第六章 魂の記事
執筆開始から半年が経った。美智子の本は三百ページを超え、いよいよ完成に近づいていた。佐藤は出版社との交渉も進めており、来春の出版が決定している。
"きょう は どんな ないよう を かきましょうか?"
"きしゃ として の さいご の きじ"
"記者としての最後の記事?"
美智子は一回瞬きをした。この本を、記者である自分の集大成として位置づけたいと考えていた。
"どのような記事にしたいですか?"
"いきる こと の ほんとう の いみ"
「生きることの本当の意味」
佐藤はその言葉の重みを感じながら、ペンを握った。
"美智子さんにとって、生きることの本当の意味とは何でしょうか?"
美智子はこの数ヶ月間考え続けてきた問いについて、ついに答える時が来たと感じていた。
"つながり"
"つながり?"
"ひと と ひと と の つながり"
美智子は瞬きで一文字ずつ選びながら、自分の思いを文章にしていった。
「私は記者として長年、個人の力で社会を変えることができると信じていた。一つの記事が政治を動かし、一つのスクープが世界を変える。そんな錯覚を抱いていたのかもしれない。しかし今思えば、私一人にできることは限られていた。」
"それでは、何が重要だったのでしょうか?"
"どうりょう の きょうりょく"
"同僚の協力……"
"じょうほう ていきょうしゃ の ゆうき"
"情報提供者の勇気……"
"どくしゃ の はんのう"
"読者の反応……"
美智子は記者として働いていた時のことを思い返していた。確かに記事を書くのは自分だったが、その記事が生まれるまでには数多くの人々の協力があった。
「一つの記事が完成するまでに、どれだけ多くの人が関わっていたことだろう。取材に協力してくれる人々、編集部の同僚たち、そして記事を読んで反応してくれる読者たち。私は一人で記事を書いていると思っていたが、実際には多くの人との協働だった。」
"今の状況でも、そのつながりを感じますか?"
"はい むしろ いぜん より ふかく"
"以前より深く感じる?"
美智子は一回瞬きをした。
"たとえば どのような つながり ですか?"
"さとう さん と の きょうどう"
"私との協働……"
美智子は佐藤との関係について考えていた。毎日の執筆作業は、二人の共同作業だった。美智子が瞬きで伝える言葉を、佐藤が文字にして組み立てていく。
"一番重要な発見はなんですか?"
佐藤の質問に、美智子はしばらく考えてから答えた。
"こえ を うしなって も こころ は とどく"
「声を失っても心は届く」
その言葉に、佐藤は深く感動した。
"それが美智子さんの最も大切な発見なのですね"
"はい しんぶん きじ も おなじ"
"新聞記事も同じ?"
"かいた ひと の こころ が よみて に とどく"
美智子は記者として働いていた時と現在の状況に、共通点を見出していた。どちらも、文字を通じて心を伝える営みだった。
"だから わたし は まだ きしゃ"
"だから私はまだ記者……"
美智子は一回瞬きをした。体の状況は変わったが、本質的な部分は変わっていない。真実を追求し、それを人々に伝える。それが記者の使命であり、美智子は今もその使命を果たし続けていた。
午後になると、慎一が大学から直接病院に来た。就職活動が本格化してきており、新聞社の採用試験を受ける予定だった。
"お母さん、今度の面接で何を聞かれるか心配なんだ"
"なに を いちばん つたえたい?"
"何を一番伝えたい?"
慎一は母親の質問に考え込んだ。
"お母さんみたいに、社会の不正と戦いたいって言おうと思うんだけど"
"それ だけ で は たりない"
"それだけでは足りない?"
"なぜ きしゃ に なりたい の か"
"なぜ記者になりたいのか……"
美智子は息子に、記者という職業の本質について伝えたいと思った。
"きしゃ の しごと は たたかう こと だけ じゃ ない"
"戦うことだけじゃない……"
"ひと と ひと を つなぐ こと"
"人と人をつなぐこと……"
慎一は母親の言葉を真剣に聞いていた。
"どういう意味ですか?"
