変化が現れ始めた。疲れやすくなり、執筆作業も以前ほど長時間は続けられなくなっていた。
"たいちょう は だいじょうぶ ですか?"
"体調は大丈夫ですか?"
佐藤の心配そうな質問に、美智子は正直に答えた。
"すこし つかれて いる"
"少し疲れている……無理をしないでくださいね"
"でも かきたい こと が まだ ある"
美智子は体調の変化を感じながらも、まだ書き足りないという思いがあった。
ある春の日、美智子は窓の外に美しい桜を見た。一年前の入院以来、初めて見る桜だった。
"きれい"
美智子は心の中でつぶやいた。桜の美しさが、心に深く響いた。
その夜、美智子は自分の今後について深く考えていた。二冊の本を世に送り出し、記者としての使命は十分に果たした。息子は記者への道を歩み始めている。娘も自分の道で成功している。
"じゅうぶん やりとげた"
美智子は自分の人生に満足していた。記者として、母親として、そして一人の人間として、やるべきことはやり終えた感覚があった。
翌朝、美智子は普段よりも穏やかな気持ちで目を覚ました。いつものように看護師の足音が聞こえ、新しい一日が始まった。
佐藤が執筆作業のために病室を訪れた時、美智子は特別な提案をした。
"きょう は さいご の ぶんしょう を かきたい"
"最後の文章?"
"にさつめ の ほん の おわり"
美智子は二冊目の本の最終章を書きたいと思った。
"どのような内容にしますか?"
"かんしゃ の きもち"
美智子は瞬きで一文字ずつ選びながら、最後のメッセージを綴り始めた。
「この本を最後まで読んでくださった皆さんへ。私たちは皆、それぞれの制約の中で生きています。しかし、制約があるからこそ、自由の尊さが分かります。声を失ったからこそ、心の声の大切さが分かりました。体の動きを失ったからこそ、魂の動きの豊かさを発見しました。」
執筆作業を続けながら、美智子は深い満足感に包まれていた。
「人生は短いかもしれません。でも、その短い時間の中に、無限の可能性が込められています。大切なのは、あきらめないこと。そして、愛することです。私は瞬きを通じて、皆さんに愛を送り続けます。どうか、皆さんも愛に満ちた人生を送ってください。」
最後の文字を選び終えた時、美智子は安らかな気持ちになった。
"みちこ……おわり"
"美智子……終わり"
佐藤は美智子の言葉に涙した。
"ありがとうございました、美智子さん。素晴らしい本になりました"
美智子は一回瞬きをした。それが、最後の明確な意思表示だった。
その夜、美智子は家族に囲まれていた。真理恵、慎一、そして佐藤も付き添ってくれている。
"お母さん、ありがとう"
真理恵が母親の手を握りながら言った。
"お母さんから学んだことを、僕は記者として生かしていく"
慎一も感謝の気持ちを伝えた。
美智子は家族の愛に包まれて、静かに目を閉じた。記者として生き、記者として最期を迎える。それが美智子らしい人生の終わり方だった。
翌朝、美智子は安らかに息を引き取った。最後まで、穏やかな表情を保っていた。
美智子の二冊目の本『瞬きでつなぐ 希望の物語』は、彼女の死後一ヶ月で出版された。この本も大きな反響を呼び、多くの人々に希望と勇気を与えている。
慎一は毎日新聞の社会部記者として活躍し、母親から学んだ精神を受け継いでいる。真理恵はデザイナーとして成功し、母親の本の装丁も手がけている。
佐藤は言語聴覚士として働き続け、美智子との体験を基に、新しいコミュニケーション支援法を開発している。
美智子の墓石には、『記者 水島美智子 静寂に響く生命の歌を奏でた人』と刻まれている。
そして今も、美智子の本を読んだ人々の心の中で、静寂に響く生命の歌が流れ続けている。瞬きから生まれた言葉たちが、永遠に人々の心に響き続けているのである。
美智子は最後まで記者だった。そして、記者として最高の記事を残して逝った。その記事は、読む人すべての心に希望の光を灯し続けている。
声を失った記者の魂の歌は、永遠に響き続けるのである。
(了)




