第2話「見知らぬ来訪者」
春の陽射しが山肌に差し込み、朝の冷たい空気を少しずつ和らげていた。
畑の手入れをしていると、小屋の外から乾いた音がした。動物かと思ったが、規則的に続く砂利を踏む音。思わず手を止め、斧を片手に門の影に身を寄せる。
木立の奥から、一人の女性が現れた。
派手さのないジャケットにロードバイク。ヘルメットの下からのぞく表情は疲労に濡れ、足を引きずっている。俺を見つけると、安心と緊張が混じった顔になった。
「——すみません、助けていただけませんか」
思い切った声に、俺も緊張を抱えたまま応じる。「その足、どうしました?」
彼女はバイクを降り、フェンスを背にしゃがみこんだ。
「……祖父母の家を探してたんです。村の外れにあるって聞いてて。でも、門扉の影から急にゾンビが飛び出してきて。避けることはできたんですけど、咄嗟に足をひねって……」
右足首が大きく腫れ、靴下には泥がこびりついている。
「それでも、自転車なら動かせると思って。煙が見えたので、誰かいるかもしれないと……」
確かに、薪ストーブの煙突からは細い煙が上がっていた。
まだ警戒は解けない。
「感染の傷は?」
「大丈夫、噛まれてません。蹴飛ばして逃げただけです」
彼女の目はまっすぐだった。
「わかった。中にどうぞ。自転車もそのまま入れて構いません」
俺は斧を手放さず門を開け、彼女とロードバイクを招き入れた。
門をくぐりながら、彼女は思わず庭を見回す。
「……畑も納屋も、しっかり手入れされてますね」
「生活の全部ですから」
小さな畑には春の準備を終えた畝と、納屋には道具や薪が積まれている。
「本当に、誰かがいる家だってすぐ分かりました。煙もだけど、畑や道具の感じが全然違う」
小屋の土間でシューズを脱いでもらい、木の椅子に座らせる。
斧をそっと壁際に置き、手早く応急セットを用意した。
「足、見せてもらいます。冷やしたほうがいい」
腫れた足首をチェックしながら、
「俺は小林。小林誠」と名乗ると、
「私は岸本紗季です」と、彼女もきちんと返してくれた。
名乗り合うことで、少しだけ空気が柔らかくなった。
足首は捻挫だった。骨には異常はなさそうだが、腫れがひどい。消毒して包帯を巻き、氷嚢を作る。
「氷があるんですか?」と驚いた顔を見て、俺は微笑んだ。
「冬のあいだに池に雪や氷を溜めて、藁と土で断熱して保存してあるんです。冷蔵庫はもう動かせないから」
「すごい……」
彼女が氷嚢をあててほっと息をつくのを見て、俺も少し肩の力が抜けた。
「ここでしばらく休んで、明日以降のことを考えましょう。動かすのは危ない」
「本当に、ありがとうございます」
俺自身も、パンデミック後にこうして誰かをしっかり家に招き入れるのは初めてだった。
感染リスクも警戒もある。けれど、目の前の困っている人を放ってはおけない。
「消毒や感染対策は徹底してるので、安心してください」
湯を沸かして風呂の準備をする。
「お風呂、よかったら使ってください。傷も洗って消毒して」
「お言葉に甘えてもいいですか?」
「どうぞ。薪で温める浴槽なので、湯加減はいいはずです」
浴室の戸の向こうで、控えめな水音と石鹸の香りが漂う。
人が風呂に入る音を聞くのは、いつ以来だろう。
紗季は静岡大学を卒業後、地元の旅客鉄道会社で働き始めたばかりだったという。パンデミックで家族と離れ離れになり、各地のシェルターや避難所を渡り歩いた末、両親の安否を求めてこの村まで来た。
彼女の話はどれも興味深かった。
特に都市部のゾンビについての情報は、俺にとって新鮮だった。
「都市部の攻撃型ゾンビも、夜になると動きが鈍くなるんです。“眠るゾンビ”って呼んでました」
「本当に? あの狂乱型ですら?」
「全部じゃないですけど、多くは夜になるとほとんど動かなくなる。シェルターの仲間たちは、それを利用して夜間に物資調達してました。でも、被害がゼロってわけじゃないですけど」
「……なるほど」
俺は無意識のうちに、いつもの癖でポケットから手帳を取り出し、話をメモした。
“都市部ゾンビ:夜間に活動が大幅に低下(眠る?)
生前の人間の習慣が何か反映されているのかもしれない——”
ページの隅にそう書き足して、ふと顔を上げる。
もしかすると、ゾンビにもどこか「人間だった頃の名残」が残っているのかもしれない。
ただの怪物ではなく、元の人格や生活リズムの断片がまだ身体の奥底に棲みついている——
そんな仮説がふと頭に浮かび、胸の奥が少しざわついた。
夜はベッドを譲り、自分はソファで横になった。
「迷惑をかけてすみません」
「大丈夫。怪我人を夜道に放り出すわけにもいかないし」
二年ぶりの異性の存在に、どこか落ち着かない。でも、警戒を緩めすぎないよう自分に言い聞かせる。
夜の静寂の中、遠くでフクロウが鳴く。
誰かがいる安心と、久しぶりの緊張。
そして、今日得た新しい“謎”について、考えが頭から離れない。
その夜、俺は新しい名前と、手帳に走り書きした言葉を何度も思い返しながら、薄い眠りについた。