第20話「命といのち」
「中村、そろそろ着く頃だ」
山岡が無線機の送信ボタンを軽く押して呟いた直後、谷の向こうからエンジン音が控えめに響いてきた。小林が振り返ると、木立の隙間を縫って中村がロープを担いで現れる。
「うお、でっけぇな……マジで罠にかかってたのか、こいつ」
呆れ混じりの声を上げる中村に、山岡は短く「かかって、少し引きずって逃げた」と返す。熊の巨体はすでにロープと簡易ソリで固定されており、二人がかりで慎重に運搬が始まった。
道なき山道を、三人と一匹が慎重に引き返していく。ハチは前を歩きながら、常に周囲の音と臭いに耳をすませていた。
「……重っ。でも意外と滑るな」
中村が息を吐きながらも、ソリの下に敷いた枝葉の効果に驚いたように呟く。
「凍土じゃないだけマシだ。春先の泥道は滑っても進める」
山岡が静かに応じた。
* * *
仮拠点の裏手、使われていない倉庫のような建物の一角に、解体用の簡易スペースが設けられた。ブルーシートが敷かれ、吊り下げ用の鉄パイプが即席の足場にくくりつけられている。
「さあ、始めるぞ」
山岡が作業用ナイフを手にし、熊の腹を裂く位置を見極めながら、小林に声をかけた。
「見てろ。手順を覚えれば、お前でもできる」
緊張しながらも小林はうなずく。獣の匂い、血の臭い、湿った皮膚の下に詰まった肉の重み。それらが一気に現実味を帯びて迫ってきた。
山岡の手つきは驚くほど滑らかだった。皮を裂き、内臓を取り出し、部位ごとに肉を切り分けていく。小林は、横で説明を受けながら必死にメモを取る。
「心臓はいい。肝も火を通せば食えるが、生じゃ危険だ。胆嚢は毒、手を出すな」
「はい……胆嚢は毒……了解です」
山岡が手を止めずに続ける。
「内臓はすぐ処理する。鮮度が命だ。脂肪は部位で用途が変わる。保存用と調理用を分けておけ」
「はい。ちなみに保存用の最適な温度と塩加減、今の環境でやるならどのくらいですか?」
間違ったやり方で、せっかくの物資を無駄にしてしまうのだけは避けたい。
答えをその場で暗記し、脳内の引き出しにしまい込んだ。
中村はその横で、大鍋を準備しながら振り返った。
「川口さんが言ってましたよ。肉はうちが多めにもらう代わりに、小林さんに罠の仕掛け方と部品を渡すって」
「俺からお願いさせてもらったんだ。簡易罠じゃ熊は捕れないし、道具も持ってなかったから」
山岡が一瞬だけ作業の手を止め、小林を見た。
「獣ってのはこっちが思ってる以上に賢いし、必死だ。それこそ命がけでかかってくる。罠にかかっても油断するな。死んだふりもあるし、失敗もある。止め刺しは絶対だ」
あの山中での一撃が、小林の脳裏に甦る。あれは単なる殺傷ではなかった。命を“締める”という行為だった。
「……わかってます。今回のクマ狩り、山岡さんとハチが居なかったらどうなっていたことか」
小林は静かに答え、目の前で切り分けられていく肉の重さを、心のどこかで受け止めていた。
その後、手際よく処理された肉と内臓は、大鍋で煮沸、洗浄されたのち、分配と保存の準備へと進められた。
「この肋骨周り、いい肉だな……干しても焼いてもいける」
中村が肉塊を手に持ち、思わず笑う。
「名古屋の連中も喜ぶだろうな」
小林は頷きながら、それでもどこか冷静に自分の内面を見つめていた。
この命を食べることで、人は生きる。
ただの物資ではない。資源でもない。
これは「命のやりとり」だ。
解体場の片隅で、ハチが静かに横たわりながら、時折視線だけで作業を追っていた。まるで、その意味を理解しているかのように。
* * *
山岡の指示で、熊の肉の一部が作業台に広げられた。切り分けた肩肉や腿肉は、まだ温もりを帯びており、外気の冷たさと混じって白い蒸気を立てている。
仮拠点の裏手では、中村が即席の燻製装置を組み上げていた。金属のドラム缶を横倒しにし、内部に金網を渡す。その下には濡らした針葉樹の葉と乾いた枝。煙の量を抑え、肉が焦げないよう調整しながら乾燥させる仕組みだ。
「煙が出すぎると居場所がバレちまうからな。ほどほどでいいんだ」
中村がそう言いながら、手慣れた様子で薪の加減を調整していく。山岡はというと、切り分けた肉を塩で揉み込みながら、皮下脂肪の層を丁寧に剥いでいた。
皮は保存すれば革として使える。臭みを取るには時間がかかるが、捨てるには惜しい素材だ。
民家から拝借したまな板と包丁は一通り揃っているが、熊のような大型獣の解体には、道具の限界もあった。
出刃包丁に似た厚手の刃物を山岡が持ち込んでいたのが頼もしい。切り出した骨の周囲を削ぎ落とすには、それでも力が要った。
かつてのような衛生管理などできない状況だが、使い終えた刃先は、濡らした布で血を拭い、予備の水で簡単に流した。
「……生きてるって、より実感するよ」
ふと、そんな言葉が口をついた。
これまでの孤独な隠遁生活とは違った、エネルギーのやりとりをここには感じた。
誰にともなく漏らしたその独白に、山岡がちらと目を向ける。そして口元だけで、うっすら笑ったようにも見えた。
ハチは少し離れた場所で伏せながら、時折こちらを一瞥し、また静かに目を閉じている。
台所も冷蔵庫もない終末の暮らし。
けれど、こうして塩と火と煙を使って「冬の命」を保存していくその行為には、確かな意味があった。
ひとつの命を、余すことなく糧に変える。生き延びるというただそれだけの目的に向かって、手を動かし続ける。
それが今の自分たちの“日常”なのだと、小林は改めて実感していた。




