余話「終末都市の拾い屋④残された声」
榊は、曇天の下を歩いていた。
空一面を覆う雲は重く、秋の光をかき消している。風は冷たく、濡れたアスファルトには落ち葉が貼りついていた。
住宅街は静まり返っていた。
すでに人の気配はなく、窓ガラスが割れた家や、フェンスが倒れかけた庭が点在している。かつての生活の痕跡は残っているが、それを思い出せる者は、もうほとんどいない。
数週間前、ある避難所の壁に貼られていた地図の中に──「無線通信があった家」という手書きのメモがあった。
誰が残したのかは分からない。だが榊は、その情報を頼りにここへ来た。
目的は、無線機器だ。
生存者同士の通信手段は限られているが、まだどこかで発信が続いている可能性がある。
そのわずかな可能性を頼りに、足を向けた。
目当ての家は、通りの奥にあった。
外壁の塗装が剥げかけた二階建て。物干し台には色褪せたタオルが一枚、風に揺れていた。
家の外観には無線活動を思わせる手がかりが残っていた。
瓦屋根の片隅には、折れたアンテナの支柱が錆びたまま立ち続けている。窓枠には補修跡が見られ、様々な脅威から室内が守られてきた様子がうかがえた。
榊は、門をくぐって玄関前に立った。
玄関の表札には「結城」。
周囲にゾンビの気配はない。腐臭も、荒らされた痕跡も、生活の灯も──何ひとつ感じられなかった。
ドアに鍵は掛かっていなかった。開けた形跡があるわけでもない。扉の枠に細かい傷が残っていた。工具を使ってこじ開けたか、あるいは何者かが急いで出ていったのか。いずれにせよ、意図的に施錠された状態ではなかった。
ハンドルを握り、扉をゆっくりと押す。微かな軋み音とともに、屋内の空気が流れ出す。
すれ違うわずかな光が、埃をほんの少し揺らしている。
榊はそのまま、靴を履いたまま家の中へ踏み入れた。
床には埃が積もり、誰かが最近歩いた気配はない。
家全体が、過去の空気のまま止まっていた。
無線機材を探しながら書斎に向かうと、椅子の脇の机にはアマチュア無線機と短波受信機。棚には受信記録のメモが数冊、壁には紙製のハムコールサインがテープで留められていた。
活動を続けていた時期は不明だが、ここが交信の場であったことは明らかだった。
榊は無言で、部屋を見渡す。必要な物があるか、あるいは別の痕跡が残されていないか。
無線機材のチェックを終えた榊は、机の引き出しに手を伸ばした。
取っ手に手垢が残り、使い込まれた跡がある。軽く引くと、文房具の奥に小さなカセットテープが数本、並べてしまわれていた。ケースに入っていないものもある。ラベルには手書きのメモがかすれている。
──「TEST01」「LOG」「10月3日」……。
さらに下段を開けると、埃をかぶったラジカセが奥に仕舞い込まれていた。乾電池式。ボディの一部は日焼けして色が変わっているが、操作部は意外と綺麗だ。使い込まれていたのだろう。
榊はラジカセを取り出し、持参していた予備の電池を装填した。
カセットテープを一本選び、挿入する。
再生ボタンを押すと、テープの回転音に続いて、やや歪んだ声がスピーカーから漏れた。
──「……マイクテスト、テスト。聞こえてますか? こちらは結城。CQ、CQ……」
男の声だった。滑舌は悪くないが、少し喉を枯らしたような口調。途中、雑音が混じる。
──「……何かの役に立つかも知れないからテープに記録を残す。状況は変わらず。こちらは問題なし。今のところ、外からの侵入もない。妻と息子も、無事……」
その声には、誰かに向けた明確な意思があった。救援を求めるでもなく、ただ誰かが聞いていることを信じて、声が残されていた。
榊は背を椅子に預け、しばらくその声に耳を傾けていた。
ラジカセの小さなスピーカーから、乾いた男の声が流れた。
テープの回転音と、時折混ざるノイズが、秋の静寂に溶け込んでいく。
──「……こちら、東京都練馬区周辺。現在、自宅で籠城中。家族は無事。外の様子は……数時間に一度、ゾンビが通る程度。周囲に人の気配はなし」
