第4話「季節の恵み」
春の陽差しがようやく山小屋まで届くようになり、空気には青々しい土と芽吹きの匂いが混じっていた。
紗季はまだ無理をせず小屋で静養している。俺は一人、裏山へ山菜採りに出かけた。
裏山へ向かう道すがらでは、木々の間をニホンリスが跳ね回り、頭上ではキビタキやホオジロがさえずっていた。
遠くではアカゲラが木を叩く音がコツコツと響いている。
運が良ければ、ニホンカモシカの足跡を見かけることもある。春先にはニホンザルの群れが里近くまで下りてくることもあるから、畑仕事の合間にも目を光らせている。
だが、この時期に一番警戒しなければいけないのはツキノワグマだ。冬眠明けで腹を空かせているクマは、人間にとってゾンビ以上に脅威になる。
クマよけの鈴を腰につけ、竹で作った鳴子を鳴らしながら、時々周囲に声をかけて歩く。
「ゾンビの気配も大事だけど、春の山はクマの方が怖い」
食べ物の残りやゴミは絶対に放置しない。それが、この世界で生き延びるための最低限のルールだった。
やがて斜面に差しかかると、湿った土の下からフキノトウが小さく顔をのぞかせていた。木の陰にはワラビやノビルもある。見つけた瞬間、心がふっと浮き立つ。
土に指を差し入れ、そっと引き抜く。ほろ苦く、青い香りが鼻をくすぐった。
小屋に戻ったら、さっそく山菜の調理に取り掛かった。
まず山菜をたっぷりの水でよく洗い、傷んだ部分を切り落とす。
大きな鍋に山水を汲み、薪ストーブで火を起こして沸騰させる。
灰汁抜きのために、フキノトウとワラビはひとつまみの塩と、かまどの灰を少し加えて下茹でする。
沸き立つ湯の中で、山菜の緑がいっそう鮮やかになる。
茹で上がった山菜は、すぐに冷水にとり、丁寧に灰汁を落とした。
「今日の収穫、春の香りがすごいね」
紗季が声をかけてくる。
「この苦味がクセになるんだ」
食卓に並ぶのは、軽く茹でて醤油で和えたフキノトウ、細かく刻んで味噌と合わせたワラビの和え物、さっぱりしたノビルのおひたし。
味噌は、村に残された古い味噌蔵から分けてもらっている。
かつては村人たちが共同で管理していたものだが、今では使う人もほとんどいない。
誰もいない静かな蔵で、木桶に残った信州味噌を少しだけ分けてもらう。
琥珀色の味噌は、麹の香りと深いコク、ほのかな甘みがあり、春の山菜によく合う。
鍋で湯気を立てる味噌汁にひと匙加えると、ふわりとした麹の香りと、濃厚な旨味が部屋いっぱいに広がった。
「この味噌、すごく美味しい……」
紗季が感嘆の声をもらす。
「信州の味噌蔵の味だからね。貴重品だけど、春の恵みにはこれを使いたかったんだ」
ご飯を頬張ると、山菜の苦味、味噌のまろやかな塩気、そして香り高い風味が口いっぱいに広がった。
外ではヒヨドリが鳴き、遠くでモグラが畑を掘り返す音がした。
そんな穏やかな日々のなかでも、体調には波がある。
紗季がときおり腹部を押さえる仕草を見せると、ヨモギの茶を淹れて渡す。
ヨモギのお茶は、血行促進、冷え性改善、生理痛緩和、美肌の効果があると野草について書かれた本で学んだ。
文明が退化したこの終末世界で、薬も衛生用品も貴重品だ。
薬局に残されている薬品も、いずれは使用期限を超えていく。
そうなれば、頼れるのは民間療法や昔ながらの生活の知恵だけだ。
窓の外では野良猫が、冬の間に忘れられていた魚の骨をくわえて走り回っている。
畑を掘り返すモグラ、庭木に巣を作る鳥、森の奥ではシカの鳴き声。
春になると、生き物たちは一斉に活動を始める。
柵の外には、いつものようにぼんやりと立ち尽くすゾンビの姿があった。
一羽のカラスがその肩に降りようとして、すぐに不快そうに鳴き、羽ばたいて逃げていった。
「ゾンビの肉、動物は食べないんだね」
紗季がぽつりとつぶやいた。
「……パンデミックの初期、野犬がゾンビにかみついてるのを見た。でもその犬たちは、数日後に全滅した」
「やっぱり、ウイルスのせい?」
「多分。でも、ゾンビ化した動物は一度も見たことがない。きっと、人間にしか作用しない」
「自然界は、うまくできてるんだね」
ゾンビの死体はやがて崩れ、土に還るが、普通の死骸のように生態系へは組み込まれない。
動物たちは本能的にその異質さを察知し、近づこうとしないのだ。
新緑が息吹く春。
あたりまえだったはずの営みが、今はとても静かで、どこか尊いものに思える。
失われたものも多いけれど、こうして季節のめぐりを感じられることに、小さな感謝を覚えていた。