"きじ を よんで だれか の こころ が うごく"
"記事を読んで誰かの心が動く……"
"それ が きしゃ の いちばん だいじ な しごと"
美智子は記者という職業の社会的意義について説明した。情報を伝えることで、読者の心を動かし、社会の意識を変えていく。それが記者の真の力だった。
"お母さんの記事は、確かに僕の心を動かした"
"だから あなた も きっと だれか の こころ を うごかす きじ が かける"
その夜、美智子は息子との会話を思い返していた。自分の経験と思いを、次の世代に伝えることができた。それも一つの「記事」だったのかもしれない。
翌日の執筆作業で、美智子は本の最終章に取りかかった。
"さいご の しょう を かく"
"最後の章ですね。どのような内容にしましょうか?"
"みらい へ の めっせーじ"
"未来へのメッセージ……"
美智子は自分と同じような状況にある人々、そして一般の読者に向けて、最後のメッセージを伝えたいと思った。
「この本を読んでくださっている皆さんへ。私は体の自由を失いましたが、心の自由を得ました。声を失いましたが、新しい表現方法を見つけました。一見すると絶望的な状況も、視点を変えれば希望の源泉となり得るのです。」
"力強いメッセージですね"
"いちばん つたえたい こと は……"
"一番伝えたいことは……"
"あきらめ ない こと"
"諦めないこと……"
美智子は自分の体験を通じて学んだ最も重要な教訓について書いた。
「どのような困難な状況に置かれても、諦めることはありません。方法は必ず見つかります。私は瞬きという新しい『ペン』を手に入れました。皆さんも、きっと自分なりの方法を見つけることができるはずです。」
執筆作業を続けながら、美智子は記者としての最後の記事を書いている実感があった。これまで外に向けて書いてきた記事とは違い、今度は自分の内面から湧き出る真実を書いている。
"ほん の たいとる は けってい しましたね"
"本のタイトルは決定しましたね……『静寂に響く生命の歌』"
美智子は一回瞬きをした。このタイトルに込められた思いについても書いておきたかった。
「私の体は静寂に包まれています。声も出せず、動くこともできません。しかし、心の中では生命の歌が響き続けています。その歌を、瞬きという楽器で演奏し、文字という音符で記録しました。この本が、読者の皆さんの心にも同じような歌を響かせることができれば幸いです。」
午後遅く、出版社の編集者が病院を訪れた。田村という四十代の男性で、美智子の原稿を読んで深く感動したという。
"水島さん、素晴らしい原稿をありがとうございます"
田村編集者は美智子に向かって丁寧にお辞儀をした。
"この本は必ず多くの人に読まれます。そして、多くの人の人生を変えるでしょう"
美智子は編集者の言葉に感激した。再び読者に向けて発信できることの喜びを感じていた。
"しゅっぱん の にってい は?"
"出版の日程は?"
"来年の三月を予定しています。春の新刊として、大きく宣伝させていただきます"
美智子は春の出版を楽しみにした。新しい季節に、新しい形での記者復帰を果たすことになる。
その夜、美智子は完成間近の原稿について考えていた。約十万字の長編ノンフィクション。すべて瞬きで書き上げた前例のない作品。
"さいご に なに を かこう"
美智子は本の最後に何を書くべきか考えていた。記者として、そして一人の人間として、最後に伝えたいメッセージ。
翌日、美智子は本当に最後の部分を書き始めた。
「私の記者人生は、この本で一つの完結を迎えます。しかし、真実を追求する心は永遠に続きます。読者の皆さんも、それぞれの人生で真実を見つめ、大切な人とのつながりを育んでください。生きることは美しいのです。どのような状況にあっても、必ず美しさを見つけることができます。私は瞬きと共に、皆さんに愛を送ります。」
最後の文字を選び終えた時、美智子は深い満足感に包まれた。記者として、そして人間として、自分のすべてを込めた作品が完成した。
佐藤も感動して涙を流していた。
"美智子さん、本当にお疲れさまでした。素晴らしい本になりました"
美智子は一回瞬きをした。そして、心の中で思った。
これで私の最後の記事は完成した。記者としての使命を果たすことができた。




