表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/26

余話「終末都市の拾い屋②/祈りの終着点」

 街は静かだった。

 窓という窓は割れ、壁は煤け、空はいつまでも曇っている。

 道端には、自転車と一緒に倒れた骨と服の残骸。もはや見慣れた景色だ。だが、その日、榊は一棟のマンションの前で足を止めた。


 正面玄関の扉は、内側から椅子で塞がれていた。よほどの覚悟がなければ、こんな封鎖はしない。つまり、中に「何か」があるということだ。


 慎重に脇の非常階段へ回り込み、一段ずつ足を運ぶ。鉄の手すりは赤茶け、足音はコンクリに鈍く響いた。


 一階の通路を素早く覗く。郵便受けは空っぽで、ドアの隙間から覗く部屋はどれも荒れていない。生活感の残り香すらなく、埃とカビが匂いを占めていた。


 二階へ上がると、踊り場に古びた傘と片方だけの靴が転がっていた。

 誰かが慌てて逃げたのか、それともここで何かがあったのか。痕跡だけが、主を失ってそこにある。


 廊下の奥、壁に擦れたような跡があった。

 近づいてみると、それは人の指でなぞった痕のようだった。

 一見「助けて」とも読めるが、途中で崩れている。


 榊は一瞥をくれて、小さく鼻を鳴らした。


(こんな冷静な字を、死に際に書ける奴はいない)


