第二章 無音の世界
白い天井が美智子の視界いっぱいに広がっていた。蛍光灯の光が眩しく、瞳を細めようとしたが、体が思うように動かない。鼻には酸素マスクが装着され、腕には点滴の針が刺さっている。
ここはどこだろう。何が起こったのだろう。
美智子は記憶を辿ろうとした。最後に覚えているのは、夜中の激しい頭痛。それから先の記憶が曖昧だった。
"お母さん、気がついたの?"
真理恵の声が聞こえた。美智子は娘の方に視線を向けようとしたが、首が動かない。目だけが左右に動くのを感じた。
"お母さん、私よ、真理恵よ。大丈夫?"
美智子は答えようとしたが、声が出ない。口も動かない。舌も動かない。彼女は必死に声を出そうとしたが、何の音も生まれなかった。
パニックが襲ってきた。何が起こっているのか。なぜ体が動かないのか。なぜ声が出ないのか。美智子の心は混乱に包まれた。
"先生、お母さんの目が動いています"
真理恵の声に続いて、男性の声が聞こえてきた。
"意識は戻っているようですね。水島さん、聞こえますか?"
白衣を着た中年の医師が美智子の視野に入ってきた。山田浩二という名札をつけている。神経内科と書かれていた。
"水島さん、私の声が聞こえるなら、目を一度閉じて開いてください"
美智子は言われた通りに瞬きをした。まぶたは動く。それは確認できた。
"良いですね。今度は二回瞬きしてください"
美智子は二回瞬きをした。
"素晴らしい。意識ははっきりしています"
山田医師は真理恵の方を向いて説明を始めた。
"お母さんは脳幹梗塞を起こされました。脳幹は呼吸や循環などの生命維持に重要な部分で、ここに血栓ができたため、体の運動機能に障害が出ています"
"どういう意味ですか?"
真理恵の声が震えていた。
"意識ははっきりしているのですが、話すことや体を動かすことができない状態です。医学的には閉じ込め症候群と呼ばれています"
閉じ込め症候群。
美智子はその言葉を頭の中で反芻した。まさに閉じ込められたような状態。意識は明確なのに、外界に向かって何も表現することができない。
"治療法はあるのですか?"
"残念ながら、脳幹の損傷は回復が困難です。しかし、リハビリテーションによって、コミュニケーション方法を確立することは可能です"
美智子は医師の言葉を冷静に受け止めようとした。記者として数多くの困難な状況を取材してきた経験が、今の自分にも役立つはずだった。
しかし、現実は想像以上に厳しかった。
その後の数日間、美智子は自分の新しい状況を理解することに努めた。体は完全に麻痺し、声も出せず、呼吸も人工呼吸器に依存している。残されたのは意識と、わずかな目の動きだけだった。
真理恵と慎一が交代で看病に来てくれた。二人とも必死に明るく振る舞おうとしているのがわかったが、その努力がかえって美智子の心を痛めた。
"お母さん、今日は天気がいいよ。桜が咲き始めているの"
慎一が窓際に立って外の様子を話してくれた。美智子は息子の声を聞きながら、自分はもう桜を見ることができないのだと思った。
夜は特に辛かった。病院の静寂の中で、美智子は自分の人生について考え続けた。記者として生きてきた五十八年間。取材で出会った数多くの人々。書き上げた記事の数々。それらすべてが、今では遠い昔のことのように感じられた。
ある日の午後、言語聴覚士の佐藤香織が美智子の病室を訪れた。三十代前半と思われる女性で、温かい笑顔が印象的だった。
"水島さん、初めまして。言語聴覚士の佐藤です。今日からコミュニケーションの練習を始めましょう"
佐藤は椅子を美智子のベッドサイドに置いて座った。
"まず、瞬きでのコミュニケーション方法を覚えましょう。「はい」の時は一回、「いいえ」の時は二回瞬きしてください"
美智子は言われた通りに練習した。
"痛みはありませんか?"
美智子は一回瞬きした。実際には痛みはなかった。
"ご家族に会いたいですか?"
美智子は一回瞬きした。
"素晴らしいです。では次に、文字盤を使った方法を試してみましょう"
佐藤は大きな文字盤を取り出した。あいうえお順に五十音が並んでいる。
"私が文字を指差しますので、その文字を使いたい時に瞬きしてください。ゆっくりでかまいません"
最初は「あ」から始まった。佐藤が指を動かしていき、「り」のところで美智子が瞬きした。次に「が」、そして「と」、「う」。
「ありがとう」
佐藤は美智子が伝えようとした言葉を理解して微笑んだ。
"どういたしまして。少しずつ慣れていきましょう"
その日から、美智子と佐藤の長い協働が始まった。毎日午後になると、佐藤は美智子の病室を訪れ、コミュニケーションの練習を続けた。
最初は簡単な単語から始まった。「つかれた」「ありがとう」「だいじょうぶ」。一文字ずつ瞬きで選んでいく作業は、想像以上に疲れるものだった。
しかし、美智子は諦めなかった。記者としての執念が、今度は新しい形でよみがえってきた。言葉を使って真実を伝えること。それは美智子の使命であり、閉じ込め症候群になっても変わることはなかった。
二週間が過ぎた頃、美智子は短い文章を作ることができるようになっていた。
"みんな しんぱい かけて ごめん"
佐藤がその文章を読み上げると、真理恵の目に涙が浮かんだ。
"お母さん、謝らないで。私たちはお母さんの味方よ"
美智子は娘の言葉に救われる思いがした。声は出せないが、心は通じ合っている。それを実感した瞬間だった。
ある夜、美智子は一人で病室の天井を見つめていた。看護師の田中克美が巡回に来て、優しく声をかけてくれた。
"水島さん、眠れませんか?"
美智子は二回瞬きをした。眠れない、という意味だった。
"そうですね。急に環境が変わって、戸惑われることも多いでしょう"
田中は美智子の枕元に座って話を続けた。
"私、実は水島さんの記事を読んだことがあるんです。市役所の汚職事件の記事。とても鋭い視点で書かれていて、感動しました"
美智子は驚いた。自分の記事を覚えてくれている人がいる。それだけで心が温かくなった。
"記者さんとして長年活動されてきた水島さんなら、きっと新しい表現方法も見つけられると思います"
田中の言葉は、美智子に新たな希望を与えた。確かに表現の手段は変わったが、伝えたいことがあることに変わりはない。
翌日、美智子は佐藤に提案した。
"ほん かきたい"
"本を書きたい?"
美智子は一回瞬きをした。
"素晴らしいアイデアですね。どのような本を?"
"いま かんじている こと"
"今感じていること……現在の体験を本にまとめたいということですね"
美智子は一回瞬きをした。
"とても意義のあることだと思います。でも、一冊の本を書くのは大変な作業になりますよ"
"だいじょうぶ"
美智子の決意は固かった。記者として培った文章力と構成力があれば、きっと素晴らしい本ができるはずだった。
佐藤は美智子の提案を医師に相談し、リハビリテーションの一環として本の執筆に取り組むことが決まった。
"では明日から、本格的に始めましょう。どのような構成にするか、まず考えてみてください"
その夜、美智子は一人で本の構想を練った。閉じ込め症候群になった記者の体験記。それは確実に多くの人の心に響く内容になるはずだった。
しかし、美智子はまだ知らなかった。この本を書く過程で、彼女自身が大きく変わっていくことになることを。そして、読者だけでなく、彼女自身にとっても人生を変える作品になることを。
窓の外では、夜明けが近づいていた。新しい一日が始まろうとしている。美智子にとって、それは新しい人生の第一歩でもあった。