録音主は、状況を逐一報告するように話していた。
──「……近所の家はほとんど空っぽだ。ここに籠もってから、もう三ヶ月は経つと思う。物音は少ない。ときどき、猫の鳴き声だけ」
言葉が止まり、しばし雑音だけが流れる。
──「……妻が、昨日から水の使用を制限し始めた。タンクもそろそろ限界かもしれない。食料も底をつきかけている。……明日には、備蓄分を再確認する予定。……」
榊は無表情のまま、視線をラジカセへ向けた。
録音の主が経験した状況──それは、榊自身がかつて通ってきた過程と、酷似していた。
──「……正直、もう限界かもしれない。……俺たちだけでは、もう……」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
──「……明日、近隣にあるという避難所へ向かうことにした。公式なものかどうかは分からないが、数日前、無線で断片的に会話が聞こえた。交信は不明瞭。……ただ、人がいる──それだけは確かだった」
テープの中の結城は、低く息をつきながら続けた。
──「妻も、もう疲れてる。子どもも、泣かなくなった。……何かを選ばないといけない。残って、衰弱して、死んでいくのか。それとも、運に賭けるのか……」
そこからしばしの無音が続くと、音声が再び聞こえてきた。
──「……こちら、結城。日付は……もう数えていない。避難所に来て、二週間ほど経ったはずだ」
スピーカーから流れる声は、以前よりもかすかに疲れていた。
榊は目を伏せたまま、手元のノートをめくる。録音の日付は不明だったが、周囲の空気や記述から判断すれば、パンデミック発生から半年以内──その頃の記録だと推測できた。
──「……最初の数日は、まともだった。水も、食料も、最低限は行き渡っていた。ルールもあった。順番に配られて、子どもも泣かずにいられた」
雑音が混ざり、しばしの空白を挟んだ後、声のトーンが変わった。わずかに、だが確かに。
──「“まとめ役”のあいつら……今野と水谷、それからその取り巻きの連中。あいつらが、全部を仕切っていた。最初は、まとめてくれて助かったって思ってた。でもな……」
一拍の沈黙。
──「……だんだん“支配”になっていった。ルールは全部あいつらの気分次第。気に入らなければ名前を呼ばれなくなる。物資ももらえなくなる。女の人たちの何人かは、夜に呼ばれて……」
言葉が途切れる。押し殺すような息が、わずかにマイクに触れた。
──「俺は、妻と子を守ることで精一杯だった。見て見ぬふりをした。……いや、怖くて、見られなかったのかもしれない」
しばらくの間、雑音だけが流れ続けた。
その静けさが、何よりも雄弁に、そこにあった恐怖と無力を語っていた。
やがて、声が戻る。今度は少し冷静に、そして淡々と。
──「……我々は避難所を出ると決めた。ここを離れて、どこか別の場所へ。まだどこかで生きているグループがあるはずだ。安全な場所は無いかも知れないが、少なくともここよりは……」
──「機材はそのまま残してく。また戻ってくるかも知れないし、もし使える人がいるなら好きに使ってくれればいい」
声が徐々に弱まっていく。それでも、言葉は止まらなかった。
──「……このテープが、最後になると思う。もう、次はない。電池も残り少なそうだ……俺の気力も、たぶん、そうだ」
乾いた咳払いが入り、沈黙が数秒続いた。
やがて、最後の声が吐き出される。
──「……これが最後になると思う。名前を残しておく。名前は、結城篤志。妻は麻由、息子は翔太。もし、この声を聞いた人がいたら……覚えていてほしい。俺たちは、確かに、ここにいた」
テープの回転が止まり、ラジカセから音が消えた。
室内に静けさが戻る。
榊はラジカセからカセットを抜き、しばらく表面を見つめていた。
手にはメモ用紙とペン。無言のまま、何かを記録していく。
──推定録音時期、パンデミック発生から一年未満。
──無線通信設備、動作確認済み。電源確保可能。
──声の主:結城篤志。生存状況、不明。
