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余話「終末都市の拾い屋③少女の日記」

 かつては静かな住宅街だったのだろう。

 整然と並んだ戸建ての家々、雑草の伸びた駐車場、崩れかけた郵便ポスト。

 道路には風にあおられたビニール袋と、サドルの破れた子供用の自転車が転がっていた。

 フレームには、マジックで書かれた名前と、色あせたキャラクターのシールが貼られている。


 ──埼玉郊外、東京から電車で一時間ほどの距離にあるベッドタウン。

 どこにでもある「平和な町」だった。ほんの数年前までは。


 榊は、外壁にツタの這った二階建ての一軒家の前で立ち止まった。

 門柱には「佐伯」と書かれた表札が掲げられていた。まだ新しさの残るプレートは、かつての暮らしの延長線にあるようだった。

 郵便受けは空だった。中には薄く埃が積もっている。だが、指で拭うと、その奥にはわずかな紙片──おそらくは配達されたチラシの切れ端が引っかかっていた。

 ──生活の痕跡は、まだ消えかけたばかりだった。


 ドアノブに手をかける。鍵は開いていた。

 静かに押し開けると、湿気と埃と何かが腐ったような、重たい匂いが鼻を突いた。


 玄関を抜けて廊下を進むと、薄暗いリビングが現れた。


 カーテンは片側だけちぎれたように垂れ下がり、窓から差す光が部屋の埃を静かに照らしている。

 ダイニングテーブルの上には、食器が置きっぱなしになっていた。水の入ったグラスは乾ききり、白く曇っている。

 椅子の一つが倒れているのは、急いで立ち上がった名残か──あるいは、暴れた何かがいたのか。


 冷蔵庫の扉は半開きになっており、内部の棚は空だった。

 フローリングの床には、干からびたペットボトルが転がっている。


 そのときだった。

 榊は、部屋の隅──冷蔵庫の陰から漂ってくる、わずかな動きに気づいた。


 即座に右手が腰の警棒へと伸びる。

 反射的に後ずさりながら、死角を避けて視線を向ける。


 そこにいた。


 朽ちかけた肌。片方の肩口は破け、骨が覗いていた。

 細く呼吸をするように胸が動いているが、生きているわけではない。

 目はどこか焦点が合っていないまま、榊の存在に気づいたように首を傾ける。


 榊は息を殺した。

 ──距離、約二メートル。動きは遅い。叫び声も出さない。

 完全にゾンビ化していると判断し、警棒をゆっくりと引き抜いた。


 そのとき、男の躯が一歩、榊へ踏み出した。

 腐った靴底がフローリングを擦る音。

 榊の腕がわずかに引き絞られ、次の瞬間、無言で振り下ろされた警棒が──音もなく頭部を叩き割った。


 何かが崩れるような音とともに、ゾンビの身体が力なく倒れる。


 榊は一歩後ろへ下がり、なおも数秒間その場を見つめていた。

 動きは──ない。完全に沈黙した。


 ゆっくりと近づき、転がった頭部を確認する。

 片方の目の周囲には、かすかに眼鏡の跡が残っていた。肌の色と状態から見て、それほど前の死ではない。


 榊はふと、男の手元に視線を落とす。

 指には、薄い金属の結婚指輪がはまっていた。


 ──この家の主人。

 佐伯家の父親だったもの。


 榊は短く息を吐くと、周囲の安全を確認しつつ、ゆっくりと家の中を探索し始めた。


 死体の処理を終えた榊は、警棒を軽く振って血肉を払い、折りたたんで腰のホルスターに戻した。

 この家には、他にも何かが潜んでいるかもしれない。慎重に動く。


 リビングを見渡すと、棚の上に一枚の写真立てが置かれていた。

 埃を指で拭うと、四人の笑顔が現れる。


 ──父、母、娘、そして弟らしき少年。

 おそらく小学校高学年くらいだろう女の子と、まだピカピカの真新しいランドセルを背負った小さな男の子。手前には、慈愛に満ちたほほ笑みを向ける母親と、照れくさそうに笑う眼鏡の男──


