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第一章 嵐の前の静けさ

 その朝、水島美智子は普段よりも早く目を覚ました。窓の外では雨がそっと降り始めており、ガラスを叩く雫の音が静かなリズムを刻んでいる。五十八歳という年齢にしては若々しい顔立ちの美智子は、ベッドの中で一日の予定を頭の中で整理していた。


 午前中は市役所での汚職事件の続報取材。午後は被害者家族へのインタビュー。夕方には編集会議。そして夜は娘の真理恵と久しぶりの食事。充実した一日になりそうだった。


 美智子は毎日新聞社会部のデスクとして二十五年間、数多くの事件と事故を取材してきた。権力の腐敗を暴き、社会の不正義と戦うことが彼女の使命だった。真実を追求することへの情熱は、年を重ねても少しも衰えることはなかった。


「お母さん、おはよう」


 キッチンから真理恵の声が聞こえてきた。昨夜遅くに帰ってきて、今朝は早めに出社するつもりだったのだが、娘が起きているとは思わなかった。


「おはよう。今日は早いのね」


 美智子は起き上がると、簡単に身支度を整えてキッチンへ向かった。真理恵は広告代理店でグラフィックデザイナーとして働いており、最近は大手化粧品会社のキャンペーン制作で忙しい日々を送っていた。


「昨日のプレゼンが通ったの。クライアントがとても気に入ってくれて」


 真理恵の顔は喜びに輝いていた。美智子は娘の成功を心から嬉しく思った。美大を出てから五年、真理恵は確実にキャリアを積み重ねている。


「それは良かった。お疲れさまでした」


「お母さんこそ、毎日遅いじゃない。体調は大丈夫?」


 真理恵の心配そうな表情を見て、美智子は微笑んだ。最近確かに疲れやすくなっている気がしたが、それは年齢のせいだと思っていた。


「大丈夫よ。今度の記事が仕上がったら、少し休暇を取るつもり」


 それは嘘ではなかった。市役所の汚職事件は大きな山場を迎えており、この記事が完成すれば一つの区切りになる。そうしたら慎一の就職活動の応援もできるし、真理恵ともゆっくり過ごす時間が作れるだろう。


 朝食を済ませた美智子は、いつものように電車で新聞社へ向かった。車内で他社の朝刊に目を通しながら、今日の取材戦略を練る。市役所の建設課長が収賄の疑いで任意同行されたのは三日前。まだ決定的な証拠は掴めていないが、内部告発者からの情報によれば、今日中に新たな展開がありそうだった。


 午前九時、美智子は市役所の正面玄関に立っていた。雨は小降りになっていたが、空は重い雲で覆われている。建物の中に入ると、いつもとは違う慌ただしさが感じられた。職員たちの表情に緊張が走っている。


「水島さん」


 振り返ると、情報提供者の一人である若い職員が小声で声をかけてきた。


「課長が今朝出勤していません。昨夜から連絡が取れない状態です」


 美智子の記者としての直感が働いた。これは大きな動きの前兆かもしれない。彼女は手帳を取り出し、すぐに編集部に連絡を入れた。


「田村です」


 社会部長の田村の声が電話の向こうから聞こえてきた。


「水島です。市役所の件で動きがありました。課長が行方不明です」


「分かった。引き続き張り込んでくれ。応援を送る」


 電話を切った美智子は、建物の外に出て課長の自宅へ向かった。タクシーの中で彼女は、これまでの取材内容を頭の中で整理していた。建設業者からの便宜供与、入札情報の漏洩、そして数千万円に上る資金の流れ。パズルのピースが少しずつ埋まってきている。


 課長の自宅は閑静な住宅街にあった。二階建ての一戸建てで、庭には手入れの行き届いた花壇がある。美智子が門の前に立った時、近所の主婦が話しかけてきた。


「新聞の方ですか? 昨夜遅くに課長さんが大きなバッグを持って出て行かれましたよ」


 やはり逃亡か、と美智子は思った。この展開は記事の方向性を大きく変えることになる。彼女は急いで編集部に戻り、原稿の修正に取りかかった。


 午後三時、美智子は集中して原稿を書き続けていた。キーボードを叩く音だけが、静かな編集部に響いている。文章の一字一字に魂を込めて、真実を伝えようとする彼女の姿勢は、後輩記者たちの尊敬を集めていた。


 しかし、その時だった。


 突然、美智子の視界がぼやけた。文字が二重に見え、軽いめまいを感じる。彼女は一旦手を止めて、深呼吸をした。


「大丈夫かな……」


 小さくつぶやいたが、周りの同僚は気づかなかった。美智子は水を飲んで、再び原稿に向かった。しかし、めまいは次第に強くなっていく。


 午後四時半、美智子は立ち上がろうとした時、足元がふらつい た。椅子に手をついて体を支えながら、彼女は自分の体に起きている異変を認識し始めていた。


「水島さん、顔色が悪いですよ」


 隣の席の後輩記者、山田が心配そうに声をかけてきた。


「少し疲れているだけよ。大丈夫」


 美智子は微笑みながら答えたが、その笑顔はどこか作り物めいていた。実際のところ、彼女は今まで経験したことのない体調の変化を感じていた。


 夕方の編集会議が始まった。美智子は市役所の件について報告を行ったが、途中で言葉が出てこなくなることが何度かあった。田村部長をはじめ、会議の参加者たちが心配そうな視線を送ってくる。


「今日はここまでにしましょう。明日の朝一番で続きを話し合いましょう」


 田村の配慮で会議は早めに終了した。美智子は自分のデスクに戻ると、頭痛がひどくなっていることに気づいた。


 午後七時、美智子は真理恵との待ち合わせ場所である銀座のレストランに向かった。電車の中で、彼女は窓に映る自分の顔を見つめていた。確かに疲れて見える。最近は睡眠時間も不規則だったし、ストレスも多かった。


「お母さん、お疲れさま」


 レストランで待っていた真理恵は、母親の顔を見るなり表情を曇らせた。


「大丈夫? すごく疲れて見えるけど」


「ちょっと忙しくて。でも今日はあなたのお祝いよ。プレゼン成功おめでとう」


 美智子は無理に明るい声を出したが、食事中も時々めまいを感じていた。真理恵は母親の様子を気にかけながらも、仕事の話を楽しそうに話してくれた。


 食事を終えて帰宅したのは午後九時過ぎだった。美智子は疲労感と頭痛のため、いつもよりも早く就寝した。しかし、眠りは浅く、何度も目を覚ましてしまう。


 夜中の二時頃、美智子は激しい頭痛で目を覚ました。これまでに経験したことのない痛みだった。彼女はベッドから起き上がろうとしたが、体に力が入らない。


「これは……おかしい」


 美智子は何かが重大に間違っていることを直感的に理解した。彼女は枕元の携帯電話に手を伸ばそうとしたが、腕が思うように動かない。


 朝の四時、美智子の意識はぼんやりとしていた。体の半分が麻痺したような感覚がある。彼女は必死に声を出そうとしたが、うまく発声できない。


 午前五時、真理恵が母親の部屋を覗いた時、美智子は意識を失っていた。


「お母さん! お母さん!」


 真理恵の叫び声が静かな朝を破った。救急車のサイレンが響く中、美智子の意識は深い闇の中に沈んでいった。


 これが、美智子の新しい人生の始まりだった。記者として培った言葉の力を失い、代わりに瞬きという新しい表現手段を手に入れることになる人生の始まりだった。




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