第5話「分かれ道」
それから数日が過ぎ、紗季は荷物の整理を終えていた。
春の朝、窓から差し込むやわらかな光が山小屋に満ちている。
ベッドの脇には、小説や雑誌がいくつか積んである。
窓辺の小さな花瓶、テーブルの上のカラフルなコップ――
どれも、俺が集落の空き家や、かつて図書室だった建物を巡って見つけてきたものだ。
捻挫で動けなかった紗季が少しでも退屈しないようにと、思いつくままに持ち帰った。
最初は「どうせまた誰かが去っていくだけ」と、どこか他人行儀だった俺だけれど、
気づけばこの小屋の中に、ふたりだけのささやかな生活の痕跡が増えていた。
紗季は、ベッドから起きてゆっくりと身支度をする。
カップを片付けながら、何度も部屋を見回しては、微笑んだり、ふっと遠い目をしたりしている。
「こんなにのんびりしたの、いつ以来だろう」
ぽつりとこぼれたその言葉に、俺も胸の奥がじんとした。
日中は最後の荷物をまとめたり、小屋の掃除をしたりして過ごす。
俺も手伝いながら、互いに自然と会話が増えていた。
日が暮れる頃、ふたりで静かな夕食をとった。
食卓には、山菜のおひたしや味噌汁、残り物の煮物――
ささやかな食事でも、紗季と並んでいるだけで心が温かくなる。
食後は、いつもより長く話した。
最初は、これからの移動経路や山道で気をつけること――
「クマ避けの鈴、忘れずにね」「地図のこっちの道は去年崩れたらしい」といったサバイバル術の確認。
やがて話題はパンデミック以前の生活へと移った。
「私、静岡で働き始めたばかりだったんです。家族もいて……」
「俺は東京でITの仕事をしてた。満員電車に疲れ果てて、いつか田舎でのんびり暮らしたいなんて思ってたな」
笑い話には、ほんのりとした寂しさも混じっていた。
好きだった音楽やアニメ、昔の休日の過ごし方――
ついには、「もしパンデミックがなかったら、今ごろどんな生活をしてたんだろうね」と、
誰も答えの出せない空想にまで及んだ。
窓の外に夜風が吹き、遠くでフクロウが鳴いた。
ふと、紗季が小屋の奥を見て、「この家、あたたかいですね」とつぶやいた。
俺は少し迷いながらも、「またいつでも戻ってきていい」とだけ返す。
思えば、最初に紗季がここを訪れたとき、
俺は他人を受け入れることにずっと躊躇していた。
この世界で人を信じること――それがどれほどリスクのあることか、身をもって知っていたからだ。
だけど、日々を重ねるうちに、紗季のまっすぐな人柄や、
お互いを思いやる小さなやりとりが、いつの間にか心をほどいていた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、心強いです」
紗季は照れたように微笑んだ。
夜が更けて――
寝る前、紗季がぽつりと口を開いた。
「……明日、出発する前に、お願いがあるんだけど」
彼女は少し戸惑いながら、それでもまっすぐにこちらを見つめている。
「久しぶりに、誰かと隣で眠りたいなって。――人の温もり、ちゃんと感じたくて」
その言葉を聞いたとき、心のどこかがざわついた。
結婚はしていなかったが、それなりに恋愛もしてきたし、女性と親しくなることにも慣れていた。
十代の頃から何度も恋をし、長く付き合った人もいれば、一時の衝動で近づいた相手もいた。
たとえこの状況でも、女性と同じベッドに入れば“そういうこと”を期待する自分が、いまだどこかに残っている。
でも同時に、パンデミック以降、ただ生き延びることに必死になってきた日々を思い出す。
この終末世界で人と出会い、心を通わせることがどれほど難しいか――
人の体温、呼吸、手の感触。それだけで、どれほど安心できるか。
今、目の前の紗季も、きっと同じ孤独を感じている。
たぶん、彼女も大人だし、俺に対して多少の警戒や信頼も含めて、この願いを口にしたのだろう。
だからこそ、男としての自分の衝動は心の奥にしまい、「ただ一緒に眠る」ということの意味を大切にしたかった。
「いいよ」
俺は短く返事をした。
それは理性からでもあり、同時に、自分自身も誰かとつながりたかったからかもしれない。
ベッドの中、隣同士に横になり、布団越しにそっと手を伸ばす。
紗季の指が俺の指に重なった。
熱を帯びた衝動が一瞬よぎったが、今はそれを力に変えて、彼女の手をしっかりと握り返す。
恋でも欲望でもなく、ただ「人間であること」を分かち合う夜。
「ありがとう。こういうの、本当に久しぶり」
紗季の手は少し震えていた。俺もゆっくり息を吐き、そっとその温もりを確かめた。
外では春の風が、かすかに小屋の壁をなでていく。
「きっとまた、会えるよな」
「うん……きっと」
ふたりはそれだけを確かめ合い、静かな夜に、寄り添うように眠りについた。