榊は立ち上がると、ラジカセと残された数本のテープをまとめ、バッグに収めた。
使えるものは持ち帰る。それは道具としても、情報としても。
だが──
書斎の棚の一角に、小さな写真立てがあった。
そこに写っていたのは、男女と幼い男の子、三人で撮った平凡な家族写真。
榊はしばらく見つめ、何も言わずに棚へ戻した。
「……行った先に、生きる場所があればいいがな」
誰にともなく、低く呟いた。
風がどこかの窓を揺らした。
それはまるで、返事のようにも聞こえた。
書斎の机の下に、小さな段ボール箱がひとつあった。榊はかがみ込み、埃を払いながら蓋を開ける。中には、使いかけの配線コードと予備の基板、パーツ整理用のプラスチックケースが詰め込まれていた。側面には「送信ユニット予備」と、マジックで書かれている。
榊はケースの中身をざっと確認した。コンデンサ、トランジスタ、抵抗──部品の大半は古いが、用途次第では再利用できる。
彼は使えそうなものを見極めて選び、ひとつひとつ慎重に取り出しては布袋に収めた。無線機そのものは既に確認済みだが、予備部品はいくらあっても困らない。特に終末の世界では、壊れてからでは遅い。
その隣に、小さな防水パックがあった。中には乾電池、携帯用工具、予備のイヤホン。さらに、その下から数枚のメモ用紙と、新品のボールペンが出てくる。
榊はそれも、そっとバッグのサイドポケットへ滑り込ませた。
壁の棚にはまだ手つかずの引き出しがいくつかある。榊は一つひとつを開け、封を切っていないアルミパック入りの非常食を数点と、未使用の懐中電灯を見つける。
──十分だ。
榊は一度深く息をつき、棚を静かに閉じた。
彼はバッグのジッパーを締め、最後にリビングのカーテンを閉じた。
撤収前、榊は最後にもう一度、書斎全体を見回した。
無線機はそのまま残していく。持ち運ぶには大きすぎるし、本当に必要ならまたここに来ればいい。
榊は玄関のドアを閉める前、もう一度だけ振り返った。
書斎の机の上、録音機材の電源は抜かれたまま。カセットテープのケースも、ラジカセも、整然と残されていた。
──結城は、ここには戻っていない。
あれが最後の録音であり、この家に残された言葉は、それきりだったのだ。
「……あんたの声は、ちゃんと届いたよ」
誰にともなく、そう呟くと、榊はドアを静かに引いて外に出た。
秋風が通り抜ける路地に、彼の足音が重く落ちていく。
背にした家は、音もなく、再びその沈黙の中に戻っていった。
家を離れた榊は、人気のない路地をゆっくりと歩いていた。
秋の風はひやりと肌を撫でるが、湿気はなく、空気は澄んでいる。朝の霧が晴れたあとのような静けさが、周囲を覆っていた。
少し歩いた先、小さな交差点の脇に、朽ちた公園の跡があった。榊はそこに腰を下ろすと、バッグからノートとペンを取り出した。
ポケットから取り出したメモを確認しながら、淡々と記録を綴っていく。
──探索対象:東京都練馬区、住宅地内一戸建て。
──家主:結城篤志。アマチュア無線機材保有。設備一部使用可能。
──記録物:カセットテープ6本。音声記録あり。最終更新、パンデミック発生から一年未満。
──物資:乾電池、非常食、予備部品、筆記具。確保済み。
ページの端に「帰還記録なし」と小さく書き加えた。
榊は数秒だけペンを止め、空を見上げた。
灰色の雲が流れていた。やがて雨が降るかもしれない。
彼はノートを閉じ、バッグの中へと戻すと、立ち上がった。
このあたりでの探索は完了だ。次の目標は、南に十数キロ離れた区画にある小規模な集落跡。かつて、通信設備を自作していた人物がいたと聞いた。確かな情報ではないが、十分に試す価値はある。
拾い屋にとって、「確実な足取り」は存在しない。ただ、あったかもしれない記録と、残されているかもしれない物資を追うだけだ。
榊は足元の落ち葉を踏みしめながら、また歩き始めた。
かつて人が暮らし、声を交わし、暮らしを築こうとした場所を。
そして、また誰かの痕跡を──静かに、拾いに行くのだった。




