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【閉じ込め症候群短編小説】瞬きで綴る真実 ~声なき声の愛の物語~  作者: 霧崎薫


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第四章 記憶の取材

 本の執筆が軌道に乗り始めた頃、美智子は自分の過去を深く掘り下げることにした。記者時代に培った「取材」の技術を、今度は自分自身に向けてみることにしたのだ。


"きょう は かこ の こと を かく"


"過去のことを書く?"


 美智子は一回瞬きをした。


"どの時代のことから始めましょうか?"


"だいがく じだい"


 美智子は大学時代から話し始めることにした。ジャーナリズムを志すきっかけとなった、重要な時期だった。


 一九八〇年代初頭、美智子は早稲田大学政治経済学部の学生だった。学生運動の熱気は既に去っていたが、社会への関心は高く、多くの学生がメディアや政治の世界に憧れを抱いていた。


"どうして記者になろうと思ったのですか?"


 佐藤の質問に、美智子は記憶を辿りながら答えた。


"きょうじゅ の ことば"


"教授の言葉?"


"みつのぶ きょうじゅ が いった"


 松野教授。新聞学を担当していた六十代の男性教授だった。元新聞記者で、戦後ジャーナリズムの発展を実際に体験してきた人物だった。


"なんと いった の ですか?"


 美智子は松野教授の言葉を思い出そうとした。それは確か、三年生の秋のゼミでのことだった。


"しんじつ を おそれる な でも しんじつ を ふりかざす な"


「真実を恐れるな、でも真実を振りかざすな」


 佐藤がその言葉を復唱すると、美智子は一回瞬きをした。


"深い言葉ですね。どのような意味だったのでしょうか?"


"しんじつ は りょうじん の つるぎ"


"真実は両刃の剣……"


 美智子は松野教授の授業風景を鮮明に思い出していた。教授は黒板に「ジャーナリストの責任」と大きく書いて、学生たちを見回した。


「君たちが将来記者になったとして、真実を報道することは使命だ。しかし、その真実が誰かを傷つける可能性もある。権力者の不正を暴くことは正義だが、その過程で無関係な人を巻き込んではいけない」


"せきにん の おもさ を おしえて くれた"


"責任の重さを教えてくれた、ということですね"


 美智子は一回瞬きをした。あの授業が、彼女の記者としての基本的な姿勢を形作ったのだった。


"その教授の影響で記者になろうと決めたのですか?"


"それ と もう ひとつ"


"もう一つ?"


"けいけん"


 美智子は大学三年生の夏に体験した出来事を思い出していた。アルバイト先の小さな出版社で、地域の環境問題を取材する機会があった。


"かんきょう もんだい の しゅざい"


"環境問題の取材ですね"


"こうじょう が かわ を けがして いた"


 それは埼玉県の小さな工場の話だった。化学物質を含む排水を川に流し、下流域の農作物に影響を与えていた。美智子は先輩記者と一緒に現地を訪れ、被害を受けた農家の人たちから話を聞いた。


"そのとき の きもち を おぼえて いますか?"


"いかり と かなしみ"


 工場の経営者は事実を否定し、責任を逃れようとしていた。一方で、農家の人たちは生活の基盤を脅かされ、途方に暮れていた。権力と一般市民の間にある大きな格差を、美智子は肌で感じた。


"その体験が記者への道を決定づけた?"


"はい だれか が たたかわ なければ"


「誰かが戦わなければ」


 美智子のその信念は、記者として働く二十五年間、一度も揺らぐことはなかった。


 執筆作業を続けながら、美智子は記者としての様々な経験を思い出していった。初任配属された地方支局での日々。初めて書いた記事が掲載された時の喜び。そして、数々の困難な取材。


"いちばん つらかった しゅざい は?"


 佐藤の質問に、美智子はしばらく考えた。


"こうつう じこ で こども が なくなった"


"交通事故で子どもが亡くなった事件?"


"いっさい の おとこ の こ"


 それは美智子が記者になって五年目の春に起きた事故だった。トラックと乗用車の衝突事故で、一歳の男の子が命を落とした。


"ご両親から話を聞くのが辛かった?"


