余話「終末都市の拾い屋②/祈りの終着点」
街は静かだった。
窓という窓は割れ、壁は煤け、空はいつまでも曇っている。
道端には、自転車と一緒に倒れた骨と服の残骸。もはや見慣れた景色だ。だが、その日、榊は一棟のマンションの前で足を止めた。
正面玄関の扉は、内側から椅子で塞がれていた。よほどの覚悟がなければ、こんな封鎖はしない。つまり、中に「何か」があるということだ。
慎重に脇の非常階段へ回り込み、一段ずつ足を運ぶ。鉄の手すりは赤茶け、足音はコンクリに鈍く響いた。
一階の通路を素早く覗く。郵便受けは空っぽで、ドアの隙間から覗く部屋はどれも荒れていない。生活感の残り香すらなく、埃とカビが匂いを占めていた。
二階へ上がると、踊り場に古びた傘と片方だけの靴が転がっていた。
誰かが慌てて逃げたのか、それともここで何かがあったのか。痕跡だけが、主を失ってそこにある。
廊下の奥、壁に擦れたような跡があった。
近づいてみると、それは人の指でなぞった痕のようだった。
一見「助けて」とも読めるが、途中で崩れている。
榊は一瞥をくれて、小さく鼻を鳴らした。
(こんな冷静な字を、死に際に書ける奴はいない)
おおかた、パンデミック前に書かれた、近所の子供たちのイタズラだろう。
足音を殺して次の階へ進んだ。
三階。階段から近い部屋のひとつ、扉の鍵が開いていた。
中は、異様なほど整っていた。乱れた形跡がない。物色された後もない。
だが空気は、決定的に“死んで”いた。
榊は一歩、二歩とリビングへ足を進める前に、耳を澄ました。
──ゾンビの気配は、ない。
やつらは呼吸をしない。歩く音は乾いた擦過音。
個体差はあるが、腐臭もそれほどではない。ただ、“居る”空間には独特の重さがある。
空気がよどみ、音が籠もる。その感覚が今はなかった。
それでも油断はしない。
やつらの中には、ほとんど動かない“巣ごもり型”がいる。湿度と温度が揃えば、何ヶ月も物陰で動かないまま生き延びていることもある。
榊は懐から折り畳み式の警棒を抜き、指先で軽く伸ばした。静音で展開できるよう改造したものだ。
──目視クリア、気配なし。
ようやく、その判断を下してから、榊は足を進めた。
リビング、目の前の光景に無意識に呼吸を止めた。
丸く並べられた椅子に、数人の人間が座っていた。全員がうつむき、両手を膝に置き、ただ、静かにそこにいた。
榊の目が周囲を舐めるように走る。
窓は新聞紙で目張りされ、外界との接触を絶っていた。
冷蔵庫は空。だが、排水トレイには乾いたカビの跡。数週間前までは稼働していた。
床に落ちた紙類は丁寧に揃えられている。
襲撃された形跡はない。物理的な暴力も、逃走の跡も、ない。
──つまり、外から死が来たのではない。
この部屋の中心から、死は“広がった”のだ。
いや──いた、ではない。”いたまま”だった。
遺体は乾ききっていた。異臭はなかった。全員、眠るように、静かだった。中心には祭壇。薄汚れた布で包まれた“教祖”と思しき人物が、両手を胸に組み、横たわっている。
壁には言葉があった。
鉛筆、ペン、マーカー、血痕。
「愛とは受け入れること」「我らを罰したまうなかれ」「救いは天に、地には赦しを」
意味のある文も、意味のない文も、判読不能なものもあった。
榊は奥の部屋へ向かう。壁に貼られた紙が風で揺れている。窓は、割れていた。
ベッドの上には一人の女性だったと思しき塊が、布団にくるまっていた。顔は見えない。
その隣に、ノートがあった。表紙には、「しんじることで、たしかになる」とだけ、書かれていた。
榊はノートを手に取った。ページの角は摩耗し、紙は湿気と乾燥を繰り返した跡がある。破れた箇所もあったが、字は読み取れた。
一ページ目にあったのは、祈りの言葉だった。
──わたしたちは、見えないものを信じている。
──それが見えるようになるまで、待つ。信じる。それがわたしたちの“存在の証”。
次のページからは、淡々と日付と出来事が並んでいた。
「4月12日 隣の家族が引っ越した。神の試練。
4月17日 水の確保が難しくなる。浄化の儀式を繰り返す。
4月25日 ○○さんが発熱。神の御心により選別が始まる」
日記というよりは、記録。
感情が排され、出来事が数字のように並ぶ。
そして──5月末から文字の圧が変わった。
「見えない。不安が増す。
誰も、信じているのか分からなくなる。
でも、信じなければ、全部が、ただの恐怖になる。
……教祖様が、夜に泣いていた気がする。
でも、それは夢かもしれない」
ページの最後に、こう記されていた。
「明日、終わりが来る。信じたまま、眠る」
榊はノートを閉じた。
重さはない。ただ、乾いた紙と、薄い墨の匂いが指に残った。
リビングに戻る。死者たちは何も変わらず、ただそこにある。
教祖の周囲には香の跡。古びたお守り。使われなかった瓶の薬。
祭壇の後ろ、小さな神棚の下に、もう一冊の手帳が置かれていた。
それは、教祖自身のものだった。
──「彼らは、私を神と思い込んでいる」
──「私はただ、都市での混乱を避けてここに来ただけだ」
──「最初は“希望”を語った。それが必要だと思った」
──「でも、今は、どうだ。止められない。誰かが信じている限り、私は崩せない」
──「あの子たちは、私が背を向けるのを見ないように、目を閉じて眠っている」
ページの途中で、ペンが止まっていた。
榊は手帳を戻さず、自分のノートに一行だけ書き記した。
「彼らは、最後まで、他人を信じていた」
それが愚かだったのかどうか、今の榊には分からない。
信仰は、人を支えることもあれば、壊すこともある。
それでも──彼らは、生きようとしていた。自分なりの形で。
榊は、ノートの余白に視線を落としたまま、思った。
彼らは、幸せだったのだろうか。
空腹と恐怖のなかで、誰かの言葉を信じ、寄り添い、命を終えた。
それが愚かに見えても、滑稽に見えても──
彼らには、最後まで“信じるもの”があった。
では自分はどうか。
信じるものもなく、ただ記録と痕跡を拾い続ける。
それが“生きる”と言えるのか、時々、分からなくなる。
だが、そうやって生きてきた。
それ以外を選ばなかった。選べなかった。
誰かの信じたものを拾うことで、自分はまだ“誰かの生”と繋がっていられる気がしている──その事実を、否定しきれない。
ふと、誰かの囁くような気配が耳の奥をかすめ、榊は無意識に振り返った。
当然、誰もいない。ただ、空気がわずかに揺れただけだった。
部屋を出る直前、榊は壁に貼られていた“祈り”の紙を一枚、剥がした。
そこに意味があるとは思わない。
けれど、誰かが信じた言葉を、ただ風化させるには惜しかった。
マンションを出ると、風が吹いていた。
崩れた電柱の向こう、色の抜けた旗が一つだけ、かすかに揺れていた。
何の印かは、もう分からない。
榊はバイクにまたがり、エンジンをかけた。
その音だけが、沈黙に満ちた街を裂いた。
誰も聞くことのない祈りも、誰かが拾えば、言葉になる。
そして言葉は、記憶となり、意味になる。
それだけは、確かだった。




