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【閉じ込め症候群短編小説】瞬きで綴る真実 ~声なき声の愛の物語~  作者: 霧崎薫


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第五章 現在の発見

 執筆を始めてから三ヶ月が経った。美智子の本は着実に形になってきており、既に二百ページ分の原稿が完成していた。しかし、最も重要な部分――現在の体験について――はまだ十分に書けていなかった。


"きょう は いま の きもち を かきたい"


"今の気持ちですね。どのようなことを?"


 美智子はしばらく考えてから答えた。


"へいそく かんじゃ として の まいにち"


「閉塞患者としての毎日」


 佐藤は美智子の言葉を受けて、ペンを準備した。


"どこから始めましょうか?"


"あさ めざめる とき"


 美智子は毎朝の体験から語り始めることにした。


「私は毎朝、看護師さんの足音で目を覚ます。病院の廊下を歩く規則正しい足音が、新しい一日の始まりを告げてくれる。体は動かないが、意識ははっきりしている。それが私の現在の状況だ。」


"朝の目覚めについて、もう少し詳しく書いてみませんか?"


"はい"


 美智子は一文字ずつ瞬きながら、朝の体験を詳細に描写していった。


「目を開けると、まず天井の蛍光灯が視界に入る。いつも同じ位置にある光源が、私にとっての方角を示すコンパスのような役割を果たしている。次に、体の感覚を確認する。といっても、感覚は残っていないのだが、毎朝の習慣として、心の中で手足の存在を確認しようとする。」


"体の感覚について、どのように感じているのですか?"


"ふしぎ な かんじ"


"不思議な感じ?"


"からだ は ある の に ない みたい"


 美智子は自分の現在の身体感覚について説明しようとした。


"体はあるのに、ないみたい……幻影のような感覚でしょうか?"


"はい でも こころ は いきて いる"


「でも心は生きている」


 その言葉に、佐藤は深く頷いた。


"それは美智子さんの体験の核心的な部分ですね"


 美智子は一回瞬きをした。体と心の分離。それは閉じ込め症候群の患者が直面する最も根本的な体験だった。


"こころ と からだ の かんけい について かきたい"


"心と体の関係について……とても興味深いテーマです"


 その日の執筆作業は、心身の関係性に焦点を当てて進められた。


「健康な時、私は心と体が一体だと思っていた。走れば心臓が高鳴り、悲しめば涙が出る。心の動きが体に反映され、体の状態が心に影響する。それが当然だと思っていた。しかし今、その当然は崩れ去った。」


 美智子は自分の現在の状況を客観的に分析していく記者としての視点が、ここでも活かされていた。


"体が動かない状況で、心はどのように変化しましたか?"


"さいしょ は ぜつぼう だった"


"最初は絶望でしたか……"


"でも だんだん べつの こと が みえて きた"


"別のことが見えてきた?"


"こころ の じゆう"


「心の自由」


 美智子はその発見について詳しく書きたいと思った。


「体の自由を失って初めて、心の自由の存在に気づいた。体は病室のベッドに固定されているが、心は時空を超えて移動することができる。記憶の中で故郷を訪れることも、想像の中で未来を描くことも可能だ。」


 執筆を続けながら、美智子は自分の内面の変化について深く考えていた。記者時代には外界の出来事に集中していたが、今は内面の世界に豊かさを発見している。


"かんしゃ の きもち も かわった"


"感謝の気持ちも変わった?"


"はい ちいさな こと に かんしゃ できる"


 美智子は感謝の対象が変化したことについて語った。


"どのような小さなことですか?"


"まど から みえる そら"


"窓から見える空……"


"とり が とんで いる の を みる だけ で うれしい"


 美智子の病室の窓からは、小さな空が見えた。そこを飛ぶ鳥たちが、彼女にとって大きな慰めになっている。


「以前なら見過ごしていた雲の形や鳥の飛び方が、今は貴重な娯楽となった。空という舞台で繰り広げられる自然のドラマを、私は特等席で観覧している。体は動かないが、心は鳥と一緒に空を飛んでいる。」


"とても詩的な表現ですね"


 佐藤の言葉に、美智子は照れたような気持ちになった。


"きしゃ の ころ と ちがう ぶんしょう"


"記者の頃と違う文章……"


"はい もっと ないめん てき"


"より内面的になった、ということですね"


 美智子は一回瞬きをした。記者として書いていた文章は事実を正確に伝えることが目的だったが、今書いている文章は感情や体験を共有することが目的だった。


 午後になると、看護師の田中が病室を訪れた。


"水島さん、調子はいかがですか?"


 美智子は一回瞬きをした。体調は安定している。


"本の執筆も順調に進んでいるようですね。素晴らしいことです"


 田中は美智子の執筆活動を知ってから、いつも励ましの言葉をかけてくれる。


"田中さんについても本に書いていいですか?"


 佐藤が代わりに質問した。


"もちろんです。でも恥ずかしいです"


 田中は照れながら答えた。


"かんごし さん の おかげ で まいにち を すごせる"


"看護師さんのおかげで毎日を過ごせる……"


 美智子は医療スタッフへの感謝を文章にしたいと思った。


"どのようなことに感謝していますか?"


"にんげん として あつかって くれる"


"人間として扱ってくれる……それは当然のことでは?"


"でも たいせつ な こと"


 美智子は人間としての尊厳について考えていた。体が動かない状態では、ともすれば物のように扱われてしまう可能性がある。しかし、この病院のスタッフは常に美智子を一人の人間として接してくれる。


「看護師の田中さんは、毎朝私に『おはようございます』と声をかけてくれる。返事ができない私に対しても、変わらず人間として話しかけてくれる。その優しさが、私の人間としての尊厳を保ってくれている。」


 夕方、真理恵が見舞いに来た。最近は母親の本の執筆を応援するため、ほぼ毎日顔を見せてくれる。


"お母さん、今日はどんなことを書いたの?"


"いま の きもち"


"今の気持ち……どんな気持ちなの?"


"いがい に へいわ"


"意外に平和?"


 美智子は一回瞬きをした。


"それは良かった。私、お母さんが辛い思いばかりしているんじゃないかと心配していたの"


"さいしょ は つらかった でも いま は ちがう"


"最初は辛かったけど、今は違う……どんな風に?"


"あたらしい せかい を はっけん した"


「新しい世界を発見した」


 真理恵は母親の言葉に驚いた表情を見せた。


"新しい世界?"


"ないめん の せかい"


"内面の世界……"


 美智子は娘に自分の発見について説明したかった。外的な自由を失うことで、内的な自由の広がりに気づいたこと。制約があることで、かえって創造性が高まったこと。


"それって素敵なことね。お母さんらしい発見だと思う"


 真理恵の理解に、美智子は安心した。


 その夜、美智子は一人で今日書いた内容を振り返っていた。現在の体験を言葉にすることの難しさと意義を感じている。自分と同じような状況にある人たちに、何かを伝えることができるかもしれない。


"あした は みらい について かこう"


 美智子は明日の執筆計画を立てた。現在の体験だけでなく、これからの展望についても書いてみたかった。


 窓の外では夜が更けていく。病院の静寂の中で、美智子の心は活発に動いていた。言葉を失った記者が、新しい形で言葉を紡ぎ出している。その営みそのものが、生きることの証明だった。


 体の自由は制限されているが、表現の自由は保たれている。むしろ、以前よりも自由になったのかもしれない。記者として追求していた真実が、今度は自分自身の内面に見つかりつつある。


 美智子の新しい旅は、まだ始まったばかりだった。



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