"はい でも ひつよう だった"


 美智子は当時のことを鮮明に覚えていた。事故現場の検証、警察への取材、そして最も困難だった遺族への取材。


"なぜ必要だったのですか?"


"どうろ の あんぜん たいさく が ふじゅうぶん だった"


"道路の安全対策が不十分だった……"


 その交差点は以前から危険が指摘されていた場所だった。しかし、行政は対策を先延ばしにし続けていた。美智子の記事は事故の原因を詳しく調査し、行政の責任を追及した。


"きじ の あと あんぜん たいさく が じっし された"


"記事の後、安全対策が実施された?"


 美智子は一回瞬きをした。信号機の設置と歩道の整備が行われ、その後同様の事故は起きていない。


"それは素晴らしい成果でしたね"


"でも その おとこ の こ は もどって こない"


 美智子は記者としての成果に満足する一方で、失われた命の重さを忘れたことはなかった。記事を書くことで社会を変えることはできるが、既に起きてしまった悲劇を元に戻すことはできない。


"記者として働く中で、いつもそのような複雑な気持ちを抱いていたのですか?"


"はい でも それ が きしゃ の しごと"


 美智子は記者という職業の本質について語った。真実を追求することの重要性と、その過程で直面する感情的な負担。両方を受け入れることが、記者として成長することだった。


 夕方になると、真理恵が見舞いに来た。娘は母親が本を書いていることを知って、とても誇らしく思っているようだった。


"お母さんの本、早く読んでみたい"


"まだ とちゅう"


"それでも楽しみ。お母さんの体験を本で読めるなんて、素敵だと思う"


 真理恵の言葉に、美智子は温かい気持ちになった。家族が自分の活動を支えてくれることの有り難さを、改めて感じた。


"お母さん、私も何か手伝えることはない?"


"いま は だいじょうぶ でも ありがとう"


 その夜、美智子は一人で記者時代の思い出を整理していた。二十五年間の記者生活で書いた記事は数千本に及ぶ。その一つ一つに、取材相手の人生があり、社会の問題があった。


 中でも印象深かったのは、汚職事件の取材だった。市役所の幹部が建設業者から賄賂を受け取っていた事件。半年間の調査の末に記事を発表し、複数の逮捕者が出た。


"しゅざい で いちばん むずかしかった の は?"


 翌日の執筆作業で、佐藤が質問した。


"おしょく じけん の ないぶ しりょう を にゅうしゅ する こと"


"汚職事件の内部資料を入手すること?"


"じょうほう ていきょうしゃ の あんぜん を まもる ひつよう が あった"


 内部告発者の安全を守ることは、記者としての最重要課題だった。情報提供者が報復を受けることがあってはならない。美智子は細心の注意を払って取材を進めた。


"どのような方法で安全を確保したのですか?"


"まいかい べつの ばしょ で あう"


"毎回別の場所で会った……"


"でんわ も こうしゅう でんわ を つかった"


 美智子は情報提供者との連絡方法から会合場所まで、すべてを慎重に計画していた。記者としての責任は、記事を書くことだけではない。取材に協力してくれる人たちを守ることも重要な使命だった。


"その慎重さが、記者としての美智子さんの特徴だったのですね"


"はい しんじつ だけ で は たりない"


「真実だけでは足りない」


 美智子のその言葉は、記者としての哲学を表していた。真実を追求することは大切だが、それと同じくらい大切なのは、関係する人々への配慮だった。


 記憶の取材は続いた。美智子は自分の人生を一つの大きな記事として捉え、客観的に分析していく。記者としての訓練が、今度は自分自身の物語を紡ぐために活かされている。


 その過程で、美智子は記者という職業の意義を改めて確認していた。社会の不正を暴き、弱い立場の人々の声を伝える。それは決して楽な仕事ではなかったが、確実に価値のある仕事だった。


 そして今、新しい形での「記者活動」が始まっている。瞬きによる執筆という前例のない方法で、美智子は再び社会に向けてメッセージを発信しようとしていた。



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