第6話「再びひとり」
朝、外は静かに晴れていた。
紗季は手短に荷物を背負い、玄関で小さく深呼吸をした。
「誠さん、本当にお世話になりました」
「気をつけて。……何かあったら、ここに戻ってくればいい」
「うん。――必ず、また会いましょう」
それだけ言うと、紗季は軽く会釈し、山道をロードバイクで下っていった。その背中が、林の向こうに吸い込まれるように消えていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなるまで、俺はしばらく立ち尽くしていた。
再び、山小屋に一人きりになった。
しんと静まりかえった部屋のなかには、
まだ彼女の残り香や、使いかけのコップ、枕元に積まれた数冊の本がそのまま残っている。
ベッドのシーツにはわずかな温もりが残り、その脇には、小さくたたまれたハンカチがひとつ。
わざとじゃないのかもしれない。でも、どこか意図があるようにも見えた。
「……忘れていったぞ」
そうつぶやきながら、俺はそっとそれを棚にしまった。
「いつか、取りに戻ってきたときのために」
思えばこの数週間、俺はひとりの生活から遠ざかっていた。
紗季がいることで、食卓に会話が生まれ、朝晩の空気にも少し彩りが差していた。
捻挫の看病、山菜採りや料理の手伝い――
何気ない日々が、思いのほか心地よいものだったのだと、今になって気づかされる。
ふと、空っぽになったカップを流しに運ぶ。
何も言わずに洗い物をする手が、少しぎこちなく感じられた。
小屋の外に出れば、春の風が畑を渡り、
ヒヨドリの鳴き声や、どこかでモグラが土を掘る音が聞こえてくる。
柵の向こうには、あいかわらずぼんやりと立つゾンビが一体、
春の光にさらされて、動くでもなく、ただ世界の一部としてそこに在る。
――普通なら、こんな存在は、危険がなくてもすぐに始末してしまうべきなのかもしれない。
それが、生き残った人間の“正解”なのだろう。
けれど俺は、ずっとそこにいるこのゾンビを、何となく排除する気になれずにいた。
それは死者への哀れみや倫理観というより、
ただ「ここにもかつて、誰かがいた」という事実を、この世界に留めておきたかったからかもしれない。
動物の屍や野ざらしの骨なら、片付けて終わりだ。
けれどゾンビは、人間だったものの“最後の残滓”だ。
自分がいつか同じ立場になるかもしれない――
そんな思いが、ほんの少しだけ胸の奥を鈍くさせる。
この静けさのなか、あのゾンビもまた、ただ時を過ごしているのかもしれない。
自分の存在の輪郭がぼやけていくまで、ただそこに立ち尽くすだけの、“誰か”として。
ああ、俺はまた「ひとり」に戻ったんだな――
そう思いながら、紗季と過ごした日々を思い返す。
パンデミックが起こり、東京から逃げてきて、
この山小屋で静かに生きることを選んだ。
たくさんのものを失った。家族も、友人も、かつての恋人も、
もう一度会いたいと願っても、どこにいるかも分からない。
それでもこの春、たったひとときでも誰かと分かち合う時間があったことが、
今の自分にはとても大きな出来事だったように思う。
昼前、ふとベッド脇に積まれた本を手に取る。
そのなかに、紗季が読んでいたらしいページに付箋が挟まっていた。
「また読める日が来るといいね」
彼女の手書きのメモが、さりげなく残されていた。
その文字を指でなぞりながら、俺は小さく息を吐く。
この終末世界で“また誰かと出会う”ことがどれほど稀な奇跡か、
そして一度でも誰かを信じることが、どれほど勇気の要ることか。
もう一度ひとりになった静けさの中で、
俺は“ここで生きる”ということの意味を、改めて考える。
ひとりで生きるしかない――そう思っていた自分が、
誰かと過ごすことで、少しだけ変わったのかもしれない。
外の光が少しずつ伸びていく。
「……さて、今日は畑を見てこよう」
俺はそうつぶやき、小屋の扉を押し開けた。
春の風が、新しい季節の匂いを連れてくる。
そのなかに――まだ見ぬ誰かの気配が、ほんのかすかに混じっているような気がした。