 榊は写真と、さきほど倒した遺体の顔を見比べた。


「……間違いない。あれは、父親だな」


 静かに呟きながら、写真立てをそっと棚に戻す。


 ──では、残る三人は。すでにここにいないのか。それとも。


 榊は背筋を伸ばし、今度は1階の各部屋を調べて回る。

 浴室には、水の止まった蛇口と、カビの生えた洗面台。

 洗濯機の中には、洗いかけの衣類が固まっていた。

 その中に、子供用の靴下が一足だけ残っている。


 リビングとはドアで仕切られた和室の押し入れには、使用された形跡のある救急箱と、血の滲んだ包帯の切れ端。

 周囲には、かすかにアルコール消毒の匂いが残っていた。


 榊は静かに鼻を鳴らす。

「……手当てを試みた、か」


 リビングに戻り、先ほどの死体──おそらくは父親だった遺体に目をやる。


 倒れ伏した死体の右腕には、変色した包帯がぐるぐると巻かれていた。

 布の隙間からは、噛み跡と思しき黒ずんだ皮膚が覗いている。

 包帯はところどころ血で硬化し、乾いた裂け目からは内側のガーゼがはみ出していた。

 ──何日も前に施された応急処置。

 助けようとしたのか、それとも──最後の希望を繋ぎたかったのか。


 だが、それでも、助かることはなかった。


 空間には静寂だけが漂う。

 階段へ向かう足が震えるでもなく、重く沈み込むように進んだ。


 階段は軋むこともなく、静かに足を受け入れた。

 榊は上階の空気を慎重に読む。

 ──腐臭はない。物音も、吐息も、気配も、ない。


 二階の廊下には、うっすらと埃が積もっていた。

 小さな足跡がいくつか続いているが、その上に新しい痕跡はない。


 廊下の右手に、子供部屋らしき扉。反対側には、衣類や雑貨が詰め込まれた収納部屋。そして奥には、主寝室と思われる洋間。

 榊は部屋ごとに耳を澄まし、慎重にノブをひねって開けていった。


 ──全て、空だった。


 人影はなく、ゾンビ化した気配もない。

 誰もいない。生者も、死者も。


 榊はようやく警戒を解くと、廊下の突き当たりにある小さな部屋の前で立ち止まった。

 ドアプレートには〈ななみのへや〉──そこに書かれていた名は、少女のものだ。


 扉に貼られた動物のシール。縁の丸まった“がんばったね”シール。

 筆跡の幼い手作りの名札が、テープの端からわずかに剥がれかけている。


 扉を開き、中へ足を踏み入れる。

 室内は比較的整っていた。

 窓には遮光カーテン。ベッドの上には毛布が畳まれ、ぬいぐるみが並べられている。

 デスクの上には開きかけたままの筆箱と、書きかけのノート、いや日記帳だろうか。

 淡い夕光がカーテンの隙間から差し込み、机の上の日記はその光の中に浮かんでいた。


 榊は椅子を引き、静かに腰を下ろす。

 ページは無造作に開かれたままになっており、そこに淡い鉛筆の筆跡が残っていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 3月30くもり

 お休みがまた伸びた。ウイルスが流行ってるかもって理由で。

 休みは多いほうがうれしいはずなのに、外に出ちゃダメって言われると、まったく楽しくない。

 ハルキは「早く学校行きたい!」って怒ってたけど、わかるよね。


 4月1日(雨)

 雨なのに、外がすごく怖く感じた。テレビではずっと「感染拡大」って言ってるし。

「感染」って、どうなるの? お母さんは答えてくれなかった。

 お父さんは最近ずっと家にいる。会社にはもう行かないかも、って言ってた。

 お金のこと、大丈夫かな。私がバイトとかしなきゃいけなくなったらどうしよう。

 ……でも、私まだ小学生だし。できること、あるのかな。


 4月2くもり

 おとなりの柴田さんが引っ越した。

 車にたくさん荷物を積んで、田舎のほうに行くって。

 ……埼玉って田舎じゃなかったんだ。

「こんなところ、あぶないわよ」っていってた。

 お父さんもお母さんも、引っ越したいと思ってるのかもしれない。


 4月3くもり

 お父さんがリビングでずっとネット見てた。「避難」って、遠いところの話みたい。

 お母さんがキッチンでペットボトルに水を入れてたから少し手伝った。

 お風呂にも水をためてる。地震のときの対策みたい。

 怖いけど何も言えなかった。言ったら怒られる気がした。


 4月4日(晴れ)

 おとうさんが玄関に大きな木の板を打ちつけた。

 窓も雨戸を閉めっぱなしにしてる。

 昨日の夜、外から大きな音が聞こえたのと関係あるかも知れない。

 ハルキはテレビにあきて、外で遊びたいと言ってる。

 お父さんの言うこと、ちゃんと聞きなさい。


 4月5日(晴れ)

 ハルキが庭に出ちゃった。私が部屋で荷物整理してて、かまってあげられなかったから?