 おおかた、パンデミック前に書かれた、近所の子供たちのイタズラだろう。

 足音を殺して次の階へ進んだ。


 三階。階段から近い部屋のひとつ、扉の鍵が開いていた。


 中は、異様なほど整っていた。乱れた形跡がない。物色された後もない。

 だが空気は、決定的に“死んで”いた。


 榊は一歩、二歩とリビングへ足を進める前に、耳を澄ました。


 ──ゾンビの気配は、ない。

 やつらは呼吸をしない。歩く音は乾いた擦過音。

 個体差はあるが、腐臭もそれほどではない。ただ、“居る”空間には独特の重さがある。

 空気がよどみ、音が籠もる。その感覚が今はなかった。


 それでも油断はしない。

 やつらの中には、ほとんど動かない“巣ごもり型”がいる。湿度と温度が揃えば、何ヶ月も物陰で動かないまま生き延びていることもある。


 榊は懐から折り畳み式の警棒を抜き、指先で軽く伸ばした。静音で展開できるよう改造したものだ。


 ──目視クリア、気配なし。

 ようやく、その判断を下してから、榊は足を進めた。


 リビング、目の前の光景に無意識に呼吸を止めた。

 丸く並べられた椅子に、数人の人間が座っていた。全員がうつむき、両手を膝に置き、ただ、静かにそこにいた。


 榊の目が周囲を舐めるように走る。

 窓は新聞紙で目張りされ、外界との接触を絶っていた。

 冷蔵庫は空。だが、排水トレイには乾いたカビの跡。数週間前までは稼働していた。

 床に落ちた紙類は丁寧に揃えられている。

 襲撃された形跡はない。物理的な暴力も、逃走の跡も、ない。


 ──つまり、外から死が来たのではない。

 この部屋の中心から、死は“広がった”のだ。


 いや──いた、ではない。”いたまま”だった。


 遺体は乾ききっていた。異臭はなかった。全員、眠るように、静かだった。中心には祭壇。薄汚れた布で包まれた“教祖”と思しき人物が、両手を胸に組み、横たわっている。


 壁には言葉があった。

 鉛筆、ペン、マーカー、血痕。

「愛とは受け入れること」「我らを罰したまうなかれ」「救いは天に、地には赦しを」

 意味のある文も、意味のない文も、判読不能なものもあった。


 榊は奥の部屋へ向かう。壁に貼られた紙が風で揺れている。窓は、割れていた。

 ベッドの上には一人の女性だったと思しき塊が、布団にくるまっていた。顔は見えない。

 その隣に、ノートがあった。表紙には、「しんじることで、たしかになる」とだけ、書かれていた。


 榊はノートを手に取った。ページの角は摩耗し、紙は湿気と乾燥を繰り返した跡がある。破れた箇所もあったが、字は読み取れた。


 一ページ目にあったのは、祈りの言葉だった。


 ──わたしたちは、見えないものを信じている。

 ──それが見えるようになるまで、待つ。信じる。それがわたしたちの“存在の証”。


 次のページからは、淡々と日付と出来事が並んでいた。


「4月12日 隣の家族が引っ越した。神の試練。

 4月17日 水の確保が難しくなる。浄化の儀式を繰り返す。

 4月25日 ○○さんが発熱。神の御心により選別が始まる」


 日記というよりは、記録。

 感情が排され、出来事が数字のように並ぶ。

 そして──5月末から文字の圧が変わった。


「見えない。不安が増す。

 誰も、信じているのか分からなくなる。

 でも、信じなければ、全部が、ただの恐怖になる。

 ……教祖様が、夜に泣いていた気がする。

 でも、それは夢かもしれない」


 ページの最後に、こう記されていた。


「明日、終わりが来る。信じたまま、眠る」


 榊はノートを閉じた。

 重さはない。ただ、乾いた紙と、薄い墨の匂いが指に残った。


 リビングに戻る。死者たちは何も変わらず、ただそこにある。

 教祖の周囲には香の跡。古びたお守り。使われなかった瓶の薬。


 祭壇の後ろ、小さな神棚の下に、もう一冊の手帳が置かれていた。

 それは、教祖自身のものだった。


 ──「彼らは、私を神と思い込んでいる」

 ──「私はただ、都市での混乱を避けてここに来ただけだ」

 ──「最初は“希望”を語った。それが必要だと思った」

 ──「でも、今は、どうだ。止められない。誰かが信じている限り、私は崩せない」

 ──「あの子たちは、私が背を向けるのを見ないように、目を閉じて眠っている」


 ページの途中で、ペンが止まっていた。


 榊は手帳を戻さず、自分のノートに一行だけ書き記した。

 「彼らは、最後まで、他人を信じていた」


 それが愚かだったのかどうか、今の榊には分からない。

 信仰は、人を支えることもあれば、壊すこともある。

 それでも──彼らは、生きようとしていた。自分なりの形で。


 榊は、ノートの余白に視線を落としたまま、思った。


 彼らは、幸せだったのだろうか。


 空腹と恐怖のなかで、誰かの言葉を信じ、寄り添い、命を終えた。

 それが愚かに見えても、滑稽に見えても──

 彼らには、最後まで“信じるもの”があった。


 では自分はどうか。

 信じるものもなく、ただ記録と痕跡を拾い続ける。

 それが“生きる”と言えるのか、時々、分からなくなる。


 だが、そうやって生きてきた。

 それ以外を選ばなかった。選べなかった。


 誰かの信じたものを拾うことで、自分はまだ“誰かの生”と繋がっていられる気がしている──その事実を、否定しきれない。


 ふと、誰かの囁くような気配が耳の奥をかすめ、榊は無意識に振り返った。

 当然、誰もいない。ただ、空気がわずかに揺れただけだった。


 部屋を出る直前、榊は壁に貼られていた“祈り”の紙を一枚、剥がした。

 そこに意味があるとは思わない。

 けれど、誰かが信じた言葉を、ただ風化させるには惜しかった。


 マンションを出ると、風が吹いていた。

 崩れた電柱の向こう、色の抜けた旗が一つだけ、かすかに揺れていた。

 何の印かは、もう分からない。


 榊はバイクにまたがり、エンジンをかけた。

 その音だけが、沈黙に満ちた街を裂いた。


 誰も聞くことのない祈りも、誰かが拾えば、言葉になる。

 そして言葉は、記憶となり、意味になる。

 それだけは、確かだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