第3話「ゾンビの謎」
朝の光の中、湯気を立てる味噌汁の香りが小屋に広がると、“誰かがいる”という実感がじわじわと湧いてきた。
誰かと食卓を囲むのは、いったいどれくらいぶりだろうか。
紗季も、慣れない山小屋の朝に少し戸惑いながらも、微笑みを浮かべていた。
「昨夜、ちゃんと眠れましたか?」
「はい、ベッドのおかげでぐっすりです。ありがとうございます」
足の腫れはまだ引いていないが、氷嚢と休息の効果か、少しは歩きやすくなったという。
食後、俺はいつものように畑に出た。春の風が冷たく土の匂いを運んでくる。
柵の外には、二体のゾンビが所在なげにうろついていた。
昨日までならただの“怪物”として見ていたが、紗季との会話のせいで、今はどうしても「かつて人間だった誰か」を探してしまう。
古びたスーツを着たゾンビは、裾を泥にまみれさせ、片方の靴だけを残している。
もう一体は、淡い作業着の袖口が擦り切れ、ゆっくりと歩いているだけだった。
どちらの顔も無表情で土色に変わり果てている。
けれど、ときおり立ち止まって、遠くを見るような仕草を見せるのが不思議だった。まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
“この人たちも、きっとどこかで朝ごはんを食べて、通勤の準備をしていたんだろうか——”
そんな空想が、一瞬胸をよぎる。
怪物のはずなのに、不思議と寂しさが漂っていた。
「ゾンビも、夜は本当に静かになるんですね」
紗季がぽつりとつぶやいた。
「昨日の話、あれから考えてた。もしかして、ゾンビの行動には、生前の人間の習慣が残ってるんじゃないかって」
俺はそう言いながら、いつものようにポケットから手帳を取り出した。
昼間のゾンビは柵の周囲をうろついたり、音や匂いに反応して近づいてくる。
だが、夜になると多くの個体が柵に寄りかかるようにじっと動かなくなる。まるで眠っているか、遠い夢を見ているかのような静けさだった。
「……“生きていたときの体内リズムや習慣が、何かしら影響してるのかもしれない”」
俺はそう書き記しながら、ペン先を止めた。
「シェルターの中でも、そんな話をよくしてましたよ」と紗季はうなずいた。
「昼夜逆転してるゾンビもいるみたいで。“夜勤だった人かもね”って、よく冗談みたいに言ってました」
ふたりして、少しだけ笑いあった。
日差しの下、柵の外のゾンビは朝の光を浴びて、うっすらと目を閉じているように見える。
そんな姿に、妙な人間味を感じてしまう自分が、少しだけおかしい。
午後は納屋で道具の手入れをした。
今日は刃こぼれした鍬を砥石で研ぎ、草刈り鎌のサビを落とす。金槌の柄は少し割れてきていたので、古い麻ひもで補強を施した。
「こういうの、コツがあるんですか?」
紗季は小屋の掃除をしていたが、手を止めて声をかけてくる。
「正直、独学ですよ。力加減を間違えて余計傷つけたりもするけど……使える道具は直してでも、長く使わないと」
不器用ながらも、自分の手で生きる手段を維持するしかないのだ。
「何でもやってみる人ですね」
そう言って、紗季は呆れたように笑った。
どこかにまだ「人間だった頃」の温もりが残っているのは、ゾンビだけじゃない。
俺も紗季も、こんな終末の世界で“誰かと暮らす”ということを、少しずつ思い出しているのかもしれない。
夕方、また柵の外を見る。
「……何を考えているんだろうな」
ゾンビたちを見ながらつぶやくと、紗季は答えた。
「たぶん、何も。でも……少しだけ寂しいのかも」
夜。静まった小屋で、今日の観察記録を日記に書き残す。
“ゾンビの行動には、生前の人間らしさがどこか残っている。
この世界の謎は、まだ解けそうにないけれど——。”
小さな発見と、ほんのわずかなぬくもりが、胸に残る一日だった。