 サッカーボールを取りに行こうとしたって言ってた。

 でも、そのせいでお父さんがケガしちゃった。

 右手のひじから血が出てるの見ちゃった。

 お母さんが包帯を巻いていたけど、大丈夫かな。

 お父さんよりもお母さんのほうが泣いてた。

 玄関にあったバットにも血が付いててこわかった。


 4月6くもり

 昨日の夜、お母さんに「明日の朝、出るから準備してね」って言われた。


 お父さんの熱が下がらなくて、お母さんがすごく困った顔をしてた。

 夜中に二人でこっそり話してたけど、よく聞こえなかった。

 でも、お母さんが泣いてたのは分かった。


 ハルキが「お父さんもいっしょに行くの?」って聞いたけど、

 お母さんは「……うん」としか言わなかった。


 たぶん、お父さんはここに残るんだと思う。

 お父さんの顔、見たかったけど部屋には入らなかった。

 見たら泣いちゃうかもしれないから。


 今は持っていく荷物をまとめてる。

 余計なものは持っていけないから必要なものだけ。

 早く済ませて、お母さんを手伝わないと。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 榊は日記をそっと閉じた。

 日記は、あの日──四月六日を最後に、ぴたりと止まっていた。


 おそらく、このすぐあと。

 母親と、姉弟の三人は、夜明けと共に家を出たのだろう。

 感染した父親を、この家に残して。


 生き延びるために、それぞれが最大限にできることを考え、動いたのだ。

 それは判断であり、選択であり、そして結果だった。


 榊は立ち上がり、改めて部屋の中を見回す。

 過剰な荷物は持ち出されず、室内は静かなままだ。

 何者かに荒らされた形跡もない。母子は、この家を出る際、最後まで気配を消していたのだろう。

 ゾンビの注意を引かぬよう、音も足取りも抑えて。

 生きることに集中した痕跡だった。


 ──では、その後はどうなったのか。


 避難所へ向かったのか、それともより人気のない地域を目指したのか。

 いずれにせよ、楽観的な観測はできない。

 幼い子ども二人を連れた母親一人で、無事に生き延びるほど──この終末は、優しくはない。


 父親が、家族をその手にかけなかったという事実。

 それだけが、唯一の救いなのかもしれなかった。


 榊はノートを取り出し、日記の一部とともに、推測と記録を書き留めていく。

 そこに感情や感傷はない。ただ、あったことを淡々と記し、記録として残すだけだ。


 ノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


 手元の机の引き出しを開ける。使いかけの鉛筆や、削りかけのクレヨンの奥──

 小さな箱に、新品のシャープペンシルと替え芯がひと揃い残っていた。


 榊はそれだけを抜き取り、無言でバッグへ滑り込ませた。

 カーテンを閉めて部屋を出ると、もう一度、家の中を静かに見て回った。


 洗面所の収納棚からは未使用の歯ブラシと古びたタオルを数枚。

 台所の引き出しで乾電池の残りと、まだ使えそうな小型の懐中電灯。

 階段下の収納スペースには、ピクニック用のレジャーシート。

 どれも、ありがたく”拾わせて”いただく。


 重くなり過ぎない程度に生存に必要な物資を、肩のバッグに詰め込む。

 誰かの痕跡を拾い、己の命をつなぐための物も拾う。

 それが榊の今の生き方であった。


 最後に玄関の扉を開け、振り返る。


「……あとは、運だな」


 低く、誰に聞かせるでもない独白を残して、榊はドアを閉じた。


 家は再び、静寂の中に沈んだ。


 そして彼は、次の“痕跡”を探すために歩き出す。

 拾い屋の旅に、終わりはない。

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